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エミールガレ emile galle アールヌーボーの巨匠の歴史 4−1章

 2017/02/06 エミールガレ
この記事は約 18 分で読めます。 3,264 Views

『アール・ヌーヴォーの巨匠 エミール・ガレ』

エミールガレ最高傑作の大型ランプ

 

第4章 パリ社会の中心にて

ガレはビジネスやプライベートな用事でしょっちゅうパリに行っていたみたいです。

最初はプチ・エキュリー通りの34番地にアトリエ兼お店があったのだけれど、

そのあとマースラン・デギュペルスさんのおうち、1886年7月1日からはリシェー通り12番地に移転しました。

デギュペルスさんが亡くなってからは彼の息子のアルベールが引き継いで色々世話をしたみたいなんですが、やっぱりパリで成功するには、お店1軒持つくらいじゃダメなんですねー。

もっとパリジャンやパリジェンヌ達と直接知り合って、もっともっと興味を持ってもらわないとダメみたいです。

それに、批評家の人達の意見も大事でした。専門雑誌や色んな分野の雑誌や新聞でいっぱい取り上げてもらって、有名になる必要があったんですね。

ガレって優れた芸術家だっただけじゃなく、すっごい博識だったんです✨

政治家の知り合いもいっぱいいたし、作品にも多く使われてる植物の検証のために、植物学の専門機関の紹介でいろんな学者と知り合いで、『パリでのお友達リスト』みたいなものまで作ってたんですって‼️

ガレにはロジャー・マークスっていう一生の大親友がいました。

この人、ガレが成功するために芸術批評家たちに紹介したり、色々手を尽くしてくれた人なんです。

いいお友達を持って幸せですねー♪

マークスは1859年8月29日にナンシーで、ユダヤ人商人の家庭に生まれました。

ナンシーの国立高校に通っていたけれど、一般的な教育に不満があって、卒業してからは雑誌なんかの編集の仕事に着いたんです。

その中には『ナンシー アーティスト』っていう美術雑誌もありました。

ガレとマークスが知り合ったのもちょうどその頃みたいです。

でもマークスは転職して、パリの美術官庁管轄の仕事につきました。大出世

そこからガレとマークス、数えきれないくらいの数の文通スタートです♬

ナンシー出身美術批評家ロジャー・マークスの助け

 1883年3月28日、ガレの最初の手紙がマークスに届きました!

そのあと、1884年に開催された第8回装飾美術品展覧会に出品したガレの作品を紹介する記事をマークスは書いてるんです。

いよいよロジャー・マークスの出番です!

マークスさん、美術館の監視官長なんていう大役について、1889年のパリ万国博覧会(パリ万博)の一貫のフランスアート展覧会の総責任者になったんです。

これでマークスさん、一気に有名人になりました❗️

1902年には『ラ・ガゼット デ ボーザール』の編集長に就任。

1903年にはパリでの『サロン・ドートンヌ展』の創設メンバー。

1909年、彼は初めて”ソーシャル・アート”という言葉を使いました。

マークスはエドモンド・ゴンクールにすごく影響されていたみたいです。

1913年1月 マークスは『ソーシャル・アート、アート、そして産業』と命名された会議の場で、芸術の統一性を強く訴えたそうです。

そしてその同じ年に、亡くなりました😿

生前の1892年、マークスはフランスの第三共和政に、もっと新しいアートのコンセプトを取り入れた新しいコインを作ろう!と提案していました。

画期的な意見ですね!

だって、小さなコインならお金持ちだけじゃなくて貧しい一般市民の手にも渡るから、

芸術をフランス中に広めるいいチャンス💞

マークスから提案を受けた、ほやほや新米の経済大臣、ポール・ドゥメール

銅貨にはカプラン、銀貨にはルイ・オスカー・ロティ、そして金貨にはジョン・バティスト・ダニエル=デュピュイという3名の彫り氏を雇って、それぞれに共和国を象徴する新しい3つの肖像を彫らせました。

ちなみにこのルイ・オスカー・ロティが創った女性の肖像が、今のフランスのシンボルになってるんですよ!

若い女性の横顔で、その髪が風に吹かれてフリジアン帽からはみ出して揺れている様子。

皆さんもきっとどこかで見た事があるはず!な、あの女性の横顔ですよ〜♪

フランス革命や農地への種まきの際の大きな動き、種がフランスの未来に希望をもたらすイメージを共和国に与えた肖像。

女性、自然、そして社会的関心という3つのシンボルと共に、アール・ヌーボーはすっかりフランス第三共和国の一部を担う大事な存在になっていました。

ロジャー・マークスはその一生の中で何人ものその時代の偉大な芸術家達と知り合ってました。

マークスは芸術作品の収集家で、彼の収集作品の中にはエドガー・デガスエドワー・マネ、ユージェーン・キャリエールアンリ・ファンタン=ラトゥールアンリ・ドゥ・トゥールーズ=ロートレックポール・ゴーギャンクロウド・モネオーグスタン・ルノワールピエール・ボナーエドワー・ヴイヤーなどの絵画やデッサンが、オーグスト・ロダンの彫刻やエミール・ガレのガラス作品と共に並べられていました。

いや〜、すごい顔ぶれですね〜。美術館並みの収集です❗️❗️❗️

彼が亡くなったあとの1914年5月1日、この作品たちはあちこちに売却されてしまいました。

かの有名なガラス花瓶シリーズ『Eaux Dormantes』(眠れる水)の中でも最初の頃に創られた作品は、マークスさんの息子クロウドによって買い取られ、今ではオルセー美術館のコレクションの一つとなっているそうです。

ロジャー・マークスさんが作ったアーティストのリストにはたくさんの名前があったけれど、中でもガレに関しては特別多くの記事を書いていて、ガレがパリのアーティスト界にデビューできるチャンスを作ってくれてたんです。

ガレはいくら感謝しても足りないくらい、恩恵に預かってたんですね❤️

  ロジャー・マークスが亡くなってからは、ジョンルイ・マリー・ド・ブセー・ド・フォーコー・ド・ボーマルシェ長い名前!)が彼の代わりになってエミール・ガレを支えてくれていました。

当初法律の勉強をしていたけれど、何を思ったか、ジャーナリストになる❗️と思い立ったらさっさとその勉強を諦めてパリに引っ越してきました。

  そしてなが〜い名前の代わりにジョージというシンプルなペンネームを使って記事を執筆していました。

その後1893年にド・フォーコーはパリ国立美術大学の美学および芸術歴史の講師に就任します。

彼のこれまでの芸術家に関する知識はとても豊富で、印象派や革新派の学生たちに様々な刺激を与えていたようです。

エミール・ガレはそんな彼のために、1894年『サン・グラール エ ソン タバーナクル』(聖杯と聖櫃)を作りました。

そしてド・フォーコーはその作品を『金に光り輝く琥珀とあふれる真っ赤な血に浸される聖なる杯』と評価したそうです。

そして1903年の『全時代のアーティスト』というコレクションで、ルイ・ド・フォーコーはガレのことをそれは詳しく詳しく紹介したんです。

エミール・ガレの最初の伝記の誕生です✨

ところでガレはロジャー・マークスのおかげでルイ=オスカー・ロティという人とも知り合っていました。

この二人、すぐに意気投合して仲良しになったんです。

ガレがパリに旅行で行った際にもこのルイオスカー・ロティ、そして画家のピエール・ピュビ・ド・シャバンヌ、そしてオーグスト・ロダンと会っていました。

ちなみにエミール・ガレがロダンに出会ったのはロジャー・マークスの仲介のおかげなのだけど、正確に言えばロベール・ド・モンテスキュー=フゼンサックという人の存在も実は大きく影響してるんです。

エミール・ガレはナンシーにおいてロダンを支える

  1840年に生まれたオーグスト・ロダンはガレと同世代で、

自然を愛する心や非凡なる作品を生み出す才能をガレと同じように持っていた天才でした。

ガレがロダンを賞賛していたことは、ガレが書いた手紙からもわかります。

1892年、事件が起こりました!

ナンシーのとある公園に一つの像を作る計画があり、そのコンペにロダンも作品を

出品したんですね。そして見事に選ばれたんです👏

だけど。。。いよいよ除幕式!という時になって、当時のフランス大統領サディ・カルノが

その作品が気に食わないと文句を言い出したんですよ。

ロダン、ショックですねー😱

ガレは『ル・プログレ・ド・レスト』(東部の躍進)誌や『ラ・ロレーヌアーティスト』

などの雑誌でロダンを擁護する記事を書いて応援したのだけど、すでに心痛めていたロダン、

これ以上話題にしないでほしいと、ガレに頼んだそうです。

そのあとロダンは仲のいい友達と一緒にレオン・ガンベッタバルザックが過ごした

ビル・ダブレイへの巡礼の旅に出ることにしました。

ガレも誘われていたのだけど、1900年のパリ万博の準備に忙しくてお断りしたそうです。

だけど。。。実際のところ断った理由は別にあって、ロダンがアンチ・ドレフュス派だということが本当の理由ではないか、と言われているんです。。。。

ドレフュス派って?? それについては後ほどお話しま〜す🎵

”繊細なアーティスト、エミール・ガレに尊敬の意を”―エドモンド・ド・ゴンクール

  ガレは本当に幸せものです✨

ロジャー・マークスだけではなく、エドモンド・ド・ゴンクールという人もガレが有名になるために一役も二役も買ってくれていたんです。

1896年7月26日出版の『ゴンクールとアートという職業』という記事を書いたガレ。

そこでこう語っています。

エドモンド・ド・ゴンクールとは12年程前(1884年の第8回装飾美術展覧会だと思われる)に知り合いました。

1884年12月ガレはゴンクールの自宅で、中国の北京にある夏の宮殿からきたという

タバコケースを見せてもらったそうです。

そこでガレはその貴重なタバコケースを手に取ってみる事を許されたとか❗️

二人の信頼の深さが見られますね〜。

このあとも二人は何度も会っていて、時にはオーテイユにあるゴンクールの自宅、

もしくはゴンクールが長年1880年以来仲良くしていた作家&詩人のロベール・ド・モンテスキュー=フゼンサックがはじめたサロンだったりという場所で会っていたようです。

   その後もガレとゴンクールは長い間文通をしていました。

1885年に出された『ジュール・ド・ゴンクールの手紙』という文集に寄せた献辞の中で、ゴンクールはこう書いています。

『繊細なアーティスト、エミール・ガレに賞賛の意を。パリに来られる際には是非食事をご一緒したい。エドモンド・ド・ゴンクール』。

ガレにとってみたら、最高に嬉しいお誘いですね❤️

ちなみにその文集のタイトルにあるジュール・ド・ゴンクールとはエドモンド・ド・ゴンクールの弟の事です。

エドモンドはナンシーで生まれたけれど、ジュールは1830年にパリで生まれました。

ジュールは病弱で、両親が亡くなったあとも兄弟はずっと一緒に暮らしていました。

1870年に母方の遺産を相続した兄弟は、俗社会やブルジョワジョー(階級社会)を嫌って、オーテイユに引っ越して、その周りに昔なつかし18世紀の風景を作っていったそうです。仕事もやめて、遺産で最低限の暮らしは確保しつつ、絵画の世界に没頭していきました。

現代社会を嫌って避け、昔の面影を再現しながら生活してた二人ですが、その再現には現代芸術職の助けが必要だったんですよね。

彼らの意図とは別にその現代技術の質の高さを世間に広める結果になるなんて、皮肉なことですよね。

実際彼らがやった事は、アール・ヌーボーに大きな影響を与えたんです。

ガレもゴンクールに宛てた手紙でこう書いていました。

『あなたは、ご自身が現代の芸術家達に与えている影響の大きさに気付いていますか?』

  ガレはその後もゴンクールについてあちこちで記事を書いていました。

そこからわかるのが、ゴンクールは現代ヨーロッパの一般的な芸術作品には一切興味がなく、一度も購入したことがないということ。

ゴンクールは18世紀の東洋の芸術が大好きで、1863年頃から弟と一緒に日本の春画🇯🇵をコレクションしていたそうです。

現代アーティスト達にももっと理解を示してほしいとガレは何度もゴンクールに頼んだようですが、結局無駄足に終わってしまいました。

う〜ん、残念!

だって、本人は自覚してないのだけど、実はゴンクールは現代の芸術技術も大好き💞なんですよ〜!

たとえば、クリスタルガラスの作品。

そのガラス作品に、ナンシーの職人達が新しい技術で新しい風を吹き込むのを

楽しみにしていたそうなんです。

1894年4月11日、ガレの作品である蜻蛉の模様が付いた杯(『蜻蛉』)  を

ジュリア・アルフォンス・ドデ婦人に贈っています。

そしてその作品、現在は東京のサントリー美術館で保管されています🎵

 エミール・ガレとエドモンド・ド・ゴンクール、日本美術への共通した情熱

『伝統的なスタイルを保持しつつ。鋭い観察力、直接的で愛情にあふれ、そしてまた自然と調和している』という言葉からもわかるように、エドモンド・ド・ゴンクールは14世紀の日本美術をすっごく気に入っていました。

そんなゴンクールのお友達の中に、日本人の林忠正という人がいました。

林忠正は1878年にパリ万博の通訳としてフランスに渡ったままそこに移住。

そして日本美術の専門店を開いたそうです。

ゴンクールは林忠正に合計32通もの手紙を送っていて、二人は意気投合。

二人で葛飾北斎喜多川歌麿についての研究をしていたそうなんです。

またゴンクールはガレと同様に日本庭園も大好きでした。

二人とも『自然はデコレーションのひとつの鍵』と言うように、すごく大切にしていたんですね。

ガレは庭園愛好家として、オクタブ・ミアボーという人とも知りあいました。

二人は園芸に関する話題で盛り上がり、”ガレの目に情熱が燃え上がり全身でその興奮を表現する”(ミアボーの記事による)くらい、充実する会話になったとか。

時には話が盛り上がりすぎて、ナンシーで発見されたベゴニアの新種に関する話で意見が食い違い、議論になってしまうこともあったそうです。

  エドモンド・ド・ゴンクールは生前、多くの”時の作家”達を招待していたそうです。

その中の一部の名前を挙げると。。。

ギー・ド・モーパッソングスタブ・フロベールイワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフエミール・ゾラルイ=フランソワ・ヴイヨテオドール・ド・バンヴィルジュル・バーベイドルヴィリーフィリップ・ド・シェンヴィエレスレオン・クラデルレイナルド・ハンレオン・へニックアンリ・ミュルジェールロジャー・ド・ボーヴォワーテオフィル・ゴーチエ、また林忠正などなど。

文学史の教科書から出て来た名前ばっかり!

エミール・ガレはそんな彼らと知り合うチャンスをもらっていたわけです🎵 ラッキー🎵

  華麗な貴族モンテスキューは、ガレをパリの社交界に引き入れる

  ロベール・ド・モンテスキュー=フゼンサック伯爵とも親しくしていたガレですが、

その関係はロジャー・マークスやエドモンド・ド・ゴンクールとの友情とはちょっと違うものだったようです。

それでも実際ガレを本当の意味でパリの社交界のトップに紹介したのはモンテスキューだったかもしれません。

ロベール・ド・モンテスキューはメロヴィング朝の血を引く家系の生まれで、彼の先祖で最も有名なのはシャルル・ド・バツ=カステルモール

アルタニャンの領主で、アレキサンドル・デュマによって有名になった王家の三銃士のキャプテンだった人です。

皆さんにはダルタニアンという通称の方が親しみがあるかもしれませんね🎵

ロベール・ド・モンテスキューが亡くなる直前の1921年に、

自伝書『レ パ エファセ』(消された足跡)が出版されました。

その中で彼はガレとの関係について長ーく長く書き綴っています✏️

1884年、モンテスキューはジャック=エミル・ブランシュと一緒に

ロンドンを初めて訪れていました。そこで彼はウィリアム・モリスと出会い、

1860年からすでに兆候のあったアールヌーボーの世界に触れたのです。

ウィリアム・モリスに触発されてこのアートの新しい概念に気付いたモンテスキュー、

パリ万博に出品されたガレの斬新な作品に興味を惹かれたのも当然ですね🎵

その後二人は200通以上もの手紙のやり取りをする、とっても親密なお友達に

なったんです。

モンテスキュー伯爵はとっても頭が良くて、パリでは人気者でした。そんな人とガレが

意気投合してお友達になるなんて、出会いって不思議ですね〜✨

ガレのモンテスキューへの手紙の最初にはいつも『 気品高い友人へ』とか『 僕の大切な友人へ』とか『僕の親愛なる友人へ』とか書かれていました。

時には『あじさい王子へ』なんて、お茶目な書き出しも!

二人の仲の親密さが感じられます🎵

ガレはロジャー・マークスに宛てたように、モンテスキューを『ロベール』と名前で呼ぶことはありませんでした。

それでもガレはいつもモンテスキューを大切な友人として大事に扱っていました。

1894年の手紙にもこうあります。

『ここ数年の間、まるで天から差す一筋の光のように、あなたは私を導くすべてです。仕事に行き詰まっている時、私はあなたのきらめきの中で目をしばたたかせます。あなたの放つ火花を見て楽しんでいます。羽があれば、あなたが妖精達のために開く数々のパーティーに参加する事が出来るのに。でもね、私には火の鉄球があるんですよ。両手と両足にね。』

火の鉄💣? なんのこと

実は、モンテスキューがパリでパーティーを開催するのでガレを招待したのですが、

ちょうど新調したばかりのクリスタルガラス専用オーブンに火を入れたばかりで、

パーティーへの参加を泣く泣く諦めた、っていうことだったんです。

  1896年ロベール・ド・モンテスキューは、ロシア最後の皇帝ニコライ2世が皇后と一緒にパリを訪問した際のお食事会に招待されました。 名誉❗️

だけどモンテスキューの頭の中はガレでいっぱい!

彼にとってはこのお食事会は名誉でも光栄でもなんでもなかったようです。

コウモリ〜ガレの新しい情熱

ガレが次に熱中したのが、コウモリでした。

そんなガレをコウモリに支配された男に模したのがモンテスキュー。

1892年に自費出版にて、628ページにもなる本を100冊限定で出版しました。

その名も『コウモリ』❗️

この本はコウモリの透かし絵が入った紙に印刷され、表紙にもやっぱりコウモリが灰色のシルクの糸で刺繍されています。

『エミール・ガレは一生コウモリへの興味を失わないだろう。そして彼の多くのガラス作品にその姿を見る事になるだろう。』というこの時のモンテスキューの言葉はまさに的を射ていたと言えますね。

この本の出版前の1890年にガレは一つの作品を作ったのですが、その作品は曇りクリスタルガラスの表面の大部分にコウモリを意した黒い影があり、さらに三日月と土星の輪がついた『アリエルの骨壺』と称された作品でした。

  モンテスキューいわく、ガレは雲や星座、霧などを混ぜ合わせて不思議な生き物を創造していたということです。

同時にガレはモンテスキューの詩や表現からアイディアをもらっている事に感謝をしていて、『こうもり』の中の詩のひとつ『夜中の賛歌』もまた、夜とオーロラの不思議に魅了されていたガレを感化させていました。

二人、お互いにいい影響を与え合っていたってことですね🎵

  ガレとモンテスキューには多くの共通点がありましたが、その中に日本文化への深い愛情というものがありました。

1878年のパリ万博で日本の芸術品に心を奪われて以来、モンテスキューはそれらのコレクションをはじめました。

モンテスキューはこの万博にて12本ほどの樫の木、そして150年もののクロベの樹を購入し、小さくも立派な庭園を作り上げたとか。

さらにモンテスキューはベルサイユにも小川と橋がつけられた素晴らしい庭園を造り、ガレがその彼の別宅を数日間訪れた際にもその庭園を非常に高く評価したという話です。

二人は手紙のやり取りの中でそれぞれの日本庭園への知識を共有しあっていました。

 モンテスキューとガレ:植物への共通の情熱

植物学や園芸というテーマも二人の共通した情熱の一つでした。

ガレはモンテスキューが1883年に引っ越したパッシーの邸宅の庭のために、百合やその他の植物を送っていました。

モンテスキュー曰く、ガレは優れた植物学者であるだけでなく昆虫にも詳しいとのこと。さらには、その天才的な繊細さが彼の言葉の中にも見られる、と。

それを示すこんなエピソードがあります🎵

ある日モンテスキューがナンシーのガレンヌ通りにあるガレの自宅に招待された際、

ディナーテーブルの上にヒメフロウのお花と葉っぱ🌱が飾ってあったそうです。

ヒメフロウ= Geranium robertianum、そう、ロベール・ド・モンテスキューの名前にちなんで、このお花を選んだんですね🎵 ロマンチスト〜💞

残念ながらモンテスキューはこのもてなしをあまり喜ばなかったそうです。

ヒメフロウの野性的な花は、この上品なテーブルセットよりも、むしろ古くさい壁にかかった羽飾りと一緒の方がずっとお似合いだ、と思ったとか。

  二人は長い間友人関係を続けていました。

そして1896年には、1890年から1891年にかけて書かれた詩の作品集『青いアジサイ』を共同出版することになったのです。

モンテスキューもガレも、あじさいのが大好きでした。

1891年9月、モンテスキューはガレに、自分自身の組み立てたコンセプトで作る『アジサイの棚』の制作をお願いしました。

それに対し、ガレはこう返信しています。

『普段私に協力を求めてくるアーティスト達は追い返しているのだが、あなたからの頼みは、どうしても実現したいと思えてしまうのです。なので今回限り、特別に他人のコンセプトを使った作品づくりに協力したいと思います。』

この『アジサイの棚』は1892年パリのシャンドマースで開催された国民美術協会の展示会で発表されました。

審査員や批評家達からの評判はすこぶる悪く、オリジナリティにかけ、アレンジもなし、ただの寄木細工の作品だ、と言いたい放題!

ロジャー・マークスもなんとかしてこの作品の名誉挽回を❗️と頑張りましたが、

大げさに評価する言葉はただのむなしいお世辞になるだけ。😢

すっかり落ち込んだモンテスキューは誹謗を受け止める事を拒否して、

ガレ一人が矢面に立つ事になってしまったんです。

その時のガレがマークスに宛てた手紙にはこう書いてありました。

『親愛なるロジャーへ。私の共同制作者は矢を外し、自身の小さなトリコロールの爆弾と火薬を大砲に詰めた後にさっさと身隠れしてしまいました。』

ガレもショックだったでしょうね〜。

   だけど、この失敗に懲りない二人❗️

その後も1893年に『思考時計』、1894年には『藤の花の水差し』など、共同制作を続けています。

この数年の間に作られた芸術品の数々の中で、ガレの2つの壺だけが唯一国王に捧げられる価値のある作品であり、過去の苦々しい思い出を消し去ってくれたと、モンテスキューは1897年の『考える葦』の中で語っていました。

実際にそれらの壺はフランスからロシア皇帝ニコライ2世に贈呈されていました。

4−2章へ続く  

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妹尾 満隆

妹尾 満隆

合同会社SENOO商事の代表をしております妹尾満隆と申します。

ウェブという情報を発信してる人が見えてない中で、いろんな間違った情報がネット上にあるのを度々見かけます。

特にアンティークにおいては

・間違った情報
・信ぴょう性のない情報
・そもそも情報がない

などたくさんの課題がありました。

そこで私は、これまでのお客様との取引の実績、知識、経験、情報を元に正しい情報をウェブを通して発信していくことを会社の方針と掲げました。

ただ物を売る会社ではなく、これまでブラックボックスとされてきてた商品の真贋の見分け方を発信するというのが大切なことではないかと思ったからです。

なぜならアンティーク品の場合は情報量の不足から、買い手側が圧倒的に不利な立場にあったからです。

このアンティークの世界をもっとクリーンで、信頼のおける分野に成長させていく事が私の使命だと思っております。

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