アンティーク照明 シャンデリアの長い歴史を徹底解説致します!
目次
シャンデリアの歴史
序論
シャンデリアは何世紀もの間、多くの国で最も人気があり長続きした装飾である。
その歴史は800年以上もある。
時代を経るにつれ、社会の最上位層の人々の権力と富が増大するのを反映するかのように、より豪華になった。
また、技術や職人の向上の影響もある。
当初から豊かさ、豪華さ、偉大さの象徴として王族や貴族と近い関係にあった。
シャンデリアの進化を追うということは王族の歴史、特に普及の名デザインが誕生した15から19世紀、を知ることが必要とされる。
この記事では最も卓越した三つのヨーロピアン・シャンデリアに焦点を当てますーフレンチ・ロック・クリスタル、イングリッシュ・グラス、ヴェネチアン・シャンデリア。
それぞれ異なる起源と進化をしてきましたが、シャンデリアの様式と技術の進化を語る上では時代や国を横断して考えることが必要です。
高い制作費とパトロンたちの趣向の違いは流行や技術の変化を色濃くシャンデリアに反映させた。
保護主義者たちの努力虚しく、装飾のデザインはデザイナー、製作者、支配層の間で広く流通していた。
そのため、流行やデザインの帰属を追うのが困難になる一方、革新性や多様性が生まれる基盤が存在することとなった。
フランドルのシャンデリア
最初に脚光を浴び、その後長きにわたって影響力を保ったシャンデリアとしてはオランダの真鍮シャンデリアがある。
以前のシャンデリアは木や鉄で製作されていた。
例えば、8世紀のムーア風鉄灯や中世で広く用いられたシンプルだがエレガントな鉄の円形シャンデリアなどである。
真鍮シャンデリアの特徴は中央に巨大な真鍮の球体や連なった球体があり、それが曲線の腕木を支えるというものである。
現在はベルギーの一部となったディナンはディナンドリーと呼ばれる質の高い真鍮の装飾品で有名になった。
真鍮の滑らかな表面が蝋燭の灯りをよく反射するとして重宝された。
フランドルのシャンデリアは多くの場合ゴシック様式、聖人、花模様が描かれている。
特に人気だったのが、下の図のようにシャンデリアの頂点に双頭の鷲のエンブレムを入れたものである。
フランドルのシャンデリアはオランダの画家が描いた教会の内部の画によって広く認知されるようになった。
最も古いシャンデリアの画は1434年にヤン・ファン・エイクによって描かれた。
同じような様式のシャンデリアはレンブラントの弟子であったヘラルト・ドウの画に多く描かれている。
例えば、1663年の「水腫症の女」などがある。
ディナンの職人たちがヨーロッパ中に散ったことによってフランドル様式が広く知られるようになる。
オランダの真鍮シャンデリアはルイ13世が統治したフランスにおいて流行する(1610-43)。
しかし、最も人気を得たのはイギリスである。
イギリスは他のどの国よりも多くオランダの真鍮装飾品を輸入し、職人たちは何世紀もの間デザインを真似ることを強いられた。
フランスとロック・クリスタル・シャンデリア
フランスは18世紀後半まで高品質のガラスを生産しなかったという点でヨーロッパにおいても特異な存在である。
ガラスは磁器、銀、金メッキに比べて劣る素材と認識されていた。
シャンデリア製作は金属加工の一部と考えられ、ガラスは水晶で代用された。
これがロック・クリスタル・シャンデリアの誕生へとつながった。
この様式はフランスと特に結びつきが強く、特にヴェルサイユ宮殿で多く見られるが、ヨーロッパ中の豪華な邸宅で用いられるようになった。豊かさと豪華さの象徴となったのである。
この様式のシャンデリアでは金属の軸組に水晶のペンダント、耳飾り、薔薇飾りが装飾される。
ヨーロッパのいたるところ、特にボヘミア、から水晶の装飾を輸入した金属加工の職人が製作していた。
このような装飾の流通がロック・クリスタル・シャンデリアの起源を明確にするのを困難にしている。
初期の装飾は「遅い回転で加工されていた。」
つまり、切り子面の幅が細かった。
しかし、時が経つと大きな工場で蒸気を用いた生産方法に変化したためより深くカットすることが可能になった。
1880年頃になるとフッ素酸によってより安く、早く仕上げの作業ができるようになった。
石英は螺旋構造のため分子構造はダイアモンドに酷似している。
自然結晶化した石英は最も高品質な鉛ガラス水晶よりもはるかに反射する。
以下に述べるが、やがてガラスを用いてはるかに安価にシャンデリアを装飾する方法が発見されるが、石英は特別なものを製作する際には使われ続けた。
フレンチ・バロック
水晶を用いた最初のシャンデリアは17世紀に誕生した。
ルネサンス時代の後にフィレンツェで誕生したバロック様式でヨーロッパ中に広まった。
当時、イタリアとフランスの君主の交流が盛んだった影響でイタリア・ルネサンスの美術・流行がフランスの王族に大きな影響を与えた。
特にルイ14世(1643-1715)は建築と視角芸術を権力や自身の偉大さを誇示するために用いた。
その結果、フレンチ・バロック様式が誕生することとなる。
この様式はまたの名をルイ14世様式と呼ぶ。
この様式の典型的なシャンデリアは頂点に花束があしらわれた花瓶型もしくは竪琴型の銅メッキの軸にきらびやかな水晶を装飾したものである。
フレンチ・バロック様式のシャンデリアの典型はヴェルサイユ宮殿で見られる。
鏡の間にはたくさんのルイ14世様式のシャンデリアが飾られている。
17世紀の終わりにはフレンチ・ロック・クリスタル・シャンデリアの主要な2種類の様式が確立した。
ルイ14世様式のlustre à tige découverteとナポリ=シチリアの王女の名前を冠したマリア・アントニアの知られていた、より装飾的で全体が水晶玉とペンダントで覆われたlustre à laceである。
その豪華さはヨーロッパ中の王族が持つべき壮大さの基準となった。
例えば、1667年にイギリスのチャールズ2世は自身がルイ14世様式の水晶シャンデリアを持っていることを誇らしげに記している。
この時期フランスがヨーロッパ中の流行を発信し、統一した。
フレンチ・バロック様式はデザイナーに与え続き、その後もことあるごとに復活する。
フレンチ・ロココ
1725年頃にフランスでロココ、後期バロックがいきすぎたバロック様式の反動として誕生する。
ロココ様式はルイ15世治世時代に人気を得た。
この時期の典型的なシャンデリアは銅で作られ、緩やかな曲線、不規則な渦、有機的なモチーフを用いている。
花開いたロウソク立てはキューピッド、グロテスク、花冠で装飾されていた。
ルイ15世によって金細工職人長に任命されたフランス人デザイナーのジュスト・オレール・メッソニエの特に非対称な葉のモチーフがロココ様式を広めるのに重要な役割を果たした。
新古典主義や他のリヴァイバル様式
フランス革命、恐怖政治、総統政府時代(1794-1799)の後、ナポレオン1世によってフランス第一帝政(1804-1815)が成立した。
それまではルイ14世のバロック様式がヨーロッパの流行を席巻していたが、ブルボン家の没落はデザインに多大なる変化をもたらした。
かつての支配層への幻滅、民主主義への好奇心などの文化の変化が反映されている。
バロックやロココの軽薄さとデカダンスがより抑制された新古典主義への傾倒によって明白になった。
この時代のシャンデリアは古代ギリシアや古代ローマの美から多くを引用した。
はっきりとした線、古典的比率や神話上の生き物が用いられている。
1798年のナポレオンのエジプト遠征によって数多くの遺物が持ち帰られ、古代のデザインの参照対象となった。
ランプ型シャンデリアの中央に炎をあしらったデザインをするなどジャン・シャルル・デラフォスは新古典主義のモチーフが広まる上で多大な影響があった。
忍冬模様や革命の勝利を示す矢などのモチーフも新古典主義シャンデリアでは多く見られた。
王家を示す古代紋章のフルール・ド・リスが17世紀のシャンデリアの頂点にはあしらわれていたが、ブルボン朝の転覆を示すナポレオンの蜂に取って代わった。
新古典主義は18世紀後半と19世紀初頭にヨーロッパ中で流行した。
イギリスではジェームズとロバート・アダムがこの様式を用いたデザイナーの筆頭だった。
ポンペイ遺跡への旅に強く影響された二人は新古典主義の熱心な支持者だった。
他にもトーマス・チッペンデール、ジョージ・ヘッペルホワイト、トーマス・シェラトンなども古典主義の支持者だった。
特にロバート・アダム(1728-1792)は後にアダム様式と呼ばれ、後世のクリスタル・シャンデリアに多大な影響を与える新古典主義デザインを考案した。
長細い古代ギリシアの骨壺を軸に腕木の上部にクリスタルの尖塔があり、天蓋、花綱飾り、洋梨型の装飾、大きく垂れた皿などが装飾されている。
第一帝政に続いて後期新古典主義のルイ・フィリップ様式(1830-1848)が誕生した。
この様式の特徴としては第一帝政様式の装飾の影響を受けつつ、より重厚で大胆なデザインをしている。
中世のテーマやグリュブスやキメラなどのギリシア神話を参照していることもこの様式の特徴である。
ナポレオン3世が統治したフランス第二帝政(1850-70)も以前の様式、特にルイ14世、15世、16世から多くを参照した。
特に、ナポレオン3世の皇后、ウジェニー・ド・モンティジョ、はマリア・アントニアや革命以前の生活様式に熱心で、これらの時代の流行の再興を目指した。
さらに、19世紀になるとフランスは高品質のガラス・シャンデリアを製作するようになる。
特に、ガラス生産社バカラが1820年代に鉛ガラスを用いたシャンデリアを製作するようになる。
それ以来世界で最も有名なクリスタル生産社となった。
バカラのシャンデリアは美しい線と高密度の柱面体に特徴づけられる。
パリのミュゼ・バカラにて素晴らしい見本を見ることができる。
イギリスのガラス・シャンデリア
全く別の進化を遂げたのが、ガラス技術の向上に伴い、金属の軸に水晶を装飾するのではなく、全面ガラス・シャンデリアの誕生によるシャンデリア・デザインの進化がある。
鉛ガラスが発見された1720年代以降イギリスで作られ、ヨーロッパ中のガラス工場に広まった。
ガラスは厳密に言うと、生産過程で結晶化を必要としないのでクリスタルではない。
しかし、クリスタルと呼ばれるようになり、より柔らかく、透明度の高い種類が開発されると、シャンデリアの装飾として水晶の代りに用いられるようになる。
シャンデリアの製作に関してイギリスは独自の道をたどっている。
その一因として、他のヨーロッパの国々とは違い、ガラス生産の際に木材を用いるのが1615年に法律で禁止されたことがある。
そのため、原料と完成品が簡単に輸送できるようにガラス工場は水の近く、ブリストルなどの港町、に造られた。
結果的に、厳格な師弟関係と高い技術が構築されることになる。
1676年にガラス商人のジョージ・レイブンスクロフトがフリント・ガラスを発明し、特許を得た。
フリント・ガラスには高濃度の酸化鉛が含まれており、これにより、ガラスの透明度と加工しやすさが向上した。
結果的に屈折率が向上し、虹のような輝きが得られるようになった。
このおかげで、当時イギリスが最も高品質のガラス・シャンデリアを製作することになる。
イギリスのシャンデリアはかつてのオランダの職人たちが製作したような真鍮軸のデザインを継承している。
主に金箔や銀箔の塗られた金属部品は中心の軸と受け皿に限られた。
受け皿にガラスの腕が付けられ、土台の部分で下に曲げられた後上に曲げられ、先端にロウソクのための油受けが取付けられる。
時代が進むにつれて、ガラスのカット数が増え、より輝くようになった。
1742年に溶解銀メッキが発明され、ガラス軸の中に鏡の役割をするよう挿入された。
ジョージアン様式
初期ジョージアン様式のガラス・シャンデリアはヨークのアセンブリー・ルームとケンブリッジのエマニュエル・カレッジの礼拝堂で見ることができる。
しかし、ジョージアン様式のシャンデリアの最高峰はバースのアセンブリー・ルームにある。
これらはウェールズ公とデヴォンシャー公に気に入られていたガラス職人ウィリアム・パーカーによって製作された。
彼は1771年にジョナサン・コレとともにバースのアセンブリー・ルームの茶室と舞踊室のシャンデリアを製作するために委任された。
コレの方が重要なプロジェクトを任されたが、除幕式の直後に彼がデザインしたシャンデリアの腕が3本折れたため、危険と判断され、解体された。
パーカーが代りのものを製作するよう依頼された。
彼が製作したものは賞賛され、シャンデリアのデザインにおいてもいくつか重要な進化を示すものとなった。
特に重要だったのが、球体の軸を花瓶型に変更したことである。
これは古典主義の要素を初めて用いた例であり、より補足、上品な見た目となった。
この様式は摂政時代まで流行することになる。
この時代にはシャンデリアの大きさも大きく増すことになる。
ロンドンにあるウェールズ公の邸宅だったカールトンハウスにあるパーカーデザインのものは高さが4.5メートルもあった。
パーカーは大きなシャンデリアの場合は腕の先を細くすることが穴にかかる力を軽減する上で有効であることを発見する。
もう一つ特筆すべきことはパーカーのシャンデリアが初めて製作者に関して言及している点である。
これ以降、名前を印字するのが一般的になり、特定のデザイナーや生産社が優遇されるようになる。
また、シャンデリアを特定するのに大いに役立っている。
1765年に施行されたガラス税はイギリス全土のガラス工場から税金を徴集するもので、イギリスのシャンデリアの歴史に大きな影響を与えた。
税金から逃れるためにガラス工場の多くがアイルランドに移ることになった。
結果的に、アイルランドがイギリスのガラス生産の中心地となった。
特に、1783年にジョージとウィリアム・ペンローズが設立したウォーターフォードガラス工場が突出することとなる。
以前の真鍮球体が軸のデザインとは違うウォーターフォード・シャンデリアの誕生へとつながる。
これらのシャンデリアの製作者は自分たちでガラスを製作したなかった。
彼らはガラス工場から未加工もしくは加工済みのものを購入した。
ウォーターフォード様式が進化するにつれて、天蓋も誕生し、さらに装飾が施せる場所が誕生した。
油受けにも装飾がされ、鎖や花綱飾りも足されるようになった。
ダブリン城のステート・アパートメントには数多くのウォーターフォード・シャンデリアがある。
イギリス摂政時代と19世紀
ガラス税はイングランドでのシャンデリア・デザインにも大きな影響があった。
史上最も素晴らしく、有名な様式を郡然にも誕生させてしまう。
それこそがイギリス摂政時代様式、またはテント・アンド・バッグ・シャンデリアである。
価格を抑えるために製作者たちは高価なクリスタルでできたガラスの腕木をやめた。
代りにガラスの破片からできたクリスタルの粒を繋げてシャンデリアの頂点から垂らしてテントのような形をつくった。
軸の下からも粒のつながったものを垂らして袋をつくった。
何百もの粒がシャンデリア全体を覆ったため中央の軸が見えないほどだった。
ガラスの腕木がなくなったため、ロウソクはメッキ製の軸に取付けられた。
このような様式は1790年頃にイングランドで誕生し、急速にヨーロッパ全土へと広がった。
特に、フランスで好まれたようで、イギリス摂政時代様式ともフランス第一帝政様式とも呼ばれるようになった。
後年には何千もの種類が誕生することになる。
例えば、1810年頃には細長いつららのような粒が初期の梨型の粒の代りに用いられるようになる。
これらは同心円状に配置され、シャンデリア全体を覆い、滝のような効果が得られる。
19世紀初頭のイギリスのガラス職人で最も有名なのはパーカーと同じ道をたどったウィリアム・ペリーである。
彼は摂政皇太子、後のジョージ4世、のガラス職人に任命された。
摂政皇太子はシャンデリアに魅了されており、カールトンハウスのために複数のシャンデリアを製作するようペリーに依頼した。
その一つが1808年に完成したヨーロッパ随一と称される56個の照明があり、高さ4.2メートルのシャンデリアである。
ペリーはブライトンのロイヤル・パビリオンの音楽室にある9つの反転した傘のシャンデリアも製作した。
ペリーの典型的なデザインとしては細長い中心軸、花綱飾りと梨型ペンダントで装飾された大きい天蓋、ねじれたガラスの腕とハート型の先端装飾である。
ペリーはパーカーの息子と1833年にPerry & Coを設立した。
会社は世界中にシャンデリアを輸出し、一部は中国にまで輸出された。
しかし、19世紀後半にはその独占もF&C Oslerに取って代わられた。
1835年にガラス税が廃止されるとイギリスのガラス職人たちも裕福になった。
シャンデリアは当時のガラス貿易において重要な要素となり、多くの会社が製作に関わるようになった。
それらは主にロンドンに拠点があったが、イギリス第2の港であるリバプールにも置かれていた。
ジョンとジェームズ・ダベンポート、ヘンリー・グリーン、ハンコック&リキソンなどが最も著名な製作者である。
19世紀後半にはF&C Oslerが独占するようになる。
1780年頃の産業革命はシャンデリア・デザインに大きく影響することになる。
機械化と技術の向上は制作費の低下とより高度な技術の要求へとつながった。
その一例がオーストリア出身のダニエル・スワロフスキーが発明し、1892年に特許を取得したクリスタルを正確にカットできる機械の登場である。
また、産業化によって富が社会全体に分配され、中流階級がシャンデリアなどの高級品を持つことが可能になることを意味する。
ルイ・フィリップやナポレオン3世下のフランスと同様に19世紀のイギリスでは特に、ジョージアン、バロック、ロココの再興が流行することになる。
多くの人が高価な装飾品を手にすることでかつての貴族生活を体感することが可能になった。
19世紀は新たな照明がロウソクに取って代わった時期でもある。
それらはほとんどの場合、より安価で明るく、燃費もよく、手入れを必要としなかった。
19世紀初頭には石油、次に灯油のシャンデリアが誕生した。1
840年代までにはガス灯が一般的で19世紀後半にはガス灯のシャンデリアが登場した。
これらはほとんどの場合、複雑なロココ様式で、ガス灯とロウソク立て両方が存在した。
ガス灯はロウソクの光りに比べて明るすぎたので、光りを和らげるためにアラバスターで半透明の覆いが製作された。
しかし、シャンデリアと照明デザインに最も影響があったのは1879年にトーマス・エディソンによって発明された電球である。
電球はすぐに家庭でも使われるようになった。
シャンデリア・デザインにもいくつかの影響があった。
最も代表的なのがそれまでのガラス製の軸や腕木から配線が通るように中が空洞なものに取って代わった。
F&C Osler製のシャンデリアは1800年代後半からそのように製作された。
ロウソクがなくなったことで、腕木や照明部分が部屋に向って下向きに取付けられるようになった。
ヴェネチアン・シャンデリア
ヴェネチアン・シャンデリアの進化はすでに記したものと切り離して考える方がいい。
ヴェネチアン・シャンデリアは全く違う方向性のもと進化し、様式も技術も全く異なる。
ヴェネチアン・シャンデリアはヴェネチアの近くにある小さな島、ムラーノ島、の優れたガラス工業の結果である。
ムラーノ島のガラスの歴史は1291年に火災の危険を回避するためにヴェネチアからすべてのガラス職人が移住をさせられたことに始まる。
直後に、ヴェネチア共和国は地元のガラス職人がムラーノ島から移住することやムラーノ島以外で工房を開くことを禁止した。
こうすることで、ガラス製作と熱望された秘密を一ヶ所にまとめて、国際競争において有利であり続けた。
反抗的なガラス職人に対する厳罰、投獄や処刑など、の甲斐もなく、ムラーノ島からヨーロッパ全土へ移住する職人は後を絶たなかった。
ムラーノ島のガラス生産の黄金期は15から16世紀初頭である。
後にヨーロッパ全土で人気となる完全に透明なガラス、クリスタッロ、をアンジェロ・バロビエが1400年代に発明してから飛躍的に成長した。
水晶や鉛ガラスと違いヴェネチアン・ガラスはカットされていない。
溶解され、型に流されるため、より融通がきき、複雑なデザインが可能になり、柔らかい見た目となる。
バロビエと彼の子孫はムラーノ島のガラス特徴となる技術の多くを開発した。
その一つに中国磁器に影響を受け、多色のガラス(millefiori)と乳白色のガラス(lattimo)を生産するための技術chalcedonyがある。
しかし、最初のガラス・シャンデリアが誕生したのは1700年代になってからである。
この時期特に著名な職人がジュゼッペ・ブリアティ(1686-1772)である。
彼は今では古典的ムラーノ・シャンデリアとして知られるものを製作するのに特化していた。
中央に金属の軸があり、そこから多色、または透明な花、葉、果物と成形されたクリスタルで装飾された何本もの腕が生えている。
この新しいシャンデリアの様式は花束を意味するcioccheと呼ばれた。
装飾性、奇抜さと多色なデザインは当時のバロックやロココの影響を反映していた。
ブリアティは現在18世紀ヴェネチア美術館となった宮殿の名前を冠したレッツォーニコ・シャンデリアを製作したのでも有名である。
下の写真からも分かるように、これらのシャンデリアはどの様式よりも大きく、色彩豊かで複雑である。
ムラーノ・ガラスの人気が原因で17世紀後半には需要と生産が著しくて以下する。
保護法の甲斐なく、ヴェネチアン・ガラスはヨーロッパ全土で真似されていた。
ルイ14世下のフランスが特に熱心で、ムラーノ島のガラス職人をパリに移住させるためにあらゆる手段を用いた。
努力の甲斐もあって、クリスタル製作の筆頭となるサンゴバン社が1665年に設立する。
他の国のガラス製作も困難の一因となった。
特に、カリウム・クリスタルを用いたボヘミアン・ガラスは彫刻に向いており、人気となっていた。
イギリスの鉛ガラスもその高い屈折率で人気となっていた。
国際競争は18世紀を通して熾烈を極め、1797年にナポレオンによってヴェネチア共和国が滅ぼされるまで続いた。
他の産業と同様にガラス生産も劇的に減少し、多くの工房が閉じられ、いくつかの技術は完全に失われた。
1840年代に衰退の波が留まることになる。
これはムラーノ島出身の著名なガラス歴史家ヴィチェンツォ・サネッティ(1824-1883)が島の産業と伝統的な生産方法の復活を自身の使命としたためである。
1861年に将来の世代のために最高のガラス製品を集めたガラス美術館を開館した。
さらに、現在も使われている熟練のガラス職人が若い弟子を教えるための学校を創立した。
1864年にムラーノ島で最初のガラス製品の展示が行なわれた。
1867年のパリ万国博覧会でもムラーノ・ガラスは展示され、賞賛を集めた。
また、この時期のイタリア統一でムラーノ・ガラスを含むイタリア産の製品が他のヨーロッパの国と競う上で好ましい環境となった。
これら全てがムラーノ・ガラスの再興に貢献し、人気に拍車をかけた。
ピエトロ・ビガリア、アンジェロ・オンガロ、ジョヴァンニ・フーガ、ヴィンチェンツォ・モレッティとアンドレア・リオダは全員、ムッリーネや乳白色のガラスなどの古典技術を勉強し、復活させた職人の代表だ。
今日でもムラーノ・ガラス・シャンデリアの需要は多く、世界中に輸出されている。
20世紀と現代のシャンデリア
20世紀、21世紀を通してヨーロピアン・シャンデリアの人気が衰えていないことを強調したい。
特に、オランダの真鍮球体、フレンチ・バロックとジョージアン・シャンデリアは時代の波に飲まれず生き残った。
今日でも伝統的なシャンデリアは生き残っているだけでなく、模倣され、修復されている。
これほど選択肢が多かったことはない。
再生された骨董品、比較的安価な複製品から伝統的な方法で製作されたものまで。
20世紀後半に現代のミニマリストな内装にそぐわないとしてデザイン業界からは好まれなくなった。
しかし、数十年前からデザイナーや一般社会で復活に興味を持つ人が増えた。
現代の家のシンプルな内装に伝統的なシャンデリアを飾ることで新旧の共演を楽しむ人が増えている。
一方で、伝統的な様式から大胆に逸する流行があったことも述べておきたい。
1920と30年代のアール・デコでは現代技術の恩恵を熱心に受けた。
1925年のパリ万国博覧会では見事なアール・デコ様式のシャンデリアが展示された。
19世紀後半及び20世紀初頭(およそ1880-1910)のアール・ヌーヴォ様式も伝統的な様式を拒絶した。
芸術家は自然から着想するようになり、しなやかな線、蔦、花や昆虫が取り入れられるようになった。
アール・ヌーヴォの代表格はおそらく、ルイス・カムフォート・ティファニー(1848-1933)である。
ステンドグラスでつくられたシャンデリアが有名だ。
前述した通り20世紀後半にミニマリズムや間接照明が好まれた時期にシャンデリアは好まれなくなった。
しかし、最近では伝統的な様式にとらわれない革新的なデザインのシャンデリアが製作されている。
以下の見本が示すように多彩な素材とLEDや光ファイバーなどの革新的な照明技術により、シャンデリアの概念が拡大している。
2002年にスワロフスキーはいくつかの革新的なシャンデリアを含む「水晶宮」コレクションを発表した。
その一つがLEDライトで装飾された非対称な枝を有するトード・ボーンチェの「ブロッサム」である。
2000個以上のクリスタルにLEDがついていて、SMSを介してテキスト・メッセージを表示できる渦巻き状のピクセル・ボードとなっているロン・アラッドの「ロリータ」もそうである。
今日のシャンデリアは不思議な素材を用いておもしろく、おかしな効果をもたらす。
例えば、ハビタット社の「アイ・スパイ」はクリスタルと同様に光を拡散するプラスチックの虫眼鏡でできている。
2002年にはタッチ・デザイン社のピーター・ヴァロとマイケル・マラが20個以上のマティーニ・グラスを使ってシャンデリアを製作した。
ワイン・グラス、壊れた食器、ガラス・ボトル、放棄された自転車部品、ガミーベアーズを用いてシャンデリアを製作したものもいる。
最後に、イギリス人デザイナーシャロン・マーストンは光ファイバーを用いたシャンデリア製作の第一人者だ。
ナイロンと光ファイバーで花弁、羽根、貝などの形をした一点限りの作品を多く製作してきた。
彼女のコレクション「ブリリアント」は現代照明器具で初めてロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に展示された。