フランスのガラス工芸家 ルネラリックの歴史と素晴らしき作品
フランスのガラス工芸家 ルネラリックの歴史と素晴らしき作品
ルネ・ラリックは、アールデコ様式における革新的なガラス工芸作品でもっともよく知られていますが、
1890年代に宝飾デザイナーとして最初に世に知られるようになりました。
彼は常に新しい事を試み、さまざまな材料と技法を用いて、
ナイアード(水の精)、マーメイド、キマイラ(ライオンの頭にヤギの身体、ドラゴンの尾をもつ怪物)、
トンボなどをモチーフにしたファンタスティックなデザインを創りだしました。
ほどなく彼は、パリのお洒落でお金持ちでアヴァンギャルド(前衛美術)な人々のあいだで人気者となりました。
その後さらに彼はガラスにも関心を抱きはじめ、ジュエリー作品のいくつかにガラスを組み合わせ、
ガラスのスタッズ(びょう)を宝石のように使ったり、色付けしたガラスや透明なクリスタルに風景や植物、
女性の顔などを彫刻したりしました。
彼はまた、マルチメディアの彫刻作品にもガラスを使うようになりました。
1900年のパリ万国博覧会で、ラリックと彼のジュエリー作品は素晴らしい業績を残しました。
しかし、彼はすでに新しい分野に挑戦し、成功をおさめようとしていました。
1902年、彼はランブイエにほど近いクレールフォンテーヌに小さな工房を借りると、
設備を装備し、ガラス工芸職人を四人雇い入れました。
彼のガラスへの興味は、最初からひたすら彫刻に向けられていました。
シレ・パーデュ製法、いわゆるロストワックス製法では、ひとつひとつのオブジェや、
人物、植物などをレリーフにして飾り付けた花瓶などの原型をワックス(ろう)で作ります。
そして、そのワックスの原型をおおいかため、型を作ります。
その型に溶けたガラスを流し込みます。
するとワックスの原型が溶け出し、そこにガラスの原型が出来上がります。
それを一度焼き固めてしまえば、他には独自の鋳型ができるのです。
ラリックのロストワックス製法によるガラス作品は,パート・ド・ヴェールと混同すべきではありません。
彼の初期のロストワックス製法によるガラス作品には、ほとんどサインがされていません。
しかし、彼の親指の指紋が残されているものを見かける事があります。
柔らかいワックスの原型についた指紋がガラスの原型にも再現されていたということです。
1907年にフランソワ・コティが、香水瓶のためのラベルのデザインを依頼しました。
ラリックはラベルだけでなく香水の瓶も製作しました。
これら初期の香水瓶は、レグラ&シー社の工房で鋳造されました。
その翌年、ラリックは、ヴェルリー・ド・コンラヴィユ、
コンブ(セーヌ・エ・マルヌ県)にあるガラス工房を借り、1年後にはその工房を購入しました。
その後何年もの間、コティーだけでなくワース、オルセー、ロジェ&ガレその他さまざまな香水製造メーカーから、
多くの香水瓶の依頼を受けました。
これらの香水瓶はすべてラリック自身のガラス作品として製造されました。
1912年パリで彼にとっては初となるガラス工芸作品のみの展示会が催されました。
そして、その翌年、彼はプレシャスジュエリーの製作をやめました。
第一次世界大戦後の1918年、ラリックは、2つ目のガラス工房として、
ドイツとの国境に近いウィンジャン・シュル・モデール(バ・ラン県)の大きな工場を買い取りました。
そのとき、彼は58才となっており、新たなキャリアを開こうとしていたのです。
彼は、洗練された質のいいガラス製品の製造を、近代の工業技術を用いて、
質を落とす事なく大量生産の規模で実現しようと決意していました。
彼のガラス作品には、型吹きという吹きガラスの技法で作られた作品があります。
この伝統的な技術は、それに適した型をつくるために、かなりの試作を必要としました。
プレス加工技術で作られたガラス製品もありますが、この技術は彼が開発したものです。
その頃もまだ、独自の器や飾り板、パネルなどは、ロストワックス製法による成形で作られていました。
この技術をもちいるにあたり、何度も繰り返し使えるよう恒久的な鋳型が多く作られました。
また、このモールド成形の製造法によりさまざまなガラス作品も作られるようになりました。
この製法が他の成形製法よりも優れていた点は、ワックスの原型により、より優れた質で、
美しさ、薄さなどの微妙なディティールを再現する事が可能な鋳型を製造したところです。
ラリックは、ガラスで驚くほど様々な種類の製品を作りました。
花瓶、ボウル、トレイ、灰皿、平皿、時計ケース、デキャンタ、水差し、グラス、タンブラーなどです。
テーブルグラスには、レモネードやワイン用のデキャンタやガラスの水差しのセットなどもあります。
現代的なデザインのチャンキーモデル(厚ぼったいデザイン)も鋳型で作られましたし、
ワイングラスは、しばしば吹きガラスの製法により大変薄くつくれ、さらにデコラティブな模様が刻まれました。
ランプのデザインはバラエティーに富み、
ガラスの土台とシェード、メタル(しばしばクロームメッキ)の土台のテーブルランプなどがあります。
天井にとりつける器具にも多くの違うデザインが作られました。
太いコード(ひも)やチェーンで吊り下げられるタイプの成形されたボウル型の照明には、
しばしば壁のデザインに合う取付け金具がついていました。
ラリックは、手の凝ったシャンデリアも作りました。成形したガラスのパネルを丸い形や、
いくつかの段になるよう一緒に吊り下げるデザインで、幾何学的な鳥の巣のようなデザインもありました。
ガラスのジュエリーもさまざまなデザインがつくられました。
ペンダントは色付けされたガラスや透明なガラスで作られ、
ボタン、十字架、Tシェイプ、Oシェイプ、楯などの形があり、タッセルつきの結び目のあるひもでぶら下げるようになっていました。
他にも、金メッキのメタルにモールド成形したガラス玉をのせ、ブローチにしたものもありました。
ガラスビーズは、ネックレスの長さにつなげたものや、伸縮性のあるひもでブレスレットにつなげた楕円形のものなどがありました。
壁をおおうような照明付きのデコラティブなパネル、テーブル、ドアなどはどっしりとしたプレス加工でつくられました。
彫像は、飾りとして立てるほか、かくし照明を内蔵した土台に据え付けて形を照らし出すようにデザインしたりしました。
これらの土台は大理石でつくられる事もありましたが、通常はブロンズで、
単純な幾何学的な形や、彫像に合ったデザインの飾りのついたものが、ラリックの鋳物工場で鋳造されていました。
長い髪の裸のニンフ像、スザンナとその姉妹たちという聖書の物語から着想を得た
「スザンナ・オ・バン(水浴びするスザンナ)」の美しい彫像、パリの守護聖人である聖ジュヌビエーヌや、
その他の聖人像、扇形の大きなパネルにヌードの女性やマーメイドを配したデザイン、
槍試合のトーナメントに出る馬上の騎士、驚嘆に値するキマイラ(想像上の怪物)の像などは、
ほぼすべて照明のついた台座に据え付けられていますが、中には華やかに成形された花瓶に据え付けられたものもあります。
ラリックのガラス製品は、しばしば批判の対象となりました。
特にイギリスの作家は、洗練されておらず他に比べて良い点がないと批判しています。
E.M.エルヴィルは、彼の著書「イングリッシュ・テーブル・グラス」
(1951年)の中で、「ラリックの名声は、ガラス作家としてではなく
鋳型メーカーとしての才能によるものが大きく、彼のガラス作品には残念な点が多い」と書いています。
反対の意見を表明しているのは、ギヨーム・ジャノーです。
彼は「ラリックのガラス作品には、北極の氷のようなこの世の物とは思えない煌めきがある。
その風合いは、目で確かめるのは難しいほどで、これがかつては分厚く不透明な物質であり、
鋳型に流し込まれて形作ったものとはにわかに信じられないほどである。
実体のない光のようなものか、夜の北極星の凍った息吹でできているように思われる」と記しています。
こういった評論家の面々の気に障った理由の多くは、ラリックが
純度が高いにもかかわらず、あえてクリスタルガラスを使うことをせず、
より柔らかく使いやすいデュミ・クリスタル(セミ・クリスタル)を使ったことにあります。
彼の作品のほとんどは、透明の色付けされていないガラスでつくられ,形やデザインだけでインパクトを与えるものとなっています。
彼も時には、茶、赤、緑、青、グレー、黄色や黒といった色付けされたガラスを使いましたが、
色ガラスで特定のデザインを作った時はいつも必ず、透明なバージョンも製造していました。
しかしながら、色付けされたラリックのガラス作品は、
めずらしくとても魅力的なので、熱心に探し求める収集家もいます。
ラリックは(透明な、またはかすかに色付けされたガラスでつくられ)
成形された器を特別にミックスした染料にどっぷりと漬け込むことで器の表面に色付けをするという、
今までとはまた違った製造法も作りだしました。
器は、突出した部分はきれいに拭きとられ、漬けることで付着した色は、
すき間や暗い部分、デザインのハイライトとなる部分にだけ残ります。
彼は、時にはこの方法で、1つの器に2色以上の色を用いました。
ラリックは、一部の作品には、薄い青色から豊かな茶色まで様々な色合いの、
微妙なオパールのようなガラスも用いました。
それは、その作品を照らす光の方向や強度にあわせて選ばれました。
ラリックの作品には、アールヌーヴォー様式の影響を強く受けているものがあります。
長い髪のニンフや表現力豊かな尾をもつマーメイドなどの独特なデザインにおいて特にみられます。
その他はアールデコ様式の特徴をもった作品がほとんどです。
鳥や人物、植物などのモチーフが繰り返し帯状に連なったり、形や装飾がきっちりとジグザグ模様に描かれたりしています。
1925年のパリの産業装飾芸術国際博覧会(万国博覧会)では、1900年の万国博覧会同様、ラリックは大きな業績を残しました。
彼の作品は、彼本人のパビリオンだけではなく、セーヴル磁器製陶所のパビリオンにも展示されました。
その両方のパビリオンで、ラリックは、彼のテーブルウェアと照明をフルにディスプレイしたダイニングルームをデザインしました。
セーヴルのパビリオンでもっとも素晴らしい展示となったのは、天井のライトです。
モールド製法のガラスの仕切りにより、オパールのガラスのパネルに細かくわけられていました。
ラリックは、クールデメティエ・パビリオンの前にある堂々とした噴水もデザインしました。
星形の土台に、1本の細長いガラスの円柱が空に向かってそそりたち、噴水の蛇口をひねると円柱を囲むように取り付けられたノズルから水が吹き出し、噴水全体をおおうというデザインでした。
斬新なデザインはすべて、この万国博覧会でラリックにより御披露目されたものでした。
セキセイインコをかたどった乳白色の花瓶、くっきりと深くアラベスク模様が刻まれ、透明な本体と対比をなすように、
表面が黒く色づけされている厚みのある花瓶、魚やマーメイド、トンボなどがモールド製法で描かれたガラスの花瓶や箱などがありました。
彼は、ガラスウェアに全く新しいスタイルを創りだしました。
それはすぐに大流行となり、他のガラスメーカーにより安い品物がつくられるようになりました。
その中には、ラリックの作品を多少変えて作っただけのどうしようもない模造品もありましたが,
彼ら自身で、時にはオリジナルで魅力的なデザインを創りだしていることもありました。
1930年代には、ラリックにより新しいタイプのガラス製品が生産されるようになりました。
カー・マスコットです。
自動車がより光沢をもち、より速度をまし、よりエレガントになるにしたがい、
車のボンネットの先端を飾るのにふさわしいマスコットが不可欠となったのです。
ラリックは、さまざまなデザインをかたどった一連のマスコットを作りました。
それには真ちゅうのキャップについており、そのキャップは、マスコットをラジエーターのキャップにつなげ、
2色の透明なフィルターや電球、ダイナモをつなげるワイヤーをかくす役目を果たしました。
その結果、車にエンジンがかかると、マスコットはフィルターを通して光るのです。
それは光を調節することができたので、特に夜は効果的に輝きました。
ラリックが作ったもっとも素晴らしいマスコットの1つは「ヴィクトワール」像で、
今ではスピリット・オブ・ウィンド(風の精)として知られています。
ぐっと前にのりだした女性の頭部で、口を開け、彼女の髪は後ろになびきくっきりとした形を描いています。
もう1つは「リベリュル」という空を飛ぶ巨大なトンボで、ボンネットの上に
浮かんでいるようなポーズをとり、羽はしっかりと空の上をさしています。
その他にも魅力的なマスコットには、美しい形の馬の頭部や羊の頭部、
孔雀の頭部、ヌードのニンフが身体を後ろにそらしたヴィテスとよばれる美しい像などがあります。
また他にも、やや魅力に欠けますが、平らな形のものもあり、男の射手がひざまずいている像や
セイント・クリストファーを彫り込んだ丸いメダル、遊び心のある形をした尾をもつすい星、
グレイハウンド(猟犬)、跳ね上がった五頭の馬などがあります。
ハヤブサ、舞い降りるツバメ、オンドリ、魚なども丸い土台にデザインされました。
カー・マスコットは、透明なガラスのものが一般的ですが、中にはすきまが黒く着色されて強調してある物もあります。
それらはくすんだ色や乳白色、わずかな色合いを含んだガラスに時おり、
見受けられます。かなりめずらしいものなので、とても人気があります。
側面にモールドで成形する、底面に彫刻やアシッド(腐食)技法でほどこすなどで、
すべてに「R.ラリック」とサインがしてあります。
タイルやビーズ、ある種のライトのパネルやパーツをのぞき、
ラリックのガラス作品はすべてサインがされています。
初期の花瓶や作品には、作品ナンバーと共にカッパープレートとよばれる美しい筆記体で
「R.ラリック、フランス」とサインがされており、底面のふちに刻まれています。
人気のあるモデルは、何年ものあいだ製造されており、鋳型もまた必要となる時まで保存されていました。
初期のモデルを後にプレス成形する時は、その時使用しているサインを優先し、以前の作品ナンバーと筆記体のサインは廃しました。
1920年代の半ばからは作品にナンバリングすることをやめ、サインも変更しました。
大文字の「R.ラリック」は、底面に浅い浮き彫りで成形したり、テンプレートを使用してアシッド技法で彫ったりしました。
アシッド技法のサインは、肉眼ではほとんどみえないこともあります。
1937年、ラリックは彼のコンラヴィユの小さな工房を閉めました。
そして、1940年にドイツ軍がパリとフランスの大部分を占領すると,
彼のウィンジャン・シュル・モデールの工場は、ドイツ軍に接収されました。
ラリックはすでに80才となっていました。
彼は、その5年後、1945年5月5日、フランスが解放されてまもなく、亡くなりました。
彼の息子マルク・ラリックは、1920年からすでに
製造やビジネス面を担当していましたが、1945年に会社を継ぎました。
初期のモデルの生産が続けられる一方で
(そして、実際、なにかしら初期モデルが毎年再生産されていましたが)、
多くの新しいデザインが打ち出されました。
かすかな色味や色づけされたガラス、乳白色のガラスなどは使われなくなり、
表面を色づけされたものもなくなりました。
以前よりもよりクリアでよりピュアなガラス製品が好まれたからです。
1945年以後のガラス作品には、イニシャルのRは使用されず、すべてくっきりと「ラリック、フランス」と記されています。
(ただし、1930年代に生産されたボウルには、
ただ「ラリック」とだけサインされたものもあることを記しておくことは価値があるでしょう。)
1970代にマルク・ラリックは、色づけされたガラスを再度導入しましたが、
それは透明なガラスとあわせており、控えめながら効果的にコントラストを生かすためにのみ使用したものです。