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エミールガレ emile galle アールヌーボーの巨匠の歴史 2章

 2017/02/06 エミールガレ
この記事は約 14 分で読めます。 3,133 Views

『アール・ヌーヴォーの巨匠 エミール・ガレ』

エミールガレの代表作 トンボの花瓶

 

第2章 旅の情熱

ガレは人生の中で度々外国への長期旅行に出ていました。その旅はビジネス目的だったり、また彼が情熱を注いでいた植物の研究🍀のためだったりしたそうです。

まずガレは高校を卒業すると、ドイツ語を勉強するためにザクセン=ヴァイマル公国に留学しました。ガレのお父さんであるシャルル・ガレによると、その滞在はドイツ語の勉強の他、鉱物学を学ぶことも目的だったそうです。

ザクセン公国は18世紀後半頃から鉱物学の研究で有名な場所だったんですね。

ガレのこの滞在時期に関しては様々な意見があって、記述が正確だと思われている伝記をいくつか比べて見ても、やっぱり時期にずれが見られます。

つまり、誰も正確な滞在期間がわからない、ってことなんですね。

でもまあ大まかに見ると、1865年9月もしくは10月にフランスを出発して、1866年の終わりにナンシーに戻ったというのが実際なところなようです。

で、なぜガレのお父さんは、ガレをヴァイマルに行かせたんでしょうか⁉️

それは、ビジネスの思惑があったからなんですね〜‼️

1860年以降、ヴァイマル公国の公爵はエミール・ガレの父親であるシャルル・ガレに、ザーレのドルンブルグにある城のために、ライオンの紋章を飾った陶器製の大きなランプを注文していました。これらのランプは大きな炎を青、ハイライトに赤、そして小さな炎に赤を使った単彩画が描かれていて、そこには『ガレ』とサインがあるそうです。

エミール・ガレは父親の大切なお客様に会いに行ったのかもしれませんね〜。

ガレがザクセン=ヴァイマル公国で過ごした日々については、実際のところほとんど知られていないんです。

彼自身の記録からわかるのは、ヴァイマルでの日々は彼に文学への興味を授けたとの事。

どこにも証明するものはないのだけれど、本当に彼が鉱物学を学んだのであれば、ガレはきっと植物に関する古生物学やヴュルテンベルグ、コイパーの化石、もしくはヴァイマルからそれほど遠くないヴェッティンの石灰頁岩についても学んだはずなのです。

1889年の万博のメインエントランスの装飾のために花の化石を使ったのですが、それの一部はレネ・ゼイヤーの仕事のために貸し出された事もあったそうです。

その当のレネ・ゼイヤー、実は一度もコイパーでの化石の採掘やヴァイマルでのヴェッティンの石灰頁岩の採取に携わった事はなかったそうですよ。

ガレが物理学、鉱物学、古代植物学などを学んだとされる学校については未だに知られていないのですが、おそらくそれはトローストの学校だと思われます。

この私立学校はある一家によって運営されていて、その中の一人で息子であるヴァルマー・トローストはドイツのプロセイン軍がナンシーに進駐した際、ガレの母親であるファニー・レンメールに看病されていたそうです🏥。

ガレはヴァイマル滞在中も植物を採集し続けていました。(好きなんですね〜💞

あと、1866年に発表されたシンバル奏者を描いた絵画も、このヴァイマル滞在中に描かれたものだと言われています🎵

ヴァイマルにてエミール・ガレはガラスアートに目覚め、音楽に没頭する

ルイ・ド・フォコーによれば、エミール・ガレはヴァイマル滞在中に美術学校に通っていたそうです。その学校は1857年創立の絵画と造形美術を学べるボーザールの私立学校で、そこで教鞭に立つフランツ・ジャド氏の元で学んでいたそうです📖。ウォルター・シーディッグバーント・ハケンジョによると、エミール・ガレはそこでヴァイマルの建築家カール・フォン・ステグマンと知り合いました。

このステグマンとは、1862年から1863年にかけて市立の伯爵美術館の建築を担当した人物です。

彼は1865年頃、ヴァイマルに装飾芸術と建築の私立学校を建立、そして1867年には『アートとアールデコの週刊誌』と名付けられた雑誌を創刊しました。

このフランツ・ジャドとカール・ヴォン・ステグマンは協力しあって、将来の芸術家たちのために数多くの芸術作品を集めました💞

これらの作品の中にはガラス芸術作品、ベネチアングラス、16世紀から17世紀にかけて作られたドイツの七宝ガラス細工作品、ルビーが2層になっている18世紀のガラス作品など、ヴァイマルの公爵から貸し出してもらった作品も数多く含まれていたそうです。

シャルル・ド・メクスモロン=ド=ドンバルが言うには、エミール・ガレはヴァイマルで造形学と絵画を勉強し、のちにロンドンでもそうだったように、音楽にものめり込んでいったそうです🎵

『ヴァイマルではあなたはラッキーな環境でリストを知る事が出来、彼の自宅でリヒャルド・ワグナーの素晴らしい作品などに触れることが出来ているのですね』と記述がありました。

実際にはガレはフランツ・リストとは知り合うことは出来なかったんです😿

リストは1847年から1861年にかけてヴァイマル宮廷のチャペルの楽長をまかされていて、その後1861年から1869年まではローマで過ごしていました。この期間にリストがヴァイマルに戻った記録は一つも残っていません。

つまりガレがヴァイマルに滞在中にはリストは一度も戻ってきていないはずなんです‼️

だけど、ガレはヴァイマル公国での音楽仲間達のおかげでリストやワグナーの作曲した作品を知る機会はたくさんあったはず。

事実、1865年11月、ガレは『タンホイザー』を鑑賞しています🎵

ウォルター・シーディッグによると、とある個人収集家のコレクションの中に、ガレが3人の女性と共に写る一枚の写真があったそうです。

そこには『ヴァイマルにて、スター家の人々』と書かれていました。

スター家?

それは文学博士であるアドルフ・スターの最初の奥さんであるスター夫人と、アンナヘレンという二人の娘達であると思われます。

二人の娘達は共にリストの熱心な生徒達であり、同時に二人とも音楽を教える先生でした。

ガレはこの二人からピアノのレッスンを受けていたと思われます。

さらにヴァイマル滞在中、ガレはこのスター家の所有するアパートに滞在していたようだとシーディックは言うのだけど、そのことを示す写真や記録などは何も残っていません。

ミステリーです。。。

ガレの子孫達が今でも大切に保管しているガレの写真アルバムの中には、この当時の写真がいくつも残されているそうです。

1枚の写真には『ヘレン・スター嬢』との書かれてあり、2枚目には『アンナ・スター嬢』と記されています。3枚目は再びヘレンの写真で、そこには『1882』とだけ記載されています。

ということは、その写真はガレのヴァイマル滞在からかなり後のものだということがわかります。

スター家とのおつきあいはフランスに戻ってからも続いていたってことですね〜💞

4枚目はヘレンとアンナが一人の男性と写っている写真なのだけど、この男性が誰なのかはわかっていません。

が、多分彼女達の3人の兄達のうちの一人であるアロウィンだと思われています。

アロウィンは1870年にプロセイン軍の一員としてナンシーに進駐していました。

これらの4枚の写真はそれぞれに『スター』と、ガレの母親であるファニー・ガレ・レンメールの手書きで書かれ、同じアルバムにおさめられています。

他にも『ヴァイマルのヘレンとアンナ・スターの思い出として、優しいレンメール婦人へ』と書かれた写真も残っていることから、ガレ家とスター家がとても親しい関係💞で、それが少なくとも1882年までは続いていた、ということがわかります。

ザクセン=ヴァイマル公国滞在中、ガレはクリスタルガラス製造で有名なボヘミアを訪れています。

『ウルリッヒタルに行く事には私は賛成だよ。そこでペリカンの店に行ってみるがいい。そこでお前の感性に何か訴えるもの、万博(1867年)のために創造をかき立てる物があれば、買ってペリカンから私に直接送ってもらうように頼めば良い。ただしペリカンにはそれが万博のためだとは言ってはいけないよ。目的はいつも秘めておくべきだ。』と、1866年12月17日にガレの父親が彼に宛てた手紙には書いてありました。

こんな一つの手紙が、スパイ行為の証拠となるなんて、誰が思ったでしょう⁉️

エミール・ガレはヴァイマルでの滞在を利用して、バイロイトにも1週間の旅行に出ています。

そしてかつてヴァルミーの戦士で、のちには帝国の将校でもあった祖父の思い出の地、イエナも訪れています。ここでガレは一枚のクロッキーを描いています。

実際この1865年と1866年の間に、ガレはドレスデン、ライプツィヒ、カルスバート、ブルノ、ボヘミアなどを訪れています。

それは1865年のこと。ブルノにてヨハン・メンデルによって遺伝に関する法則という科学の歴史において決定的な発見がなされました。その画期的な発見は1910年まで世間の注目を集める事なく放置されていました。

きっと当時同じくブルノにいたエミール・ガレも、その事には全く気付いていなかったでしょう。

ゲーテの精神がヴァイマルを取り巻く 

30年程あとのヴァイマルでは、1775年からヴァイマル公爵の顧問を勤めていたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがその多彩な才能で有名になっていました。

彼は時には詩人であり、作家であり、画家であり、園芸家であり、生物学者であり、鉱物学者であった、本当に多才ですごい人です。

天才〜!

ゲータイト(針鉄鉱)の名前は、発見者であるゲーテの名前が由来なんですよ〜❗

ゲーテは園芸や植物の生態に関するいくつもの記事や著書を執筆しています。

フランソワーズ=テレーズ・シャーポンティエは、ガレは”シェークスピアとゲーテをとても良く知る人物だ”と1978年に記しています。また1904年1月6日にガレがロジャー・マークスに宛てた手紙の中には、ヴァイマル滞在中にゲーテの家を訪れたとはっきりと記されていました。

そこからもわかるように、ガレはゲーテに関心を持っていました。

とすれば、ガレは少なくとも10回は『ファウスト』を読んだでしょうね❗️

その後ガレはイタリアに旅立ったのですが、1816年から1817年にかけて書かれたゲーテの『Le voyage en Italie(イタリアへの旅)を読んで、同じようにイタリアを訪れたくなったのかもしれません。

ただその後のガレのイタリア旅行に関する記述を読んでも、どこにもゲーテを示唆するような記述は見当たりません。

アルプス山脈を通る際、ガレは植物の生態が変わっていることに気付きました❗️それはゲーテも1786年に発見して、しかし1816年まで発表されなかった内容ととても似ていたそうです。

その後、ガレはダーウィンの進化論にも感化されることになります。。。。

1871年、ロンドン。国際見本市や数々の大きな美術館がガレを魅了する

1871年、ガレはロンドンを訪れ、そこで父親の代わりに国際見本市に出ていました。

そこでガレはモンタルボ伯爵夫人であるジョゼフィン・ボウズと出会います。

彼女は夫であるモンタルボ伯爵が1840年から1870年までに収集した芸術品を集めて、展示した、ボウズ美術館の運営を任されている人物でした。

ジョゼフィン・ボウズは『フランスアート』のコーナーをわざわざ常設し、クルニー美術館の学芸員エドモンド・デュ・ソムラーに監修を依頼しました。

彼女はガレ家の作品にとっても興味をもったそうです💞

実際その直後にいくつものガラス陶器を注文したそうですよ。

イギリス滞在中、ガレは園芸の知識をも深める努力をしていました。数々の庭園を訪れ、その中にはロンドン、いや世界中で最も有名な庭園の一つともいえるキュー庭園がありました。

ジュル・ヘンリボーによれば、ガレはこのロンドン訪問時に、ロンドンのとある庭園にて上記のエドモンド・デュ・ソムラーが企画した小さな展示会を訪れていたと伝記の一つの中に記されているそうです。

ガレは中国のタバコ入れやガラス製品、また日本の器、イスラムの器などに大変興味をもったそうです。

中国の器で、白と緑の2層になっており、カメオによってかたどられた蜻蛉の模様が付いたものがありました。

これは現在でもヴィクトリア&アルベール美術館で観る事ができます❗️

1871年にはサウスケンシントン美術館にも展示されたことのある作品で、ガレの興味をそそったに違いありませんね〜。

アラスター・デュカンジョージ・ド・バルサによれば、ガレはブリティッシュ美術館を訪れていたそうです。

そこでガレは紀元前1世紀に作られたポートランドの器を見ました。この器は底に2層の青、外側に白い層があり、人の形がカメオで型とられているもので、中国の器同様、ガレに大きくインスピレーションを与えたものと思われています。

実際のところ、ジュール・エンリヴォーが断言するように、ガレは1884年にこの創作テクニックを使って一つの作品を作っているんですよ〜。

ガレはロンドンにて2つの科学書を購入しました。

一つは1855年出版の『ロンドンの植物辞典』、もう一つは1871年8月18日に購入したシャーレイ・ヒルブレッド著の『シダの庭園』です。

この2つの本はガレ本人の手で書かれた注訳があちこちにあり、彼の個人図書の一部として大切にされていました。

ジュール・エンリヴォーによれば、ロンドンからフランスに戻ったガレはルーブル美術館のアポロン像のコーナーにある天然クオーツの作品の前で、もしくはジョセフ・ブロカーのアラビアランプやユージェーン・ルソーの器の前でうっとり💞していたそうです。

イタリアとスイスの植物との出会い

エミール・ガレは1877年にイタリア旅行に出ています。

彼は1877年9月9日にナンシーを発ってから、ストラスブール、コルマー、ムルーズ、そしてバールを通っています。それからアルプス山脈を越えてスイスのルツェルン、そしてアンデルマットの谷を通って1877年9月13日に、マジョーレ湖に面するイタリアのイントラに入りました。

このナンシーからイントラまでの旅路は細かい記録があって、特に植物学の面では著書『園芸と南アルプス山脈の斜面』の一部で詳しい記述が残っています。

また彼のイタリア滞在中の事もこの本の別の部分で、同じく詳細に渡っての記述があります。

それだけ、印象深い旅だったってことかもしれませんね🎵

ガレはイントラやパランツァにある数々の庭園を訪れています。イントラにあるトルベツコイのヴィラは特に彼の興味をひいたそうです。

  1883年7月、ポール・クルルは妻と従兄弟と共にスイスアルプスを訪れる旅に出ました。その旅にはガレも参加していました。

この旅はラウターブルンネンのプロのガイドであるウルリッチ・ロエナーが同伴していて、その彼はユングフラウやアイガーの登山のスペシャリストでした。

ガレはこの登山時に数多くのアルプスの植物を採取していました🌱

彼は標高3000m以上の場所への登山を何度も行っていて、その一つ、1883年7月30日には雪の中を4時間以上も登って、バルムホーンの標高3688mのところまで行っているそうです!

そしてイタリア旅行の際と同じく、この滞在中に何枚ものクロッキーを残しています。

1880年8月、彼はベルギーにいて、ブリュッセルの美術館およびアンヴェールの美術館を訪れていました。

1883年10月には再びドイツに滞在しており、バイエルンとプファルツを訪問しています。

1885年4月にはクンストワーブ国立美術館に保管されている中国陶器を見学するためにベルリンを再び訪れています。

1892年8月15日から21日まではモーリス・バレスと、詩人のピエール・ロイスと一緒にバイルートに行っています。

1894年8月7日から15日までは、フランス植物学協会とスイス植物学協会が共同で開催した登山に参加するためにスイスを訪れています。この2つの協会が共催した貴重なイベントはジュネーブ、ヴィルヌーヴ、マルティニ、ゼルマット、グランドーコンバン、ホーンリ、シンプロン、ローザンヌで行われたそうです。

その後もガレはフランス国外への旅を何度も行き、そこにはフランクフルトやブリュッセルもありました。

オズワルド・ケルショフ=ド=ドンテルガムに誘われて、ガレはきっと1898年4月にヘントを訪れていたと思われています。

1899年3月にはスイスのジュシーを再び訪れていて、そこでは植物学者のマーク・ミッシェリ宅に滞在していたそうです。

ずいぶんと沢山の旅をしていますね!

これらの数々の旅はガレに確実に影響を与えているはずです❗️

そしてなによりも、最初のザクセン=ヴァイマル公国の訪問が、芸術と科学という2つの興味のきっかけになったのだと思います。

ヴァイマルへの出発前、ガレはまだ自分の人生について決めかねていました。

(まだ高校卒業したばかりの若者だから、当然ですよね〜)

けれど父親であるシャルル・ガレのおかげでザクセン=ヴァイマル公国に行く事が出来て、そこで、ゲーテの時代から芸術と科学が共存する社会の中心で成長することが出来たんでしょう。

アマゾン探検家、ジュール・クレヴォーとの友情

旅行を好み、地理学を好み、さらには海洋学にも興味を持っていたガレは、ナンシーの地理協会のメンバーになりました。協会が主催する講演会には積極的に参加していたそうです。

ガレはそこで、フランス領ギアナから戻ったばかりのジュール・クレヴォーと出会い、1879年に南アメリカから戻った彼がナンシーで開催した講演会に参加しました。

この時、ジュール・クレヴォーは南アメリカから連れて来たネイティブのアパトゥを紹介したそうです。

ガレはこの新しい世界を知った事にとっても感激して、さらにクレヴォーは自身が描いた絵画や、探検中に採集した熱帯の植物や昆虫のサンプルを披露し、ガレはすっかり虜になったそうです💞

ガレはこの新しい知識を後にガラス作品や木製作品の中にアイディアとして取り入れています。

中でももっとも美しい作品の一つに、1900年の国際見本市に出品された器『ギアナの森』があります。この見事な作品は、アマゾンのオヤポック川でネイティブに殺害されたジュール・クラヴォーに敬意を示したものだったそうです😿

 

 

第3章へ続く

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妹尾 満隆

妹尾 満隆

合同会社SENOO商事の代表をしております妹尾満隆と申します。

ウェブという情報を発信してる人が見えてない中で、いろんな間違った情報がネット上にあるのを度々見かけます。

特にアンティークにおいては

・間違った情報
・信ぴょう性のない情報
・そもそも情報がない

などたくさんの課題がありました。

そこで私は、これまでのお客様との取引の実績、知識、経験、情報を元に正しい情報をウェブを通して発信していくことを会社の方針と掲げました。

ただ物を売る会社ではなく、これまでブラックボックスとされてきてた商品の真贋の見分け方を発信するというのが大切なことではないかと思ったからです。

なぜならアンティーク品の場合は情報量の不足から、買い手側が圧倒的に不利な立場にあったからです。

このアンティークの世界をもっとクリーンで、信頼のおける分野に成長させていく事が私の使命だと思っております。

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