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エミールガレ emile galle アールヌーボーの巨匠の歴史 1−2章

 2017/02/06 エミールガレ
この記事は約 20 分で読めます。 2,993 Views

『アール・ヌーヴォーの巨匠 エミール・ガレ』

エミールガレ 花柄の花瓶

イントロダクション:芸術創造の刷新

19世紀、科学・産業革命とともに、急速に経済が発展しました。

産業化は良い結果だけをもたらしたわけではありません❗️

新しい産業手段から利益を引き出した実業家は、

社会の変動とは無関係である過去のスタイルのセンスを

膨張した中産階級に押し付けました😲

1836年にはすでに、

アルフレッド・ド・ミュッセは憤慨してこのように言っています。

「まるで世界の終わりが近いみたいに、

われわれは残り滓だけで生きている。

今、あらゆる時代のものがあるのに、

われわれの時代のものだけがない。

他の時代には全く見たことのないものがないのだ。」

(アルフレッド・ミュッセ『世紀児の告白』(1836))

建築の分野では、過去のスタイルを参照することは

しきたりとなっていました。

フランスで、19世紀に建てられたネオ・ゴシック様式の教会は、

歴史主義と呼ばれるものを具現化しています。

ヨーロッパの中で最も工業化が進んでいた国、イギリスでは、

人間の機械への従属、

工業都市の生活環境や芸術の退廃(デカダンス)を

告発する知識人もいました😨

労働者たち、終わりなく同じ作業を繰り返さねばならず、

もはやそこに主体性はありませんでした。

こうした変動は、オーガスタス・ウェルヴィー・ノースモア・

ピュージンの『コントラスト』(1836)、

あるいはジョン・ラスキンの

『ヴェニスの石』(1851-53)において、

見事に分析されています。

ラスキンはそこで、オリジナリティがなく、

過ぎ去った時代から着想を得た、

大量生産で生産される製品に殺到する

ブルジョワジーの悪趣味を批判しています😠

ラスキンは、創造性、そして使い手と作り手の対話に

立ち戻ることを願っていました。

こうした方針は、過去のスタイルから着想を得て

大量生産される品のデザイナーだった

ヘンリー・コールにも受け継がれました。

コールは、後の王立職業技能検定協会である

技能検定協会の主催の展覧会に新しい製品を出品するよう、

実業家と装飾家のグループに働きかけました。

そして、彼は、新たに複数の応用美術学校と、

のちにヴィクトリア&アルバート・ミュージアムとなる

美術館を作ったのです。

オックスフォードで学んだウイリアム・モリスは、

ラスキンの考えを実践に移しました💨

モリスにとって装飾品は、

進歩した現代生活を表現するものでなくてはならなかったのです。

彼は自ら木や石を彫刻し、刺繍や装飾写本を制作しました。

1861年、モリスは、

画家、彫刻家、家具職人、金物製造業者を結集させ、

モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立しました。

ラスキンの考え方に沿って、

この商会では、家具、ガラス製品、壁紙、ステンドグラスなど

多くの品が製造されました。

ウォリントン・テイラーが商会に加わると、

職人的だった仕事のやり方を、

合理的なやり方に仕切り直しました✨✨

1860年代ごろの、このようなウイリアム・モリスの会社方針は、

40年後に誕生するナンシー派を予兆していたように思えます。

だが、ガレとラスキンが、自然を愛するという点、

そしてブルジョワの悪趣味を批判しているという点

では一致していても、

二人が出した答えは若干異なっていました。

ガレが

その作品の中で自然への愛情を実際に表現するのに対して、

ラスキンは、彼もすぐれたデザイナーであるが、

つとめて理論家に徹し、多くの著作を残しました📚🕤

一方、ウイリアム・モリスが

彼自身の世界観の中で進展していったとすれば、

彼は、ガレよりもエコール派の第2代会長である

ヴィクトール・プルーヴェに近いでしょう。

とは言っても、ガレが次のように主張するのは当然です。

「偉大な芸術家にして人道主義的哲学者、

労働の喜びの唱導者たるウイリアム・モリスは言った。

労働は人間的なものである。

労働はよきものであり、芸術は有益なものである。

祝福された芸術、救済者たる芸術、それは大衆芸術、

すなわち物を作る仕事をする人間の喜びの表現である。

そして私たちは、人間的文化、精神の目覚め、

世界に広がった美の伝統による魂、

といった機能に芸術を与えるという教義に対する

深い信仰を主張することができる。」

(エミール・ガレ『美術論集』)

ヨーロッパ、そしてアメリカにおける新しい潮流

ヨーロッパ中がそうであるように、

フランスでも産業が発展していきます。

中世の協会に賛美を送ることに逃避し、

過去へのノスタルジーを育んだラスキンやモリスとは反対に、

帝国古文書館館長(1857-1868)である

レオン・エマニュエル=シモン=ジョゼフ・ド・ラボルトは、

芸術・科学・産業と、

技術の進歩に対する信頼との結びつきを推奨しました😊

イギリス、ドイツ、アメリカにおける産業的な競争は、

手工業や装飾美術の分野における競争を激化させました🔥

装飾美術での競争は、

とりわけ1889年のパリ万博の間に表面化しました。

この競争はフランス政府に危機感を与え、

フランス政府は、フランスとライバル関係にあった

すべての国に装飾美術の発展を研究するために

代表団を送りました。

フランスの政治・文化担当者たちは、

産業の飛躍に伴って、

芸術的な刷新が欠かせないことに気づいていました。

1894年、

レイモン・ポワンカレ大統領は次のように断言しました。

「ぐずぐずと過去を振り返り立ち止まっている国は、

たちまち無力さと不毛さに襲われてしまうだろう。

我らが先人たちの才能を知りたいという

好奇心がどれほど気高いものであろうと、

それはわれわれにとって重要な関心事ではないし、

そうであってはならない。

見るべきは後ろではない、

周囲を、そして前を見るべきなのだ。」

アール・ヌーヴォーの誕生にフランスが大きく寄与したとしても、

今日われわれが現実に直面しているのは

ヨーロッパとアメリカ合衆国全土に広がった巨大な運動なのです。

アール・ヌーヴォーは国境など気にも留めていませんでした❗️

この運動に参加した芸術家たちはみな、

共通したいくつかの目的を持っていました。

彼らの芸術の統一性を支持する人たちは、

装飾美術、手工業、産業を主要な芸術として

ひと括りにすることを願っていました。

このアール・ヌーヴォーは多岐にわたりますが、

原則はいずれも同じです。

すなわち、当時、大きく発展を遂げた

工業技術によって提供される素材を使うという新たなチャンスを

生かすということが大事なのです。

その目的は、最大多数の大量生産製品や美意識と、

材質的かつ文化的充足感への切望を両立させることでした。

芸術家たちは過去から解放されて、

新たな形式からインスピレーションを得たかったのです⚡️

「アール・ヌーヴォー」という表現は、

つねに「自然から引き出されたインスピレーション」

を意味するわけではありません。

ヘルシンキ、ダルムシュタット、ミュンヘン、

ウィーン、グラスゴーにおける、新しい形式は、

非常に幾何学的なものでした。

そして、これらは、

2つの世界大戦間にヨーロッパ全土に広がった

アール・デコのスタイルを予兆するものでした。

ユーゲントシュティール、モダン・スタイル、

グラスゴー・スタイル、リバティ・スタイル、

アール・ヌーヴォー、ゼツェシオンスティール、

ニウ・クンスト、スティレ・リベルティ、モデルニスモ、

アール・ヌーヴォー(新しい様式)を意味するこれらの言葉は、

いずれも、19世紀末から20世紀初めに

ヨーロッパのほとんどの国が影響を受けた

ひとつの文化現象の一側面といえます。

ユーゲントシュティール

(青春様式、ドイツにおけるアール・ヌーヴォー)は

ドイツのミュンヘンで誕生しましたが、

ダルムシュタットでも生まれています。

だが両者は同一とは程遠いものでした。

アルノルト・ベックマンのように、

一部にはフランスやベルギーのアール・ヌーヴォーを

参照する者もいました。

ですが一方で、

それ以外は典型的なゲルマン的な主題や神話から

着想を得たものもいました。

ミュンヘンの雑誌『ユーゲント』を介して、

ユーゲントシュティールの芸術家たちは

一つにまとまっていきました。

アムステルダムのニウ・クンストは

ドイツのユーゲントシュティールに関連づけることができます。

ノルウェーでは、1904年1月23日の暴風雨に襲われた

沿岸の木造建築の町オーレスンが、

暴風とその後に起こった大火事で完全に破壊されてしまいました。

3年をかけて、この町は、

ノルウェーとドイツの最高の建築家たちの協力によって

再建されました🏡🏡🏡

ヘルシンキの建築様式の再生も、

ユーゲントシュティールの影響を受けています。

ラトビアの首都リーガは、

ヨーロッパ最大のアール・ヌーヴォーの町の一つです。

町の建物の三分の一以上が、

ドイツ、フィンランド、オーストリアのスタイルから

影響を受けたアール・ヌーヴォー様式で建てられていました。

その一方で、新しく建設された建物の四分の一に

ラトビア独自の着想を見てとることができます。

この動きは「ナショナル・ロマンティズム」と呼ばれるものです。

ウィーンは、アール・ヌーヴォーのもう一つの重要な中心地です。

画家ギュスターヴ・クリムトとその弟子である

エゴン・シーレ、フェルナント・ホドラー、

ベルギー人フェルナン・クノップフらは、

アカデミズム(伝統的形式主義)を捨て、

19世紀末に「ゼツェシオン(分離派)」の名で知られる

独自の団体を結成しました。

彼らはゼツェシオンスティールが生みだしました。

ヨゼフ・マリア・オルブリッヒとオットー・ワーグナーは、

この新しいスタイルの系譜の下で、

ゼツェシオン館をはじめとする多くの民間の建物、

地下鉄ののような公共の建物を建設しました🏠🚇

1840年、

オーストリアのクロスターミューレに創設された

レッツ・ガラスは、

19世紀末に、

アメリカのルイス・コンフォート・ティファニーの作品から

直接的に影響を受けた、新しいスタイルを取り入れています。

スロベニアの首都リュブリャナは、

町づくりにゼツェシオン・スティールを採用しました。

地震によって町が壊滅状態となった

リュブリャナの市長イヴァン・フリバルは、

ウィーンの二人の都市計画の専門家、

カミロ・ジッテとマックス・ファビアーニに助けを求めました。

ウィーン分離派の建築家の一人、

ヨゼフ・マリア・オルブリッヒが

市庁舎の設計プランを提供しました。

リュブリャナには、

ブリュッセルの影響を見てとることもできます。

19世紀末のベルギーを特徴づけているのは、

ヴィクトール・オルタ、アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド、

ギュスターヴ・セリュリエ=ボヴィ、

ジュール・ブランフォといった、

若き建築家、画家、装飾美術家たちの想像力と才能から生まれた、

目を見張るような作品です👐

多くの人から、ブリュッセルはヨーロッパにおける

アール・ヌーヴォーの主要都市であると見なされています。

パリでは、1895年のベルギー旅行で、

ベルギーのアール・ヌーヴォーに影響を受けた

エクトール・ギマールが、

カステル・ヴェランジェ〔16区のアパルトマン〕、

ついで1900年の万博に向けて一番線が開通した

メトロの入り口の建設を手がけました。

エクトール・ギマールは家具調度の制作にも

首尾よく乗り出しました。

パリでは、他の建築家や装飾美術家たちも、

この新しいスタイルで制作しています。

アール・ヌーヴォー様式の宝飾は、フランスの首都で、

ルネ・ラリックとともにその絶頂期を迎えますが、

ルネ・ラリックはのちにガラス芸術に

専念していくことになります。

スペイン・モデルニスモで最も知られている人物は、

間違いなく、天才建築家アントニオ・ガウディです。

彼が生涯をかけた作品、

バルセロナのサグラダ・ファミリア聖堂は、

世界で最もよく知られている歴史的な大建造物の一つです。

だが、ガウディの才能は、

数多くの世俗的な製品や装飾美術にも発揮されています。

カタルーニャのアール・ヌーヴォーに君臨する二人の人物、

それはリュイス・ドメネク・イ・ムンタネー と

ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクです。

また、ガウディ生誕の町レウスとタラサの二つの町は、

カタルーニャで、

モデルニスモから影響を受けた

素晴らしい建物や産業用建築物がある町です。

ハンガリーの首都ブダペストには、

一連の第一級のアール・ヌーヴォー建築が見られます。

地方からの大量の人口流入を背景に、

これらの建物は地方色のある大衆的な形態から

着想を得て建てられています。

だがハンガリーのアール・ヌーヴォーの最も顕著な特徴は、

その東洋的な要素です。

そこにはユダヤ文化やトルコ文化の

かすかな記憶が見て取れます。

ハンガリーのアール・ヌーヴォーはまた、

1853年にペーチに設立された

ジョルナイ製作所の製品など、陶器にも見ることができます。

イタリアには、

かなり遅れてアール・ヌーヴォーが輸入されました。

パレルモは例外といえます。

この町にスティレ・リベルティという様式が誕生するのは

1891年の万国博覧会までさかのぼります。

〔ヴィラ・イジエアを建てた建築家〕エルネスト・バジーレ

の個性が1900年のパレルモの建築と家具に

強い影響力を及ぼしています。

彼はヴィットリオ・デュクロとともに

アール・ヌーヴォー様式の家具と装飾に特化した

協会を設立しました。

ガエターノ・ジェラーチの水彩画やスタッコ細工、

エットレ・デ・マリア・ベルグレールの女性像は、

この時代の芸術は豊潤なものにするのに一役買いました✨✨

ロンドンでは、1896年、マーガレット・マクドナルトと

妹のフランセス・マクドナルド、

ハーバート・マクネア、そして若き建築家

チャールズ・レニー・マッキントッシュの四人の作品によって、

一つの抗議運動を引き起こしました。

彼らの絵画、ポスター、装飾品、家具調度は

非常に削ぎ落とされたスタイルで作られており、

のちにグラスゴー・スタイルと呼ばれます。

一般にモダン・スタイルと呼ばれるものに含まれ、

芸術への真の侮辱と見なされました。

けれども、有名な雑誌『ステュディオ』に、

彼らは何度も好意的に取り上げられました。

1900年、分離派の芸術家たちが

ウィーンでの第8回分離派展に彼らを招待します。

オーストリアの批評家たちは、展示物の単純さ、

その線の純粋さに魅了されました💕

以後、グラスゴー派の評価は高まっていきました。

ロンドンでは、1890年には、

リージェント・ストリートのリバティ百貨店が、

実用品と宝飾品の制作を、アーサー・ウィルコックス、

アーサー・シルヴァー、アーチボルト・ノックスなど、

当時、もっとも有名なクリエーターたちに依頼しました。

これがやがてリバティ・スタイルになっていくのです。

互いに影響し合うアール・ヌーヴォーの様々な潮流

アール・ヌーヴォーは軽々と国境を乗り越えました。

モラヴィアに生まれたアルフォンス・ミュシャは、

1887年パリにやって来ます。

1895年、彼は、

サラ・ベルナールの舞台『ジズモンダ』の

話題を集めたポスターで有名になります。

1909年、ミュシャはプラハ市庁舎の壁を飾る

一連のフレスコ画に取り掛かります🎨

彼は、またプラハで、

スラブ国家の成立を祝う大作《スラブ叙事詩》にも着手しました。

この絵はプラハ、そしてアメリカで展示されました。

カルロ・ブガッティは、ミラノに生まれ、

ブレラ・アカデミーで学んだのち、

パリのエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)

に入学します。

画家、家具職人、室内装飾工、そしてエンジニアでもあった

ブガッティは、

イタリアで東洋的な特徴を持つアール・ヌーヴォーの一様式を

作り上げました🌼🌼

アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドは1901年にブリュッセルを離れ、

ベルリン、ワイマール、ケルン、スイスで働きました。

ベルギーには1926年まで戻りませんでした。

ヨーゼフ・ホフマンは、オルブリッヒとともに

ウィーン分離派運動で活躍したのち、

スコットランドの マッキントッシュ・ハウスに着想を得て、

ブリュッセルにストックレー邸を建設しました。

室内装飾に使ったモザイク画制作のために、

ウィーンの友人である

ギュスターヴ・クリムトの助けを借りています。

アール・ヌーヴォーの首都、ナンシー

ナンシーでは、

1850年の鉄道の到来と1854年の大学開設によって、

知的にも経済的発展のための環境が生み出され、

これはまさに前例のないものでした🌟🌟

だがこのナンシーの幸運は、

逆説的ではありますが、1870年の敗北にこそあったのです。

フランクフルト条約の後、

ドイツとの国境はわずか20㎞の距離になりました

ナンシーは国境守備隊の駐屯地がおかれる大都市になったのです。

アルザスやモーゼルの住民の多くが

併合された土地を離れ、ナンシーに移住し、

そのためナンシーの人口は爆発的に増加しました。

こうした「選択組」が資本、労働力、

そして新たな活力をもたらしました。

文化的発展に適した繁栄を得て、経済は飛躍的に成長しました💨

19世紀末に、

新しい多様な形態の産業美術が、先にイギリスに誕生し、

それがヨーロッパの諸都市やナンシーに広まったとしても、

ナンシーの発展の多くは、ロレーヌのダイナミズムと、

時代の先を行った一人の天才の存在によって説明されます。

ナンシーの若者ガレは、

父親の後を継いで小さな会社のトップとなりました。

ガレは、芸術が町や地方の経済発展に付随するだけでなく、

その中心にあるべきものだと理解していました。

こうして、エミール・ガレは

ひとつの新しい表現形態の始まりを築いていくことになります。

この新しい表現形態は、

最大多数の人々のためのソーシャル・アート、

つまりラスキン、さらにはモリスの進歩主義的思想に

近いものであり、

同時に自然を源泉とする産業美術なのです🍀🍀🍀

ガレの芸術と進化論

ガレの芸術における

自然主義の影響の重要性を理解するために、

いま一度、

19世紀という特別なコンテクスト(文脈)に

立ち返る必要があります。

それは、自然の中において、

世界・生活・人間の立ち位置が、

完全に新しいヴィジョンを持った進化思想

というコンテクストです。

細菌を別にして、

生物は、不連続の個体である異なる種により構成されています。

アリストテレスや多くのギリシャの哲学者にとって、

種は不朽不変でした。

これがフィクシズム(生物不変説)です。

18世紀まで、生物不変説は教会や学界の公式見解でした。

しかし有機物の進化や共通の祖先からの変化を論じた思想は、

(その原因を)古代にさかのぼって論じることになります。

タレス、ミレトスのアナクシマンドロス、

アグリジェントのエンペドクレスらは、

すでに生物の進化論的解釈を行なっていました。

ルネッサンスの時代には、

これらギリシャの哲学者たちの進化思想は

一部にしか知られていませんでした。

イタリアの哲学者ルキリオ・ヴァニーニ

〔別名ジュリオ・チェーザレ・ヴァニーニ〕は、

ひとつの種が別の種に変化するという考えを示したところ、

異端審問官によって有罪宣告を受け、

トゥールーズで舌を切られた上、

生きたまま火あぶりにされました😱

18世紀になると、

ビュフォン伯ジョルジュ・ルイ・ルクレールや百科全書派により、

進化思想に好意的な風潮の基礎を作っていきます。

ハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの頭の中に

1780年にはすでにあったこうした思想は、

1790年の『植物変態論』で表現され、

さらにパドヴァの植物園でヤシ科チャボトウジュロを

つぶさに観察したイタリア旅行の後に

確信に変わりました😋

ジャン=バティスト・ラマルク騎士は

1801年に初めてその思想を発表し、

1809年の種の起源に関する『動物哲学』、

さらに1815年に刊行が始まった『無脊椎動物誌』で、

その理論を明確にしました。

ラマルクはその中で、人間を含む、すべての動物は、

それ以前の種の後継種であるという思想を展開しています。

過去の動植物を研究する古生物学の始祖であり、

ガレの親友の一人である、ルネ・ゼイエによって、

現在とは異なる生物の形が存在することが明らかにされました。

その形は古ければ古いほど

現存する生物とは異なっていきます。

フィクシズム(生物不変説)の信奉者であった

ジョルジュ・キュヴィエは、

古い時代には別の動植物相が存在したことを説明するために、

何度も天変地異が起こり

—その最後がおそらく大洪水ということになるでしょう—

その時点の生物を一掃してしまったという説を唱えました。

1830年の、

種の進化説を支持していた

ジョフロワ・ド・サンティエールとの論争は有名です。

ゲーテはサンティエールが優勢なのを見て喜びました。

「私がこの大問題に取り組んでから50年だ。

始めた時は一人だった、

しばらくして、何人かの、手を貸してくれる人に出会った、

そしてついに!

実に喜ばしいことに、

同じ考えの持ち主に、私は追い越されたのだ。

だがこれで、

ジョフロワ・ド・サンティエールはわれわれの側にいる、

彼とともに、彼の偉大な弟子たち、

フランスの彼の仲間たちと一緒にだ!

これは私にとって、信じられないほど重大な事件で、

私が生涯を捧げた理論、

何より特別な私の理論が全面的な勝利を

得るのを見られたのだ、

これまで生きてこれたのを喜ぶのも道理である。」

つまり、チャールズ・ダーウィンの著作が刊行される以前に、

19世紀初頭にはすでに、

進化思想は非常にアクチュアルなものだったのです⭐️

種の進化について

一貫性のある説明がなされた理論を考えたのは

イギリスの偉大な学者でした。

彼はそのために、生存競争と自然淘汰を用いました。

その著『種の起源』の第一版は1859年11月に、

ついで1860年1月には第二版が刊行されました。

この本はすぐさまフランス語に翻訳されると、

学界にも宗教界にも大きな衝撃が走りました。

子どもの頃から博物学に夢中だったエミール・ガレは、

ダーウィンの理論を神の啓示のように受け取りました。

それがゲーテの思想を追認するものだ

ということを理解していました。

なぜなら、ガレはワイマール滞在中にすでに

ゲーテの思想に影響を受けており、

イタリア旅行の際にその正しさを認めていたからです。

ガレはチャールズ・ダーウィンの著作を貪るように読み、

彼自身、驚くべき的確さをもって研究に取りかかり、

生物が進化して驚異的な数の種に変化するメカニズムを

理解しようとしました。

自然の美しさの無限の変化に見とれつつ、

その秘密を読み解こうとすることで、

強烈な感動を感じていました🤗

こうして自然はガレの芸術の導き手となりました。

彼の作品は創造の賛歌となったのです。
人間はその長き進化の結実です。

ガレにとって、人間であるということは、

生命の最終的な終着点だったのです。

ガレは、その普遍的な精神によって、

古典古代の学者たち、

ルネサンスの最も偉大な叡智、

そして18世紀のフィロゾーフ(啓蒙思想家)へと受け継がれた

伝統のなかに位置づけられます。

そして彼は、

その人道主義的かつ科学的かつ芸術的な作品を

独自のヴィジョンで追い求めます。

それゆえ、人間が社会の中心にいる世界を

浮かび上がらせることに生涯を捧げたガレの作品は、

つねにわれわれの時代のものです。

ガレは実にトリプレックス(合わせガラス)な人間であって、

それは初期の伝記作者が思ったような、

単に限定的な意味でのガラス職人、家具職人、陶工が

あわさったという意味ではありません。

ガレの特質は、同時に誠実な人物であり学者であり

創造者(クリエーター)であったということです。

この三つの性質が彼を特別な存在にしているのです⭐️⭐️⭐️

第2章へ続く

ライター紹介 ライター一覧

妹尾 満隆

妹尾 満隆

合同会社SENOO商事の代表をしております妹尾満隆と申します。

ウェブという情報を発信してる人が見えてない中で、いろんな間違った情報がネット上にあるのを度々見かけます。

特にアンティークにおいては

・間違った情報
・信ぴょう性のない情報
・そもそも情報がない

などたくさんの課題がありました。

そこで私は、これまでのお客様との取引の実績、知識、経験、情報を元に正しい情報をウェブを通して発信していくことを会社の方針と掲げました。

ただ物を売る会社ではなく、これまでブラックボックスとされてきてた商品の真贋の見分け方を発信するというのが大切なことではないかと思ったからです。

なぜならアンティーク品の場合は情報量の不足から、買い手側が圧倒的に不利な立場にあったからです。

このアンティークの世界をもっとクリーンで、信頼のおける分野に成長させていく事が私の使命だと思っております。

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