伝説のガラス工芸家 ルネラリック Rene Laliqueフランスの真実の歴史
目次
ルネラリック~巨匠の中の巨匠~
動画で簡単に歴史を知りたい方はこちらから↓
ルネラリックは、産業革命前の19世紀、ヨーロッパの片田舎に生まれました。
その頃は、電球、電話、自動車、洗濯機、電気そのものがなかった時代です。
いわゆる“原子力時代”の夜明けと言われる1945年に彼は亡くなるのですが、それまでに2世紀を股にかけて2つの職業を全うしたルネラリック。
1900年、40歳の時には、世界で最も有名な宝石職人かつ偉大なアールヌーボ様式のアーティスト・デザイナーと言われました。
ところがアールデコ時代全盛期の1925年には、世界で最も名高いガラス職人になっているんです!
その間ラリックは、創造的でユニークな装飾品を作ることをやめ、刷新的で利用しやすい芸術的ガラスを大量生産しました。
人々の日常生活に、ガラスを導入するという、今までになかったことを成し遂げたんですね。
産業革命に対応するように、コストを下げて大量生産を行うことで、世界中の人々がラリックの作品を欲するようになったようです。
確かにラリックは宝石やガラス製品で名声を得ましたが、彼の最も偉大な功績は、彼自身が生きる世界を変えたことではないでしょうか。
彼は内戦の時代から第二次世界大戦の頃まで生きた人ですが、世界が変わるたびに、ラリックも変わっていったのです。
職や活躍の場を劇的に変えることで、新たな大量生産の最前線に自ら立っていたのですね。
彼は、宝石商であり、ガラス職人であり、そしてアーティストだったのです。
先見の明と刷新力を持ってこれらの才能を結びつけ、市場の需要を満たすだけでなく、物作りに打ち込んだことが彼の偉業といえるのではないでしょうか。
芸術家としての才能や偉業と、産業における力量が相まって、世界クラスの実業家となったのです。
アーティスト、デザイナー、宝石職人、ガラス職人、実業家…
そんな数々の才能を持つ未来を見据えた人物!それが、ルネラリックなのです。
ルネラリックの歴史
1860年、フランスのマルヌ県アイ村(元シャンパーニュ地方)に生まれたルネ・ジュール・ラリックは、1945年に死を迎えるまでの長いキャリアの中で様々な分野でトップにのぼりつめています♪
ラリックが2歳の頃、家族でパリ郊外へ引っ越し、やがてリセ・テュルゴーにある学校へ通います🏫
その後1876年に父親が亡くなると、16歳の時に宝石細工師のルイ・オーコックに弟子入りするんです。
当時オーコックはパリで一流の宝石職人だったので、一から宝石の製作やデザインの修行をするには最高の機会だったんですね。
オーコックの元で働きながらも、ラリックはフランスの装飾美術学校で学びました。
1878年には、イギリスのシドナム(現在のグレーター・ロンドンの一部)にある大学へ通い、1880年にフランスに戻っています。
パリに戻るとすぐ、親戚のM. ヴィレルの元で宝石のデザインを仕事にします。
また、バーナードパリッシーで、彫刻家のジャスティン・ルキアンの元でも学んでいるんです。
1881年までにはフリーランスのデザイナーとしてカルティエやブシュロンといった大手企業や個人顧客と契約していたそうです。
1886年ごろには、パリのジュール・デスタペのワークショップだった場所で、ラリック自らのワークショップを開きました。
またこの年、最初の婦人マリー・ルイ・ランバートと結婚します💓(結婚式を挙げたのは1887年という説も♪)
1888年に第一子ジョルジェットをもうけますが、1910年に亡くなっています・・・
ラリックは1898年に夫人と離婚しましたが、法律的には1893年に正式離婚となったそう・・・
1890年には、パリのテレ-ズ通り20番地というおしゃれなオペラ地区に宝石店を開きます💍✨
同年、彫刻家オーギュステ・ルドリュの娘、オーギュステ・アリス・ルドリュと出会い、再婚するんですね💕
ここで仕事をし、店の2階に住みながら、ラリックの優れた宝石のデザインが生まれるのですが、この頃からガラスを使うことも多くなっていくようです。
ラリックが宝石の主なモチーフにしたのが、自然の世界です。
フランスの片田舎の自然だけでなく、実は日本の自然にも影響を受けているんです。
そして、当時はまだ広く使われていなかったガラス、角製品、真珠、半貴石、エナメル、象牙といった高級な装飾品にもその自然の雰囲気を乗せていったそうです♩
その宝石としての価値よりも、原石がもたらす芸術性に重きを置きました。
それゆえに、裕福な宝石愛好家だけではなく、作品を芸術とみる世界のラリックファンが増えていったようです。
1892年、ラリックとオーギュステ・アリス・ルドリュとの間に長女、スザンヌが生まれました💓
1894年の半ば頃には、ラリックはパリの宝石やファッション業界で有名になっていました。
ラリックの得意客として有名なサラ・バーナードに宝石のデザインをしたり、1895年には“サロン”で展示会を開いたり…
こうしてラリックの作品はサミュエル・ビングの“アールヌーボーの家”という画商店などで見ることができるようになりました!
1897年には、パリの“サロン”へ象牙と角製品(くし)を展示して一位を獲得。
同年、ブリュッセルのワールドフェアに出展した宝石がクロワ・ド・ラ・レジオン・ドヌールを受賞。
1900年には5000万人が訪れたパリの万博で、ラリックの宝石がセンセーションを巻き起こしました。
このとき出展したのは宝石だけではなく、ブロンズ、象牙、ガラスなどを使った装飾品も。
その年の終わりには、当時最高の宝石職人、最高の装飾芸術家として名をはせることとなりました!
オーギュステ・アリスの2番目の子どもマルクはこの年に生まれています。
ラリックとオーギュステ・アリスは1902年に結婚を果たしたのですが、何とその7年後、39歳の若さでアリスは亡くなってしまいます。
1904年、ラリックはセントルイスで行われたワールドフェアに出展しますが、このとき、世界最高のガラス細工職人だったエミール・ガレが亡くなった時でもありました。
ガレは、ラリックのことを“現代宝石の発明家”と呼びましたが、ラリックのガラス細工のデザインや作品を見ずに亡くなっています・・・
1907年、ラリックは1904年~1905年にかけてロンドンで知り合ったフランス人女性との間に、1907年、ルネ・ル・メニルという息子をもうけます。
メニル氏は、“The Kiss”で知られる有名なブローチを1960年に寄付したとして、パリ装飾芸術美術館のリストに載っています。
このブローチは1905年にさかのぼり、”永遠に続くキスを夢見て…“という意味のフランス語が刻まれています。
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ガラス製品に携わる背景
ラリックの宝石作家としての終わりを迎えるころ、宝石とユニークな物にガラスを組み込んで実験のようなことをしています。
ガラス職人としてのキャリアを終える前には、
灰皿、印鑑、スタンプ、時計、文鎮、車のマスコット、
花瓶、デカンタ、ピッチャー、眼鏡、脚付きグラス、皿、ボゥル、ナイフ置き、ランプ、照明器具、
ペンダント、ブローチ、ネックレス、銅像、ガラスパネル、噴水、ドア、香水ボトル、箱、
メニューホルダー、インクボトル、鏡、フレーム、
様々な機能的かつ装飾的なテーブルウェアなど、1500にも及ぶガラス製品を作り出しました👀!
他にも、賞を獲得したロストワックスの花瓶など、今日の収集家が求めてやまない作品を作り出しています。
1902年には、パリからさほど遠くないクレールフォンテーヌにある家でガラス作品を製作しています。
1912年あたりまではそこで制作を続けているようです。
1910年より前には、コン・ラ・ヴィルの工場でも製作活動をしているようです。
1912年ごろには香水のボトルに加え“ラリックガラス”の様々な作品を作り、パリの“サロン”での展示会を成功させています。
また同年、ヴァンドーム広場にて“ラリックガラス”の作品の展示会を開いています。
絵入りの招待状は、緑色のガラスのメダル風で、裏にはヤドリギが描かれていたとか。
1912年12月の“ラリックガラス”エキスポのプロモーションのためのものだったんです。
第一次世界大戦中、ラリックの工場では、病院で使われるガラスボトルや入れ物など、戦時中に必様なものを多く制作していました。
このように、1920年まではロストワックスの花瓶から灰皿、容器、テーブルウェアなど様々なガラス装飾品が作られました。
何百、何万という製品が、時に一点物、時に大量生産の形で作り出されています!
ガラス工芸という業界にもたらしたデザインの才能にはすごいものがありますね。
車のマスコット、照明器具、銅像、噴水などなど…。
多いときで同時に700人もの従業員を雇い、人々の日常に使い易い装飾品をもたらし、多くの人がラリックの作品を求めるようになっていきました。
しかし、ラリックはこの魔法のようなガラス工芸をただ生産するだけにとどまりませんでした。
エナメルを施し、緑青付けをし、フロスティングやポリッシングを行い、さらに他にはない理想的な装飾物を作り上げたのです。
1920年までに、ラリックガラスへの需要は相当な物でしたが、フランスのアルセーヌ地方のウィンジャン・シュル・モデにある新たなガラス工場で働き始めます。
この新施設は1921年に完成しています🏭
このときインタビューに答えた彼は、
「ガラスの値を下げ、もっと多くの作品を作りたい。そうすれば私のガラスアートは、全ての家庭に届き、たくさんの人に手にしてもらうことができる」
と述べたそう。
1920年半ば、あと2人の子どもが生まれます、生涯で6人の子どもを持つんですね♩
二人目の夫人が65歳で亡くなって16年が経った頃、1925年にジャン・レイモンド(マリー・アンリとの間に生まれた2人のうちの1人)の父親となり、2人目の子(娘のレネー・ジャン・ジョルジェ)は1927年に生まれています。
ルネラリックのガラス作品をほぼ完璧に網羅している本は、
R. ラリック カタログ・レゾネ De L’oeuvre De Verreの新刊2011年版です。
ルネ・ラリックのガラス作品約4000点が、1064ページにわたって写真で紹介されています。
本の重さは約12ポンドで、31 cm×24 cm×8 cmです。 2011年9月にリリースされた最新の完全版です。
ルネ・ラリック モデル:Cat-Res-4
写真が4000枚と満載なのでとても勉強になりそうです👀✨
香水ボトルの制作
1905年、パリのヴァンドーム広場に小売店をオープンしました。
1935年までの30年間、この地で店を開いたあと、リュ/ロワイヤル11に移転します。
このヴァンドーム広場の店は、偶然にも香水店フランソワ・コティの店の隣りだったのです。
1908年までにガラスを使った宝石や装飾品の試作に成功し、この年始めて香水のボトルラベル、そしてボトル自体のデザインも手がけました。
これまで香水ボトルは、ただのフラスコ同然のものでした。
しかし、大量生産できる合成オイルの発明によって、毎日使うボトルを芸術作品に変える可能性を見いだしたのです。
先を読んだ香水ボトルの製造者となったラリックは、何百というラリック・香水ボトルを数々の企業のためにデザインし、製造しました。
コティのために作った最初のデザインは、ルグラのガラス作品でしたが、1908年~09年には新たにコン・ラ・ヴィルにもガラス工場を借りました🏭(1913年に買い取っています)
このあたりから、宝石のデザイナー、製造者から、
ガラス工芸品のデザイナー、製造者へと移っていくことがわかります。
1905年、高さ10cmの涙の形をした、ブロンズのキャップのついた香水ボトル(Sirenes Cire Perdue) が作られました。
それが2012年の10月、日本の東京で発売になったんですよ。
ルネラリックの香水ボトルのオークションで、2875万円(37万ドル)という史上最高額を出したんですって👀!
ルネラリック香水ボトル資料(RLalique.com) | |
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花瓶の作成
ルネラリックの最も有名で優れた作品は、ガラス製の花瓶ではないでしょうか。
早くも1898年には、金属細工のフレームのついたヘビの形の“ルネラリック花瓶“が存在しています。
でも公には登場していないんです。
白鳥をかたどった”ラリック花瓶“は、最近南アメリカで発見され、世界に向けて展示されました。
資料に残されている花瓶としては、パリの装飾芸術美術館のコレクションに展示された1909年にさかのぼります♪
1910年から1912年にかけて、(ほぼ)一点物の作品をいくつか作っていますが、1911年、大量生産という形で” Frise Aigles“ と ”Quatre Masques“を初めて制作したようです。
その後30年に渡って花瓶を作り続けますが、アールヌーボや自然界をモチーフにしたものから、
特に1920年半ばから第二次世界大戦の勃発の時期にはアールデコ調、幾何学模様の作品を多く生み出しています。(後に発見されたユニークなcire perdueの花瓶を除いて)
300以上もの花瓶が資料に残されていますが、販売目的で作られたのは10~20作品ほどでした。
ルネラリック花瓶資料(RLalique.com) | |
ルネラリック花瓶関連のニュースおよびブログ記事 | ルネ・ラリックのコピー品に騙されない!実例集 |
車用マスコット
ルネラリックの車用マスコットは、今日では伝説とまで言われ、彼の作品の販売価格は、20万ドル(2100万円)を超えるものもあります!
ボンネット用オーナメントが最も人気で、ルネラリック作品愛好家ばかりでなく、ガラス作品やアンティークの車コレクターからも求められています。
当時の高級車にも、彼の作品のマスコットが飾られていましたが、今日でも、自動車展示会、個人のコレクションおよび自動車博物館の最高級車のフードに彩りを添えています。
マスコットを支える土台のデザインも手がけ、土台の中に特別なワイヤーや照明をセットし、車が動くと様々な色で光るような仕掛けを施したりもしました。
車が速く走れば、より明るく光るような装置を買い求める車のオーナーもいたそうです。
初期の頃のマスコットの中には、Cinq Chevaux (5頭の馬)など1925年に自分のシトロエンのために作ったものもあります。
1925年からの6年間で29ものマスコットを制作したラリック。
その中には、商売用ではなく、イギリスの皇太子のために作ったものもあるそうです。
さらにはSirene(小さな人魚)をモチーフに車のマスコットを制作し、これで30体。
もう1体、Statuette Naiade (大きな人魚)も車のマスコットと考えると31体になるのですが、これが実際に販売されたかどうかの証拠はないようです。
こうして実際に31体のマスコットを制作し、そのうち30体が商用モデルだったということのようです。
ラリックのマスコットの中でもレアで魅力的な作品は、オークションに出るとすぐに注目を集めます。
こちらのVitesseのマスコットは2009年イギリスの地方のオークションハウスに登場しました。
コレクターやディーラーなどが集まるオークションルームで、注目を集め、およそ29000ドル(308万円)で落札されました。
2011年11月、ペンシルバニアの小さなオークションハウスで行われたオークションで、ルネラリックの車用マスコットの中では世界最高額が出ました。
最終的には204750ドル(2178万円)に到達してます。
この額も、実は9ヶ月後にカリフォルニアのカーメルのオークションで落札されたラリック自身の作品(車のマスコット)に追い抜かされることになるのですが…。
(このときの落札額は、338500ドル(3600万円)でした!)
ロストワックス製法を生み出す
1900年から1933年(主に1912年から1932年)にかけて、
およそ700ものラリックのロストワックス作品が見られます。
なかでもほとんどの作品は1919年から1923年の間に集中して作られているんです。
1912年から1914年にかけては、ラリックの2つの大作が生まれました(写真参照ください♪)
(8匹のインコ、Huit Perruches)をモチーフにした花瓶はラリックという偉大な職人の芸術的技術的粋といえるでしょう♪
ロストワックスは、まずデザインを彫り、ワックスのブロックに入れて作ります。
そして粘土の型がワックスの周りに作られ、乾燥させます。
こうすることで、ワックス型の中のデザインが型の内部に刻まれます!
型が乾いたら、ワックスを溶かすために暖め、型から外します。
そこからロストワックスと呼ばれるんですね。
ワックスがなくなったら、溶かしたガラスを型に吹き込みます。
すると、吹き込む際の圧力で、デザインができあがります。
ガラスが冷めたら、型を外して中身を取り出します。
これにより典型的な型からは作り出せないものを作ることができたのです。
ラリックのロストワックスは、特に状態の良い物は非常にレアです。
この15年間でオークションに出品された彼のロストワックス作品のうち半分以上は、ダメージを負っていました・・。
ダメージのないものも含め、下欄の“ロストワックスに関するニュースおよびブログ“でご覧いただけます。
オリジナルのもの、状態のいいものは、非常に芸術的な価値が高く、オークションに出品されると多くの人が手をあげるのです♩
ルネラリック・ロストワックス資料(RLalique.com) | |
ルネラリック・ロストワックスに関するニュースおよびブログ記事 | ルネ・ラリック(Rene Lalique)のロストワックス作品紹介から偽物、本物判定の仕方まで! |
ルネラリックが手がけた建築物
1902年には、ラリックの最初で最高傑作とも言われる建築物が見られます。
これは1902年 、パリのクール・ラ・レーヌ40番地にあるマンションに寄付されました。
現在のクールダルベルト1番地です。
家自体をデザインしたことはありませんでしたが、有名なラリックガラスのパネルドアを始め数々の家庭の装飾品を生み出しました。
こちらは松かさや松の枝を描いており、ドアの周りの壁に埋め込まれました。
このマンションは、ショールームやワークショップにも使われたところです。
1911年に作られたニューヨークのコーティビルのラリックウィンドウなど、数々のガラス細工もデザインしました。
このビルは現在、ヘンリ・ベンデルのショップなどが入っていますが、未だにこのラリックウィンドウが残されており、マンハッタンの5番街712番地のビルの内外から眺めることができます。
彼は、世界中の様々なビルにガラス作品を使用するため、数々の建築作品も引き受けています。
1920年代初頭には、ガラス工芸の才能を、様々な船舶のインテリアデザインや製造作業にまで広げました。
船舶 の中には、パリ号(1921年)、イル・ド・フランス号(1927)、そして最も有名なノルマンディー号(1935)などもあるんですよ〜。
これらは、当時人間が動かす最も大きな建造物でした。
1925年といえば、パリの万国博覧会の年ですが、ラリックはこの頃までに業界では群を抜いており、このアールデコの展覧会へ参加した頃が彼の最盛期とも言えます。
ガラス製の泉“ Les Sources De France”はこの展覧会で大成功を収めます。
他にも、展示会用や生活に使える物、例えばles Ronds-Points des Champs-Elysees(セシャンゼリゼ通りの円形交差点)を制作していますが、こちらは後に維持費がかかりすぎて取り壊されています・・・
1927年には、数々の建築依頼の一環として、ロスにオヴィアットビルをたてるための建築の一部をデザインします。
この時、こちらに示してある黄色の建築ガラスなどをロスに運ぶため、パナマ運河を越えて30トンものラリックガラスを輸送しているんですって。
1927年にはあのオリエント急行のダイニングカーを、1929年には上海のピースホテルのデザインを依頼されました。
1930年代初頭には、ジャージー州ミルブルックにあるセント・マシュー教会のすばらしいガラス細工に感銘を受けたトレント氏から依頼を受けたりして、さまざまなデザインワークを行っています。
この依頼は1934年に完了し、いまでもセント・マシュー教会は“ガラスの教会”として名をはせています。
また皇居にも象徴的なドアをデザインしています。
現在は東京都庭園美術館となっており、ラリックのドアやシャンデリアなど数々の優れた作品を見ることができます。
2011年11月、パリのサザビーにおいて、ドア一式が単一のラリック作品としては最高額の175万ユーロ(2億2000万円)という驚くべき落札額が出ました!
ルネラリックのサイン&マーク
ラリックは、本人が作った作品および本人監督の下で作った作品にはほとんどサインをしています。
ほとんどがRLaliqueと記されていますが、簡にLaliqueだけのものもあります。
写真のように制作国(もちろんフランス♪)やモデルナンバーを書き込んだ場合もあるみたいですね。
サインだけで本物かどうかを見分けるのは難しそうです。
時に簡単にわかりますし、そうでない場合もありますね。
さらなる詳細、また本物のラリックのサインの例などにつきましては、下欄のリンクからどうぞ♪
サインについての“Q&A”などもご用意しております♪
ラリックの死
第二次世界戦争によって、ルネラリックの制作活動やビジネスは終わりを迎えます・・・
こちらは、1939年10月30日号のタイムマガジンに掲載されたラリックの心痛む記事についてのブログです。
戦争が拡大する中、守るべきものを守るためにラリックがウィンゲン工場へ急ぐ様子が書かれています。
ラリックは、1945年5月5日、パリのクール・ラ・レーヌ40番地にある、ガラスパネルのドアで彩られた自宅で亡くなりました・・・
アルザスにあるウィンゲン工場が同盟軍によって開放され、価値のある作品すべてが無傷であったことを知らされた数日後に息を引き取ったのです。
彼は現在、パリのぺーレ・ラシェーズ墓地の自分がデザインしたガラスの墓石の下に眠っています。。。
二人目の妻であったオーギュスティン・アリス(1909年没)と息子マーク・ラリックと共に…
もしパリに行く機会があったら、ラリックのお墓へ行って、花束をたむけ、偉大な芸術家のことを思ってもいいかもしれませんね♪
クリスタルの継承
ルネラリックの死後、息子のマルクが、M.ラリック(後にクリスタル・ラリック)として後を継ぎました。
マルクは父親の有名なガラス細工から離れ、より重たい鉛クリスタルの生産へ変更していきました。
写真のクリスタル・ラリックの花瓶“Agadir”がその例です。
マルクが1977年に亡くなってからのクリスタル製造ビジネスは、娘のマリー・クラウド・ラリックへと受け継がれます。
1994年にはフランスのポシェ社に売却され、マリーは2003年4月14日、67歳の時、フロリダのキャプティヴァ島で亡くなっています・・・
2008年、クリスタルラリックは、スイスArt & Fragrance社、パリを拠点に置くホールディング会社Financière Saint-Germain (FSG)に共同買収されています。
FSGハビランド磁器やドームクリスタルも所有している企業です。
Art & Fragrance と FSGは、クリスタルラリックのマーケティングとビジネスの管理を統合し始めます。
これにより、ラリックーハヴィランドという両方の商品を持つ店をオープンさせました。
しかし2010年の終わり頃、二社はパートナーシップを解消し、クリスタルラリックの所有権は、Art & Fragranceに返却されることになりました。
マルク・ラリックにより始まったクリスタルの作品は、全世界の店舗で販売されるようになり、有名な“バッカスの巫女“のようなルネラリックのガラスデザイン(オリジナル)などのクリスタル版複製品なども含まれています。
特に2009年~2010年の頃の作品の複製品が多いみたいですね♩
クリスタルで作った複製品で、現代のラリック社から出回っているもののリストを以下にまとめました。
🚗車のマスコット(文鎮として販売):Vitesse、 Victoire、 Chrysis、 Perche、
Sanglier、 Tete de Paon、 Tete D’Aigle、 Coq Nain
🌸花瓶:The vases Languedoc、Serpent、 Bacchantes、Mossi (この花瓶は大型版)、
Boulouris、Royat、 Ibis、 Courlis、Beauvais、 Tourbillon、 Sauterelles、 Acacia、 Avallon、Languedoc、 Bagatelle
○ボウル: Nemours、Sirene、Volubilis、 Marguerites、 PInsons、 Cote d’Or
The statue Grande Nue Socle LIerre (通常“Grande Nue”とだけ呼ばれる).
○香水ボトル: Hirondelles と Sans Adieu (後者は大型版)
○デカンタ:Sirenes Et Grenouilles and Cep.
○メダリオン: Gui.
○パネル:Figurine Et Raisins De Profil.
クリスタル・ラリックにより再現された作品は、下欄をご覧ください💓
ラリッククリスタルは、ロンドン、ニューヨークなどにあるラリックの“ブティック”でも販売されています。
今日のルネラリック
今日、ルネラリックの作品は、RLaliqueという名で知られ、
様々な分野のコレクターらに人気があります💓
死後60年経った今も、世界から求められているのです✨
オークションハウス、博物館でのコレクションや展示などによって、
ラリックの作品は個人取引の場にも登場します☝️
EbayからChristies、パリから東京まで、
小さなギャラリーからニューヨークのメトロポリタンミュージアムまで、
あらゆる公の場で目にすることができるのです👀✨
香水ボトルの収集家らは、RLaliqueボトルを非常に高く評価しています♩
RLaliqueのガラス建築依頼品、窓、ガラスパネルなども、
オークションに登場すると入札の嵐👀‼️
スタンプ(印)の収集家らもRLaliqueデザインを愛し、
宝石コレクターらもオークションで高い値を付けます💍✨
花瓶は世界中から愛され、ロストワックス作品や車用マスコット、灰皿、
テーブルウェア、皿、ボウル、照明器具、インク入れ、時計などなど・・・💕
どれをとっても、彼の芸術的才能が溢れています(*^^*)
死後60年経った今でも忘れ去られることなく、様々な分野で輝いている…✨
このウェブサイトはそんなRLaliqueの粋を余すことなく伝えているんです♪
オークション
R.Lalique.comでは、世界中の国々でガラス細工をはじめとするルネラリックの数千もの作品がオークションにかけられた様子をカタログにし、報告しています✨
2014年の終わり頃には、オークションのレポートは1万を超えました👀‼️
オークションハウスでの実演の他に、オンラインでも行われています♩
出品数が一番多いのはテーブルウェアです。
生産数が多いので、モデルやサイズが豊富なんですね💓
皿、ボウル、グラス、脚付きグラスなど様々なテーブルウェアがオークションに現れます♪
他にない独特なラリックの宝石類は、1つ何十万ドルという値がつくこともあり、ラリックの作品では群を抜く高さです✨
2009年全体で一番高値がついたのは、ラリックのたった5つの宝石と聖杯が1つのセット(ニューヨークのクリスティーズにて。2009年10月)でした!
この6品のセットで、30万ドルというから驚きです👀💦
ペンダントは、ニュースおよびブログ記事(RLalique.com)にありますように、55万4500ドルという高値で取引されました(^^)
写真の杯は、同じオークションで取引されたものです☝️✨
2012年までの取引の中で最も高値で落札された香水ボトルは、レアな1936年のボトル”Tresor de la Mer” で、サックスフィフスアベニューのために100点限定で制作されたものです👀💕
乳白色のガラス製オイスターシェルの中に、同じくガラス製の真珠が施されています✨
2006年11月ニュージャージー州ラゴにて、タグや箱が付いた完全オリジナル品が21万6000ドルで落札されました(^^)
(RLalique.com の“ニュースおよびブログ”をご参照ください♪)
もともとの小売価格は50ドルだったんですよ👀‼️
この落札価格も、2012年の10月には別のラリックの香水ボトルが塗り替えちゃうんですけどね💦
ラリックの花瓶もオークションに出品され、非常に人気があります💕
2009年, 1909年作の“Deux Cigales” は、オークションで30万ドルを超える高値が付きました👀💦
(RLalique.com の“ニュースおよびブログ”をご参照ください♪)
人気の高い同時生産の花瓶も、おおむね1万ドル(106万円)〜5万ドル(533万円)の落札額で、中でも先ほど載せた琥珀色のヘビ模様の花瓶は、ヘリテージオクションにて4万8000ドル(500万円)で落札されています☝️
また、何千もの他の花瓶も、世界中のオークションに登場しており、数万ドルから数十万ドルの間で取引されています(^^)
今日でも、様々なテイスト、予算、好みの色に合わせてラリックの花瓶を選択することができるんですね♩
ガラスパネル、ドア、ファウンテンの一部などの建築アイテムは、家庭やオフィスで使われるような装飾芸術品などとは違ってそれほど登場回数は多くありません✨
それでも、先ほどのオビアットビル用に作成された建築作品など、市場に出回ることもあるんです👀
このパネルは2009年にオークションに登場しました☝️
(RLalique.com の“ニュースおよびブログ”をご参照ください♪)
ロストワックスの作品では、1913年作“Roses”という花瓶が1998年のオークションにて40万ドルで、また1914年作“Lutteurs”は、2006年に30万ドルで落札されたんです。
ここに挙げたオークションのほとんどが、
下欄の資料の“ニュースおよびブログ”に掲載していますので、ご覧くださいね♩
展覧会
ラリックは彼の職人としての人生の中で、パリや各国の都市で展覧会を開いています💕
特に有名なのが1900年と1925年に行われた万国博覧会ですね☝️✨
1933年には、芸術家、実業家であるラリックの大がかりな回顧展(まだ生きてるのに♪)開かれました(^^)
偉大なフランス人としての経緯を表された形です👑✨
その他にも、以下のような展示会を開いています👇✨
1894年-フランス・パリ芸術家協会(サロン/~1911年)
1897年- ブリュッセル(ベルギー)万国博覧会
1897 年- サロン・デ・ボザール展(フランス・パリ)
1901年- 国際装飾芸術展(イタリア・トリノ)
1903 年- サロン・ドートンヌ(フランス・パリ/~1930年代)
1903年- グラフトン・ギャラリー(イギリス・ロンドン)
1904年 – セントルイス万国博覧会(アメリカ・ミズーリ州セントルイス)
1905年- 国際博覧会(ベルギー・リエージュ)
1905年- T. アグニュー&サンズ(イギリス・ロンドン)
1907年- サロン・ルグラン・パレ(フランス・パリ)
1910年- 国際博覧会(ベルギー・ブリュッセル)
1911年- 国際装飾芸術展(イタリア・トリノ)
1911年- ボザール・サロン芸術家協会(パリ・フランス)
1912 年- マルサン装飾芸術協会(フランス・パリ)
1912年- ヴァンドーム広場(フランス・パリ)
1919年- 産業芸術美術館(デンマーク・コペンハーゲン)
1919年- ブルックリン美術館およびノドラーギャラリー(アメリカ・ニューヨーク)
1930年- 万国博覧会(ベルギー・アントワープ)
1931年- コロニアルエキスポ(フランス・パリ)
1932年- フランス装飾博覧会(モロッコ・ラバット)
1935年- B.アルトマンズ百貨店(アメリカ・ニューヨーク)
1937年- 芸術技術国際博覧会(フランス・パリ)
1939年- ワールドフェア(アメリカ・ニューヨーク)
今日でもルネラリック展は世界各地で行われています(*^^*)
2009年にはオハイオ州クリーブランド、
カリフォルニア州サンフランシスコでラリックの大規模な展覧会が開かれました✨
東京や熱海でもさらに大きな展示会が開催されましたし、
マサチューセッツ州ボストンやオハイオ州シンシナティでも
ラリックの宝石の数々を集めた作品展が開かれました✨
2010年には、ロシア、モスクワのクレムリンで、
ルネラリックに捧げる大規模な展覧会が催されました✨
世界各地のもっと一般的な展示会に登場するような
ラリックの作品も一緒に展示されたそうです(^^)♩
なんと言ってもハイライトは、2011年7月2日の、
フランス国立美術館“ミュゼ-ラリック”のオープニング展覧会でしょう👀‼️
2014年にコーニングミュージアムで開催された展示会では、
商業生産用の作品と一点物の作品、また製造過程で使用された作業部品などが展示されました(*^^*)
ルネラリック展覧会についての情報は、
“ルネラリック展覧会のニュースおよびブログアーカイブ”にてご覧いただけます☝️✨
RLalique.com の記事なども掲載されていますのでぜひ♪
それから、世界各地で行われた約50もの展覧会に関する書籍やカタログも、
“ルネラリック書籍および図書”のセクションでご覧いただけます📖✨
書籍には、ラリックの宝石などのレアな作品のすばらしい写真だけでなく、
ラリックの人生、その他の作品など様々な要素が盛り込まれています💓
RLalique.comの“ニュースおよびブログ”でも書きましたが、
ヘビのペンダントも、クリーブランドとサンフランシスコの展覧会で展示された逸品です☝️
詳しくは下欄の“書籍およびカタログ資料”からもどうぞ♪
美術館
ルネラリックの美術館コレクションは世界中に存在します☝️✨
ラリックの作品を展示する80以上の美術館の一部が、
下のリンク“ラリック美術館コレクション”にリストアップしています👇💓
ミシガン州のギルモア自動車博物館という小さなミュージアムから、
ニューヨークのメトロポリタン美術館まで、ラリックの美術館コレクションを拡大しています✨
現在、フランス、アルザス地方のウィンゲン・シュル・モデに
ラリックが所有していた中で一番大きな工場があった付近に、
フランスの国立博物館であるラリック美術館がオープンしていますね(*^^*)
このラリック美術館は、世界各国で一時開催される展示会と
多くの作品をシェアしたり貸し出したりしています♩
そのおかげで、世界各地のコレクターらは、
ラリックのユニークで非常に価値の高いレアな作品をあちこちで見ることができるのです👀✨
写真にあるのは、ブローチ“Le Baiser”で、パリ装飾芸術美術館から、
アメリカの3つの都市(1998年/1999年)と
東京(2000年/2001年)の展覧会に貸し出されたものです(*^^*)
このブローチについては、RLalique.com の“ニュースおよびブログ”の中でもお話しています♪
下欄のリンクから展覧会の書籍に行っていただくと、写真が見られますよ💕
模造品
模造品は、また別の収集カテゴリーなので、
ラリック作品のコレクターにとってさほど問題ではありません✋✨
とはいえ、市場に出回るにつれ、
その価値が上がったりするので、問題がないわけではありません(^^)
大きく分けると、ラリックの模造品は4つのグループに分かれます☝️✨
1つめの典型的なものは、ラリックの偽のサインが、
コレクターなら誰もが偽物だとわかる作品に書かれているものです👀!
2つ目は、幾分“ラリックらしい”作品に偽のサインが書かれているものです!
これは、初心者の愛好家はだまされてしまうかもしれません(*_*)
3つ目は、オリジナルのルネラリックのデザインでありながら、
戦後にクリスタル・ラリック社がクリスタルを使用して作り直した再生品で、
こちらもR.Laliqueと付け加えられていますが、本物ではありません(>_<)
こちらは、経験のある愛好家でもだまされてしまうことがあるようです💦
クリスタル・ラリックによって作り直されたオリジナルのデザインは、
RLalique.comの“ルネラリック模造品”セクションのカタログに載せていますので、
ルネラリックによってガラスで作られ、
その後クリスタル・ラリックによってクリスタル製で再生されたものであることを、
購入する際に気付かれるはずです☝️
そして4つ目かつ最も見分けにくいのは、ルネラリック作品の複製品です👀!
なかなか本物と差を見つけられません・・・💦
とはいえ、そういった複製品はほとんどなく、
下欄の“ルネラリック複製品”というリンクに1つ1つ載せておりますのでご覧になってくださいね♪
写真にあるボタンインコの花瓶は、この非常によくできた複製品の例の1つなんです💕
【ルネ・ラリック専門ショップ アンティークテーブルウェア】
フランスのガラス工芸家 ルネラリックの作品を販売しています!