アール・ヌーヴォーとアール・デコって何が違うの!?
目次
アール・デコ vs アール・ヌーヴォー:違いはなに?
ナンシー ミッチェル
2016年4月22日
アルフォンス ミュシャによるタバコの広告。アール・ヌーヴォー様式が際立つ。ウィキペディアのマスターピースアートより。
アール・ヌーヴォーとアール・デコは混同されやすい。恐らくそれは両者が「アート」で始まるからであろう。しかしアール・ヌーヴォーとアール・デコは20世紀を迎える頃に現れた全く異なる二つの美術運動であって、その外観も全く異なる。あなたがこの簡単な説明文を読めば、美術史の専門家ほどではないにしても、この二つを普通の会話に織り込めるようになり、友人たちに一目置かれるようになるだろう。
アントニ ガウディのカサ バトリョ。アール・ヌーヴォーのスペインでの例。
アール・ヌーヴォーは1980年頃ヨーロッパで始まった美術運動である。それはある部分において、それ以前の19世紀に人気であったネオクラシズムといった非常に伝統的な様式への返答であった。アール・ヌーヴォーのデザイナー達は現代世界に適した全く新しい美術の表現形式を創りたいと思った。その運動は(一つ上のような)チェコの芸術家であるアルフォンス ミュシャの絵画に影響を受けており、時折「ミュシャスタイル」と呼ばれる。
アレクサンドル・シャルパンティエのアール・ヌーヴォーによる内装。The Weeklyより。
アール・ヌーヴォーはしなやかな曲線と自然に啓示を受けたモチーフとで特徴付けられる。しかし我々の美術史学者アナが指摘するように、それはデリケートな美しさというよりは自然の生き生きとした力強さに、より動機付けられている。
エクトール ギマールによるパリのメトロは現存している(そして非常に愛されている)アール・ヌーヴォーの様式。画像はウィキペディアのSteve Cadmanから。
そのデザインは度々、当時恥ずべきことと考えられていた女性の肉感的な描写が特徴となっている。こうした全ての要素はアール・ヌーヴォーのデザインがしばしば夢幻的、空想的な感覚を持つことを意味している。
ニューヨークにそびえ立つアメリカンラジエータービル。アール・デコ様式で建築されている。他にもう少し有名な例として、クライスラービルがある。イメージはApartment TherapyのArchitizerより。
1910年頃、アール・ヌーヴォーはアール・デコに置き換えられ始めた。アール・デコは色々な意味でアール・ヌーヴォーの対極にあり、幾何学模様、高価な素材(漆、象牙、金)そして中国やアフリカさらにはメソアメリカのデザインに触発されたエキゾティックなモチーフを特徴としている。
フランスのアール・デコ様式の内装。The Weeklyより。
フランスでは、アール・デコは排他性と豪華さを強調した。アメリカでは、それはよりドラマチックになり、新発明された新しい輸送手段と機械文明時代を祝うものとなった。人体の描写は理想的な形に様式化され、そのことが、なぜ殆ど全てのアール・デコが、私にとっては、アイン ランドの小説のカバーにしっくりするのかの説明となっている。
鏡面仕立てのアール・デコキャビネット。1st Dibsより。
私が思うにアール・デコの最も興味深いところは、それが完全に新規でオリジナルなものであるのに、我々が非常に古いと感じるロマンティシズムやネオクラシックといった19世紀スタイルと、非常に現代的だと感じるモダニズムとの間の橋渡しとなっていることである。こうした様式を検索(あるいはピンタレスト)していると楽しくて我を忘れるが世界をしっかり実感することが出来る。
もっと読みたい方は:
アール・ヌーヴォーからアール・デコへ
リチャード ホワイトハウス
クライスラービル。ニューヨーク (1928-1930)
ウィリアム ヴァン アレン
アール・ヌーヴォー
アール・ヌーヴォー様式は1880年代初頭に現れ、第一次世界大戦直前に消えた。簡単に言うと、きらびやかなアール・ヌーヴォーはヨーロッパと北アメリカの都市部で揺らめく存在であった。それは、建築物や広告、家の内装やカフェの外装に見られるように、都市生活を飾り付ける時代の様式であった。
アール・ヌーヴォーは、産業革命後の急速な都市の拡大と技術の発展がもたらした極端な変化に対する反応であった。この時間軸において、アール・ヌーヴォーが発展した主な時期とその様式の様々な影響を理解する文脈を与えた世界的なイベントが好対照を成している。
ルネ・ラリック (フランス:1860-1945)
女性用トンボのコサージュの装飾 1897-1898 金、エナメル、緑玉髄、月長石、ダイヤモンド
カルースト・グルベンキアン財団、リスボン
アール・ヌーヴォーは、建築、家具、ガラス製品、グラフィックデザイン、宝飾品、絵画、陶器、金属細工、織物といったアートとデザインのあらゆる形態を包含している。これは伝統的に芸術を美術(絵画と彫刻)と応用芸術(陶磁器、家具、他実用的なもの)という厳密なカテゴリーに分離してきたことと好対照である。
アール・ヌーヴォーはヨーロッパの多くの国で隆盛を極めたが、その多くの国で独自の呼称に発展していった。アール・ヌーヴォーはフランスではフランスのデザイナー、エクトール・ギマールの名を取りギマール様式として知られる。イタリアではStile floreale(花模様様式)または英国のアール・ヌーヴォーデザイナー、アーサー・ラゼンビー・リバティーの名からリバティー様式となり、スペインではモダニズム、オーストリアではSezessionstil(分離派様式)、ドイツではJugendstil(青年様式)となった。これら様々な名前はこの運動が広汎に広がっていったことを反映しており、ヨーロッパの多くの主要都市 – フランスではパリとナンシー、ドイツではダルムシュタットとミュンヘン、ベルギーのブリュッセル、スコットランドのグラスゴー、スペインのバルセロナ、オーストリアのウィーン、チェコのプラは、ハンガリーのブタペスト – がその中心都市となった。
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(スコットランド:1868-1928)
Miss Cranstonのイングラム・ストリート・ティールームの女性昼食会場、1900年グラスゴー美術館、アートギャラリー&ミュージアム、ケルヴィングローブ。
ベルギーの建築家でありデザイナーであるアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ (1863 – 1957)はアール・ヌーヴォーの中でも最も成功した且つ重要な実践者の一人である。ウィリアム・モリスが率いた英国芸術と工芸の運動に触発され、彼は消滅しかかっていたビクトリア様式の建築と工業デザインに反旗を翻した。イクルにある彼の家(1895、ブリュッセル近郊)は初期のアールヌーボーのランドマークであった。 その家に合う家具がなかなか見つからなかったため、彼は自ら家具をデザインし、応用芸術を美術の地位にまで引き上げようとした。
ヴァン・デ・ヴェルデの成功により主にドイツから他の家の依頼が来るようになった。それは緩やかに描くアール・ヌーヴォーカーブを織りなす建築と家具が密接に統合された家であった。彼の様式の完全な表現は、パリのMaison de l’Art Nouveau(1896)やドイツのハーゲンにあるフォルクヴァンク美術館(1902)で見ることが出来る。ドイツとベルギーの美術学校 –ワイマール美術工芸学校(1907年)、後にバウハウス – の創設者として、ヴァン・デ・ヴェルデは最も影響力の強いアール・ヌーヴォーの建築家であった。
II. 英国
英国のアール・ヌーヴォーは、既に確立された芸術と工芸の運動から進化した。英国のデザイナー、ウィリアム・モリスによって1861年に確立した美術工芸運動は、手仕事の重要性を強調した。 モリスの手作り工芸品への傾倒は、産業革命が拡大するにつれて英国市場に氾濫していたできの悪い機械生産の製品に対する反発であった。美術工芸運動はまた、壁紙から銀製品まで全てが統一されたデザインで作られる、完全にデザインされた環境を推奨した。 1890年代の英国のアール・ヌーヴォーのデザイナーは、モリスの手作りの作品や統一したデザインへの傾倒を共有していた。これらの原則に彼らは新しい形式や材料を加え、アール・ヌーヴォー様式の美しさを確立していった。
イングランドでの最も初期のアール・ヌーヴォーの一例は、1882年に英国の建築家アーサー・マックムードによってデザインされた、様式に沿った曲線を魅せる椅子である。同様に、1875年にLiberty&Co.という店をオープンしたアーサー・ラゼンビー・リバティーの織物のデザインも、興味深い有機的な形態と曲線、装飾パターンを描いている。
1888年にイギリスのデザイナー チャールズ・アシュビーがロンドンに職人のためのワークショップと学校を開設した。アシュビーの家具や金属製品のデザインは、アール・ヌーヴォー様式のより直線的(直線または直角の)なバージョンを反映している。 グラフィックアートでは、オーブリー・ビアズリーがThe Yellow Book(1894-1895)などの定期刊行物やアイルランド生まれのオスカー・ワイルドによるサロメ(1894)の脚本版にイラストを描いた。 ビアズリーが頻繁に使った線としなやかな線として知られる特徴的な二重曲線は、英国のアール・ヌーヴォーのイメージと重なっている。
III.ベルギーとフランス
ブリュッセルのアール・ヌーヴォー建築は、ベルギーのデザイナー ヴィクトール・オルタとアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの作品で隆盛を極めた。グラスゴーのマッキントッシュと同じように、ベルギーのデザイナーたちは、伝統が支配する歴史的な参考書から解放された、新しい様式の創造を模索した。彼らは標準的な鍛鉄と鋳鉄技術を利用したが、それを全く新しい様式を創るために利用した。 ブリュッセルのオテルタッセル(1892-1893)では、オルタは2階を支える支柱を剥き出しにしただけでなく、その鋳鉄の形を、他の構造物とつながる、絡み合う植物の茎のような形に変形させた。
ルイ・マジョレル (フランス:1859-1926)及び ドーム兄弟(フランス:1878年以降に活躍)
オーキッドデスク、 マホガニー、金めっきされた青銅、ガラス。
同様に、フランスのデザイナー、エクトール・ギマールはパリのメトロの入り口(1898-1901)を、曲線の鍛鉄で装飾された単純な金属とガラスの形を用いて設計した。これらは、曲線と自然をモチーフにしたアール・ヌーヴォーの記念碑的な例である。
有機体への興味はフランスのガラスデザイナー、エミール・ガレの作品にもまた見いだすことができる。彼の故郷ナンシーから離れて働くガレは、葉、ブドウ、花で飾られた様々なガラス製品を製作した。彼は異なる色のガラスの層を融合して望む色が現れるようガラスにデザインを施した。デザインに深みをもたらすテクニックでもある。
IV.ドイツとオーストリア
アール・ヌーヴォーではドイツ語圏の都市にも根付いた。ドイツのミュンヘン、ダルムシュタット、ワイマール、そしてオーストリアのウィーンがその最も有名な都市である。ユージンスティール(青年様式のドイツ語)として知られるアール・ヌーヴォーは、Die Jugend(青年)などの定期刊行物を通じてミュンヘンで発展した。
ジョルナイ・ヴェルモシュ (ハンガリー:1828-1900)
花瓶、1899年、金属光沢のある陶器
ミネアポリス美術館、ノーウエスト社寄贈
ミュンヘンの青年運動を率いたスイスのデザイナー、ヘルマン・オブリストは、1896年の刺繍展でセンセーションを巻き起こした。この刺繍展は、美術と応用芸術の分離に挑戦しただけでなく、ミュンヘンの市民にアール・ヌーヴォーの生き生きとした形態を紹介した。 オブリストのデザインは、自然の形態に基づいてはいるが、しばしばファンタジーの世界を示唆する神秘的な形に発展した。
ドイツの建築家アウグス・エンデルの作品は、この先見的な品質を共有している。エンデルは、見る者に強い反応を呼び起こすような、強烈でダイナミックな形態を創造しようとした。ミュンヘンのエルヴィラフォトスタジオ(1896-1897)の外観のための彼の石膏のレリーフはまさにそれである。一部がドラゴン、また一部が飛んでいる海洋生物、一部が潮波、演劇的なレリーフは、アール・ヌーヴォーの有機的な形態をファンタジーの領域にまで広げた。
ウィーンのトレンドは大きく異なっていた。オーストリアの作家グスタフ・クリムトが率いる若手アーティストや建築家は、ウィーンの芸術の権威が立てこもる保守主義に反発してWiener Sezession(ウィーン分離派)と呼ばれるグループを結成した。ヨーロッパの他の地域と同様に、分離派のデザイナーは歴史的な様式を拒絶したが、ウィーンでは形態の簡素化を増すことでこれを表現していた。ミュンヘンのエンデルやオブリストのように曲がりくねった有機的な形態を取り入れるのではなく、ウィーンのアーティストはチャールズ・レニー・マッキントッシュの作品に例示されている控えめな幾何学的デザインに移行した。
V. スペイン
バルセロナの建築家アントニオ・ガウディの作品には、スペインのアール・ヌーヴォー様式が最もよく例示されている。そのデザインは彼の時代のアール・ヌーヴォーの考え方に対する非常に個人的な反応を表している。ガウディがバルセロナに建設したサグラダ・ファミリア(聖家族贖罪協会:1883年に建築が始まり、進行中)は彼の最も風変わりな作品の一つである。不相応に高い四つの尖塔がそびえるこの教会は、地面が異様に盛り上がったかのようだ。花のデザインは建物の正面を覆い、タイルのかけらが波打つ塔の表面で輝く。カサ・ミラ(アパート複合施設: 1905-1907、バルセロナ)では、海底の石灰岩礁のような幻想を作り上げた。この建物全体は切石で仕上げられているが、正面には直線が一本もない。
VI. アメリカ
米国では、アール・ヌーヴォーは19世紀初頭の伝統工芸から自然に進化した。 アメリカの家具、ガラス、金属工芸品、宝飾品は長らくヨーロッパのモデルを取り入れていた。米国とヨーロッパの間の交流はアイデアの継続的な交換を促し、1890年代までにアメリカのデザイナーはアール・ヌーヴォーの陶磁器、ガラス製品、建築に大きな貢献をしていた。 米国で開催された国際展示会では、アメリカ製品がハイライトされただけでなく、この新しい市場で勃興するデザインのトレンドに興味を持つヨーロッパからの訪問者も惹きつけた。
ティファニースタジオ(アメリカ:1902-1932)
Jack-in-the-pulpit 花瓶。 1902-1910、ファブリル・ガラス 個人所蔵
アメリカの主要なアール・ヌーヴォー イノベーターは、オハイオ州シンシナティのルックウッド・ポタリーとニューヨーク市のティファニー・スタジオであった。 ルックウッドは1890年代に設立され、柔らかく着色され自然な形で飾られたエレガントな陶器を幅広く製造した。ルイ・コンフォート・ティファニーのガラス製品は、おそらく最も有名な米国のアール・ヌーボーデザインの例である。 ティファニーは特許を取得したファブリールガラス(熱いガラスを勤続の煙霧にさらすことによって作られた玉虫色のガラス)を使用して、ステンドグラスの窓、ランプ、および様々なガラスのオブジェクトをデザインした。彼のデザインに取り入れられた鮮やかな色彩、流動的な有機フォーム、革新的なテクニックは、ティファニーを国際的なアール・ヌーヴォー デザインのリーダーに位置づけた。
VII.アール・ヌーヴォーの影響
アール・ヌーヴォーは、デザインにおけるモダニズムの始まりを表している。それは、量産された消費財が市場に出回り、数百年来の手作業による作品が失われたことをデザイナー、建築家、アーティストが理解し始めた時代に起こった。アール・ヌーヴォーのデザイナーは、この手工芸の伝統の回復を図りながら同時に、人類と自然のつながりを強調した新しい有機的な形態を支持して、伝統的なスタイルを拒否した。
ジュール・シェレ (フランス:1836-1932)
ロイ・フラー、1893年 石版
ビクトリア&アルバート博物館、ロンドン。
アール・ヌーヴォーのデザイナーが芸術と応用芸術の境界をなくしたため、彼らは生活のすべての局面、-建築、銀製品から絵画まで-にそのデザインを適用した。この統合されたアプローチの中にアール・ヌーヴォーが持つ最も深い影響力がある。1920年代のオランダのデザイン運動であるデ・ステイルや1920年代と1930年代のドイツのバウハウス学校など、さまざまな動きが続いている。アール・ヌーヴォーの芸術的要素はよりシンプルで合理化されたモダニズムの形に進化したが、徹底的に統合された環境という基本的なアール・ヌーヴォーのコンセプトは現代デザインの重要な部分に残っている。
アール・デコ
ロックフェラーセンター、ニューヨーク (1932-40)
アール・デコは快楽と退廃の世界、1920年代と1930年代の黄金時代に属している。まさにこの言葉からは多くのロマンチックなイメージが生み出される。月夜の海を滑らかに走る外洋船、カクテルグラスが触れ合う音と豪華な装飾を施した舞踏室から出てくる騒々しいジャズバンドの音。
黄金中のブローチ
このユートピア的に享楽が強勢されているにもかかわらず、アール・デコは、経済不振と不況、社会的闘争、失業者デモ、共産主義とファシズムの政治的な戦いの時代に勃興した。アール・デコがこうした自分のアイデンティティを作り上げたのは、この厄介な背景に抗うためであった。アール・デコは基本的に折衷的な様式であり、過去の様々な要素を引用している。しかし同時に、最新の工業材料や技術を採用して近代性を強調した。アール・デコに独特の特徴を与えたのは、歴史と近代の融合である。結局のところ、この盛大な活力と美しさの世界は、幻想の世界であり、同じ時代のハリウッドのミュージカルと同じように現実逃避の世界であった。しかしその美しさ、工芸品や想像力は遺産となり、その様式は主に建築物、家具、宝石、インテリアインテリアのデザインに使われた。
アール・デコは、洗練された合理的な形態が特徴である。幾何学模様さらに、実験的に金属、プラスチック、ガラスなど工業資材が使われる。アール・デコという用語は1925年に開催されたパリのデザイン展示会、Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes(現代装飾美術・産業美術国際博覧会)のタイトルの短縮であり、ここでその様式が初めて現れた。アール・デコは米国で急速に定着し、特に1920年代後半から1930年代初頭にかけてのニューヨークの摩天楼、クライスラー、デイリーニュース、エンパイアステートビルなど、建築において一世を風靡した。アール・デコの建築は大恐慌の時期に消え去ったため、その様式は時に現代恐慌様式として知られている。
ラ・パレッセ(1924-25年)
ジョルジュ・バルビエ 文化的退廃の場面
1924年の水彩画を基にしたプリント
アール・デコはまた、第一次世界大戦(1914-1918)後のパリとニューヨークの間での豊かな芸術交流の産物であった。戦後アメリカの芸術家、作家、ミュージシャンがパリに集まり、創造の仕事に新鮮なアプローチをもたらした。フランス人 -彼らの芸術は伝統に立脚していたが- はアメリカ人の即興的精神の何かしらを吸収した。その後、パリのÉcole des Beaux Arts(美術学校)で訓練を受けたアメリカの建築家が、ニューヨークの多くのアール・デコ様式の摩天楼のデザインにヨーロッパの影響をもたらした。
I. バウハウス
バウハウスは、近代建築、工業とグラフィックアート、そして劇場のデザインには驚くほどの影響を与えた有名なドイツのデザイン学校である。それは1919年にワイマールの建築家ウォルター・グロピウスによって芸術アカデミーと芸術工芸学校の合併する形として設立された。バウハウスは、19世紀の英国のデザイナー、ウィリアム・モリスとアート・クラフツ運動の、芸術は社会のニーズを満たすべきであり、芸術と応用芸術の区別は行わないという原則に基づいている。さらにそれは、モダンアートと建築は現在の工業化時代のニーズと影響に対応しなければならず、優れたデザインは審美的な基準と健全な技術の両方のテストに合格しなければならないという、より前向きな原則にも依拠していた。したがって、工芸、タイポグラフィー、商業および工業デザイン、彫刻、絵画、建築などといった授業が行われた。後に国際様式としても知られるバウハウス様式には、装飾や派手な見かけがなく、機能と芸術的および技術的手段の調和を特徴としている。
バウハウスは1932年にベルリンに移転し、1930年、建築家ルードヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが校長となった。1933年にナチスによって学校が閉鎖されるまで、その主義と実績は世界中に知れ渡っていた。その教授の多くはアメリカに移住し、バウハウスの教えは何十年もの間芸術と建築の分野で支配的であった。
II. 装飾美術
貴族(1920年代)、オットー・ポルツェル教授。 アール・デコ彫刻の最高の例。の1つであり、当時の長身で細身の女性がありありと表現されている。
アール・デコの誕生に最初に貢献したデザイナーは、フランスのファッションデザイナーポール・ポワレとフランスの宝飾・ガラスデザイナーのルネ・ラリックであった。アメリカのデザイナー、ルイス・コンフォート・ティファニーの実験的なガラスデザインに呼応し、1910年代のラリックのガラスデザインは、連続した流れるようなラインと繊細で独特な色が特徴であった。アンリ・マティスとパブロ・ピカソがパリの「ロシア・バレエ団」のために創った色彩豊かで独特なデザインは勃興するアール・デコにさらなる影響を与えた。アール・デコのデザイナーは、当時の考古学者が発掘した古代芸術、特に古代エジプト王のツタンカーメン(1922年にパリで展示された)の宝飾やマヤと他のメソアメリカの芸術を賛美し、それを借用した。
1925年の展覧会で数名のフランス人巨匠が発表した作品は国際的なセンセーショナルを巻き起こした。ジャック・エミール・リュルマンによるエレガントな象嵌木製家具、ジャン・デュナンによる機能的な漆塗り、ジャン・ピュイフォルカによる銀宝飾、ラリックによるガラス花瓶は、その現代性とオリジナルな線使いで称賛された。リュルマンは展覧会のために一連の部屋デザインし、それはアメリカとヨーロッパに広範囲な影響を与えた。ラリックはその後、同様に合理化された装飾体系を創り出し、フランスの豪華な海洋船「ノルマンディー」をデザインした。両方のデザイン共、金属、磁器、エナメル、エキゾチックな木材に美しく抽象的な線を描き出し、動いている機械の速さと優雅さを思い起こさせた。
III.建築
建築においては、アール・デコの偉大な成果はヨーロッパではなくアメリカにあった。 ニューヨーク市の摩天楼の創った三人は、1920年代から1930年代初めにかけて、爆発的に創作活動に取り組んだ。建築家レイモンド・フッド、ラルフ・ウォーカー、エリー・ジャックス・カーンは、街のランドマーク的な高層ビルの多くを製作し、形式、資材、装飾上の革新について他のデザイナーにインスピレーションを与えた。彼らの作品に大きな影響を与えたのは、フィンランド生まれのアメリカ人建築家、エリエル・サーリネンによる1922年のシカゴ・トリビューン・ビルディングビルコンテストに応募された、実現しなかったデザインである。彼の提案は選ばれなかったが、非常に多くのアール・デコ様式高層ビルを連想させるセットバック(段型後退)の普及に役立った。1916年のニューヨークゾーニングの法も、太陽の光が都市の峡谷のような通りに届くよう、段型後退が使用されることを後押しした。
アール・デコの影響
1930年代になると、アメリカのアール・デコは技術と次第にテクノロジーとスピードのイメージとして捉えられるようになった。それは現代的な光沢のある素材、滑らかで継ぎ目のない表面、空力的な水平線の使用を強調した。 ストリームライン・モダンとして知られている、より洗練されたこのアール・デコのバージョンは、初期アール・デコの細かな幾何学的模様に取って代わった。
銀製のティー・コーヒーセット(1934-39)、H.G. マーフィー
アメリカのデザイナー、ドナルド・デスキーは、ベークライト(プラスチックの一種)、クロムメッキ金属、リノリウム、ガラスレンガなどの新しい材料を用いインテリア家具や備品を制作した。アメリカのデザイナー レイモンド・ローウィはストリームライン・モダン様式のColdspotブランドの冷蔵庫によってアール・デコを家庭に持ち込んだ。ハリウッドは1930年代の映画の中に華やかなインテリアを取り入れ、この様式の人気を高めた。
アール・デコ様式は1940年代にも影響を与え続けた。現在は古典的と見なされている多くのデザイン様式と同様に、アール・デコはモダン・カルチャーの象徴的な瞬間-ジャズの時代、洗練された車、エレガントな衣装、古典的な摩天楼-を反映している。
MI6本部。ロンドン・ヴォクソールクロス (1988-93) テリー・ファレル
しかし、アール・デコが今でも魅力的であることの最大の証拠は、それが現代のアーティスト、デザイナー、建築家に影響を与え続けていることである。アール・デコ復興の古典的な例は、ロンドンのMI6本部のビルに見ることができる。その前面は滑らかで装飾的で非常に精緻であり、テムズ川のほとりに1930年代のハリウッドの壮大な舞台のように建っている。このアール・デコ時代のデカダンスとロマンスに対する賞賛は、この様式の持続性と人気の証明である。
リチャード・ホワイトハウスは銀細工職人であり宝石細工職人である。彼の作品はここ。
