エミールガレ emile galle アールヌーボーの巨匠の歴史 4−2章
目次
- 1 『アール・ヌーヴォーの巨匠 エミール・ガレ』
『アール・ヌーヴォーの巨匠 エミール・ガレ』
ガレとモンテスキューの別れ
とうとうガレとモンテスキューがけんか別れをしてしまいました!
モンテスキューはその理由についてあれこれ言っているけれど、どれも納得できない不明瞭なことばかり。
きっと本当の事を言えない理由がなにかあるんでしょうね〜。
いくつか考えられる説があるので、紹介します🎵
説1:
1898年のある日、モンテスキューはガレとロダンをシャンティイーのオマール公に紹介しました。その場の招待客に、一人の女性がいました。
彼女はこの才能豊かなガラス職人との出会いにひどく歓喜して、もう他の食器類は一切買わない!
カフェ・オ・レもガレの作品の『アツモリソウの杯』でしか飲まない!と豪語したそうです。
その事になぜか腹を立てたモンテスキュー。
『田舎者の分別しかなく、未熟な上級者気取りの男。私は彼を、蟻のように群がってくる無数の”匿名の妃殿下”の一人に譲り渡す事にした。私はただいつもそうしているように、友人関係の木から枝を払い落とし、栄光を得たとすっかり勘違いをしているこの可哀想な男を切り捨てることにした。ちなみに彼はこの手紙を読んで驚き、不満に思うかもしれないが、私からはこの手紙の他に何も言う事はない。』
と言い捨てて、一方的にガレとの友人関係を断ち切ってしまいました。
これ、”焼きもち”ですよね〜。
説2:
フランソワ=テレーズ・シャーポンティエとフィリップ・ガーナーはもう一つの可能性を見ていました。
1897年5月4日、パリで開催されていたチャリティーバザーの会場を大規模な火災が襲い、そこで140人もの人が命を落としました。
その大部分が上級社会層の人達だったそうです。
パリ市内では、その場で男性達が自分自身が助かるために杖で女性を殴っていたという噂が広まっていました。
1ヶ月後の1897年6月3日、ロベール・ド・モンテスキューはアドルフ・ド・ロチルド男爵夫人のコレクションを観に訪れていました。
その際、ロチルド男爵夫人と一緒に会場に来ていた女性の一人とモンテスキューが言い合いになる場面がありました。
その女性、モンテスキューへの仕返しに、こんな事を言いました。
『彼は立派な杖を持っていて、まるで悲劇の最中に誰かを殴り倒すのにぴったりのサイズだったわ。』
モンテスキューはこの根拠のない侮辱にひどく傷つきました。
この女性の親戚でその場にいた詩人アンリ・ド・ロニエに事情を話して、事の収拾に協力してもらおうと頼むも、むしろ殴り合いになる始末。
ロチルド家にガレもいたはずなのだけど、ガレはすでにロニエ達とすでに立ち去っていて、モンテスキューとその女性が言い合いになった時にはその場にいなかったとか。
それが二人の友人関係の終わりの原因ではないか、という事です。
う〜ん、やつあたり。。。。ですかね?
説3:
もう一つの原因も考えられます。
1898年は、ガレが自分はアルフレッド・ドレフュス擁護派だと公言したことから、モーリス・バレス含め数多くの友人を失った年でもありました。
モンテスキューがこの事にどれだけ関係していたかは不明ですが、1898年1月14日から始まったゾラによるドレフュス再審を求める署名に、マルセル・プルーストやアナトル・フランス、サラ・ベルナール、もしくはアン・ド・ノアイユ伯爵夫人などという名前の横に彼の名前はありませんでした。
自身の著書『ゲルマントのほう』の中でマルセル・プルーストは登場人物であるド・シャルルス公をこう表してます。
『―ブロッチはフランス人だったと私は答えた。『あ!』シャルルス氏は言う。『彼はユダヤ人かと思ってた!』このどうにも理解しがたい発言をするシャルルス公は、私はこれまでに出会った誰よりもドレフュス反対派の人間だろうと思った。』
このシャルルス公の人物像は、実はロベール・ド・モンテスキューを参考にしたものだと言われているんです。
一方ガレはドレフュス擁護派。
つまりこのドレフュス事件がモンテスキューとガレの別れに影響しているのではないか、という可能性も、捨てられないのです。
ガレにとってモンテスキューとの友情って、どんなものだったんでしょうね?
作品の注文のため?
モンテスキューは個人的に、または友人達に贈呈するためにたくさんの作品を注文してました。
社交界への扉?
モンテスキュー伯爵の紹介によって、パリにおけるアーティスト社交界にガレは認められるようになりました。
ガレの性格にはあまりそぐわないかもしれないけど、それでもやっぱりパリの上級社会の
人々と交流できる事、社交界の空気に触れられる事は価値のある経験ですからね。
それにモンテスキュー伯爵の想像力は幾度となくガレを感化していました。
1890年の『アリエルの骨壺』、1892年の『アリエルの骨壺』の完成時には、アイディアをくれたモンテスキューに感謝の手紙を送っていました。
1893年2月には
『私がこうしてこの世界で生きる喜びを感じていられるのも、あなたのおかげだと思っています。あなたの心に響く言葉の一つ一つが私に夢を持たせ、私の作品に息吹を吹き込み、羽をもって飛び立たせてくれているのです。』という感謝の言葉と共に、一つの作品をモンテスキューに贈っています。
結局は、ガレは駆け引きなしに、心からモンテスキューを友人として大切に思っていたんですね。
時には自分とは相対する存在、時には自分の鏡のような存在。。。。
仲違いしてしまったのは残念だけど、二人が友人として過ごした期間はとても貴重で愛に満ちた時間だったと、想像できます💞
エリザベス・ド・グレフュールとの出会い
まだ二人が友達だった頃、モンテスキューは自分の従姉妹エリザベス・ド・カラマン=シメイをガレに紹介していました。
彼女はかの大金持ちアンリ・ド・グレフュール伯爵の婦人で、当時パリで最も美しい女性と称されていた人なんです✨
モンテスキューも伝記『ラ・ディヴィン・コンテス』の中で
『彼女は活き活きとした優雅さを身にまとい、同時にガゼルのような雄大さを漂わせながら現れた』と自分の従姉妹のことを表現していました。
マルセル・プルーストが著書『ゲルマントのほう』で創造したゲルマント公爵夫人の影にはこのグレフュール伯爵夫人の姿が隠されていたんです。
グレフュール伯爵夫人は頻繁にボワブードロンの城で夜会を開催しており、その企画の多くはロベール・モンテスキューが行っていました。
そこでガレはアントニオ・ド・ラ・ガンダラ、ポール=セザール・エリュ、ジャック=エミル・ブランシュなどといった数多くの画家達と出会う事になります。
フィリップ・ガーナーによると、1890年頃ガレはこの伯爵夫人に、自身の彼女に向ける情熱の証として『クープ・ミステリユーズ』(秘密の杯)を贈呈しているそうです。
ガレもグレフュール伯爵夫人の魅力に魅了されてしまったんですね〜💞
グレフュール伯爵夫人もパリの人間としては珍しく、ガレの創始したナンシー派の賛同者でした。
しかし!当時のパリの夜会の女王とされていたのはアンナ=エリザベス・ド・ブランコヴァン、マチュー・ド・ノアイユ伯爵夫人でした。
アンドレ・ジドは彼女のことを後にこう表しています。
『彼女が赤ん坊の頃は妖精達がそのゆりかごの周りにひれ伏した。彼女は名声、富、美しさなどすべてを兼ね備えた人物だ。彼女の話に少し耳を傾けるだけで、彼女の慎み深く沈黙してなどいられない、不思議な性分を見ることができるだろう。』
アンナ・ド・ノアイユはグレゴワー・バサラバ・ド・ブランコヴァン王子の娘で、ルーマニアのヴァラシーの王子やギリシャの有名なピアニスト、ラルーカ・ムスルの子孫でした。
彼女は子供の頃からすでに文章を書く事が大好きで、特にヴィクトル・ユゴーを神と讃え、その作品を『音や音節にまで栄光が宿っている。』と賞賛するほど魅了されていました。
1897年8月に彼女はマチュー・ド・ノアイユ伯爵と結婚しましたが、彼女の激動の愛の人生は何も変わらず。
特に1896年に知り合ったモーリス・バレスとの関係は長く続いたそうです。
彼女がアカデミー・フランセーズ選出されなかったのは、それは彼女が女性だったからだと言われています。アカデミーは彼女の作品に文学最高賞を授与していたのだから。
それでも彼女はベルギー初の女性アカデミー会員に選ばれ、そしてのちにフランスでは女性初のコマンドゥールに選出されました。
1893年サン・モーリッツにある彼女の別荘にて、彼女の叔母に招待されて来ていたマルセル・プルーストおよびアレキサンドル・ビベスコ王女と出会う事になります。
それから少しの間をおいて、彼女の兄コンスタンタン・ド・ブランコバンがマルセル・プルーストの親友となり、その後10年ほどの間ブラコバン家とマルセル・プルーストの親密なつきあいがはじまることになりました。
マルセル・プルーストがアンナ・ド・ノアイユにガレの花瓶を贈った時
エミール・ガレがアンナ・ド・ノアイユに出会ったのは、おそらく1895年オッシュ通りのモンテスキューの家であったと思われています。
ブランコヴァン一家はショパン、モーツアルト、ベートーベンなどを演奏する豪華な音楽夜会を開催していたんです。
たしか1901年か1902年頃ガレはアンナのために『我が願望の鋭い叫び』と題した、蝉が描かれている花瓶を作って贈りましたが、その花瓶は箱に入れらていたため誰もその実際の姿を見たものはいません。
でもきっとアンナの美しさに負けないくらいの作品なんだろうな〜✨。
そしてこの作品はアンナの詩『刻印』の中でも引用されています。
1902年パリでの国民美術協会の展示会に、ガレはクリスタルガラスのもう一つの花瓶を出品しています。
クオーツ、エメラルド、カメオなどが彫り込まれている作品で、これもまたアンナの作品の中に引用されています。
1901年6月、ガレはアンナの作品『幸せな一日』の中で引用されたことのあるガラス寄せ細工で出来た水差しをロジャー・マークスに贈っています。
1901年6月19日、ガレはロジャーにこう書きました。
『あなたのことを決して忘れた訳ではないと伝えたくて、ある水差しをあなたに贈呈したいと思っています。どうしても作りたいと思えるテーマに出会い、マチュー・ド・ノアイユ伯爵夫人の最も素晴らしい詩にも引用された作品です。ガラス寄せ細工が施され、夏の暑さの中でもいつまでも中の水を新鮮で冷たいまま保ってくれるでしょう。この水差しの素朴で洗練された形は、非常に心地の良い事をを表現するのに最適なものではないでしょうか。『幸せな一日』、庭、葉、あふれる甘美さ、池、野原、丘、静けさ、果樹の香り、夕日。。。。 優雅で優しいある日、井戸の陰で飲む冷たい水。』
嬉しいですよね、こんな言葉と共に貰う贈り物❗️
マルセル・プルーストはガレの花瓶をいくつもアンナ・ド・ノアイユに贈っています。
彼女は最初の贈り物に対し、こうお礼を言っていました。
『昨日そうであったように、きっと今後もずっと、あなたはいつも親切で魅力的な方です。あなたからいただいた花瓶が大変気に入りました。光り輝き、そして深い。自身の輝きに包まれそしてそれを吸い込む、まるで太陽のよう。本当に感謝します。マチューと私からあなたに最大の感謝を。また近いうちにいらしてくださいね。心からの友愛の意を込めて。』
でもこの手紙、実はアンナ・ド・ノアイユの筆跡を真似て誰かが書いたものだと言われているんですよ〜。 真偽のほどはいかに。。。。。
一方1904年1月8日と日付のついたこちらは本当にアンナ・ド・ノアイユ自身の手で書かれた手紙です。そこにはまた別のシダの花瓶の事が書かれていました。
『この美しいガラスの上に飾られた、感動するほど美しいシダを誇りに思う気持ち、そしてそれを手にする喜びを、あなたに伝えたいと思います。私の心には二つのシダの葉が描かれています。広大な牧草地のようになめらかで小さな姿のシダの葉が。そして、何より私からあなたへの友情の証を。』
こんな手紙をもらったら、誰でもメロメロ〜ですよね〜💞
後にプルーストの日記の編集者フィリップ・コルブは、シダの葉をガラス瓶に装飾するようガレに頼んだこの作品こそ、1902年に兄のコンスタンタン・ド・ブランコヴァンによって創始された月刊誌『ラ・ルネッサンス・ラティーヌ』の、1903年11月15日発行の誌内で発表されたアンナ・ド・ノアイユの最新作『激励』を暗示させるものだと指摘しています。
ちなみにマルセル・プルーストはアンナの妹エレーヌ・ド・カラマン=シメイにも同様にガレの器を贈ろうとしていたが、それは実現しなかったようです💔
窓のすぐ脇で、ガレのグラスの上でのように、雪の層が固くなっていく
マルセル・プルーストは、パリにて医者である父親と多大な財産と教養のある母親という家庭に生まれました。
そしてアールヌーボーの最初の理論家ジョン・ラスキンの作品の翻訳に長年を費やしていました。
1892年から1893年頃、彼はロベール・ド・モンテスキューからガレのガラス工芸作品の事を聞かされます。
それがプルーストとガレの出会いのきっかけになりました🎵
彼がメロメロ💞だったアンナ・ド・ノアイユ以外にも、プルーストは自分の友人達に好んでガレの作品を贈呈していましたが、ある時事件が起こりました❗️
友人の一人フェルナンド・グレッグの結婚に期して、一つの器を贈ろうとしていた時のことです。
なんと!
『君にはとても申し訳ないと思っている。君の結婚式以来、私は拷問の中にいるようだ。表面に『世界で一番素晴らしい日のために』と彫りたいと思っていた碧い器はなんと、割れてしまったのだ。まあ君はそれを目にすることはなかったのだけど、そのかわりといっては何だが、私からの贖罪の気持ちをおくりたい。その後病に倒れ、結局そのままにしてしまったのだ。』
その器は決して日の目を見る事はなかったのです。。。😢
残念ですね〜。
マルセル・プルーストがガレに彫ってもらおうとしていたこの器については、プルーストの1900年出版の文集『生きる事の美しさ』の中の『喜び』で引き合いに出されています。
マルセル・プルーストはガレのガラス工芸品を高く評価していて、自分の数々の有名な著作の中でもガレの作品について何度も言及しています。
例えば、『ゲルマントのほう』ではこう書かれています。
『冬はもうすぐそこだ。窓のすぐ脇で、まるでガレのグラスの上でのように、雪の層がかたくなっていく。シャンゼリゼにおいても、待っている若い娘達は来ず、ただ雀達がいるだけだ。』
ここで一つの疑問が浮かびます。
マルセル・プルーストは本当にガレと顔見知りだったんだろうか⁉️
ロベール・ド・モンテスキューに紹介されているのだから、少なくとも会った事はあるでしょう。
でもガレとプルーストの間で交わされた手紙は一通も見つかっていないんです。
ガレの記録からも、マルセル・プルーストからの作品の注文を示す資料も一切出て来ていません。
プルーストは作品の注文をする際、いつもパリにいるガレの代理人アルベール・デギュペルスのところに行っていたようなんです。
1902年12月初めに友人のアントワン・ビベスコ王子に宛てた手紙の中にて、その訪問の一つについて語っていました。
むむむ。。。。。謎が残りますね〜
ビベスコ王女との友情
アントワン・ビベスコは、1902年10月31日にブカレストにて急死したアレクサンドル・ビベスコ(旧姓コスタキ=エプレアノ)王女の息子でした。
1902年12月3日にパリのリシャー通りを訪れたあと、マルセル・プルーストはまだブカレストに残っていた友に宛てて長いお悔やみの手紙を書きました。
『何よりも私の心に衝撃を与えた事がなんだか、君に伝えようではないか。先日私はある器への装飾を頼みにガレの家に行ったんだ。しかしアトリエの人達は、その日は仕事が出来ないという。ガレの父親がちょうどその日に亡くなったんだ。”ではガレ氏は相当落ち込んでいる事でしょう”と私が言うと、こう言ってきた。”ガレ氏はその事を知らないのです。どうしてかって?彼は最近ひどく失望していて、そのせいで体の調子まで悪くなってしまったのです。今の彼に父親の死を伝えるなんてことは出来ません。” 彼のその失望は、父親の病気のせいではないのかと私が聞くとこう言った。”いえ、ガレ氏は父親が病気だという事も知りませんでした。ちょうど1ヶ月前、この世でもガレ氏が最も尊敬していた人物、ビベスコ王女が亡くなってしまったからなのです。以来すっかり意気消沈してしまい、ついには彼を隔離しなくてはいけないほどになってしまいました。その気持ち、理解できますとも。彼女は本当に素晴らしい女性でしたから。” この従業員は私が君と知り合いだとは思ってもいなかっただろう。そしてこういう話は100回以上聞いたかもしれない。』
1903年12月21日にロベール・ド・フレアに宛てた手紙に寄ると、プルーストはパリのリシャー通りにあるガレの店を再び訪れています。
『ガレのところで再び、私は当初思い描いていたプランを諦めたよ。そこでダイニングセットを見たら。。。君にはシャンパングラスが1本足らなくないか?君の奥方が使うグラスに、君の次の大勝利の名を刻み込んで、彼女がその成功を祝って飲むんだ。。。そのグラスはガレがしっかりと梱包して君に直接届けてくれるよ』
ガレはブラコヴァン王子の兄と結婚していたビベスコ王女、その兄弟であるニコラとジョージ・ビベスコ、そしてオドン・ド・モンテスキュー伯爵夫人にとても近しい関係でした。
王女とはモンテスキューの家やブラコヴァン家、もしくはゴンクールの家で何度も会う機会があったからですね。
1900年の春にガレは王女からパリのオペラに誘われていましたが、仕事に追われていた彼は、かつてロダンからのヴィル=ダブレイへの誘いを断ったのと同様に、泣く泣く諦めざるを得なかったのです。
ビベスコ王女はそのピアニストとしての類いまれなる才能の他、その美しさと知性でパリの上級社会のすべて魅了していました。
王女は1902年4月5日に行われた、ガレの娘テレーズとルシアン・ブルゴーニュとの結婚式にも招待されていました。
この時ガレンヌにある自宅のバルコニーにて撮影された写真に、彼女はガレの隣に写っているんですよ。
二人の親しさがその写真からも伝わってくるようです🎵
ガレは彼女にエーデルワイスの寄せガラス細工のついた杯を献辞をつけて贈っています。
サラ・ベルナール、ポール・ヴェルレーヌ、そしてエドモン・ロスタンとの友情
ロベール・ド・モンテスキューは1896年12月9日にガレをサラ・ベルナールに紹介しています。それはこの大女優の栄誉を讃えるために開催されたパーティーの席でした。
この時のサラとの出会いの思い出にと、ガレは黒い鉛筆で『親愛なる友人よ、誇り高く美しい女性サラとの出会いの記念に、この器をあなたに。』と書いた器をモンテスキューに贈呈しています🎁
ドレフュス事件を思い出させる2つの器の他、サラ・ベルナールはもう一つ『小さな笑顔と大きな涙』と名付けられたガレのガラス作品を持っていました。
このタイトルは1911年にノーベル文学賞を受賞したモーリス・メーテルリンクの文章からつけられたもので、ガレはこの偉大な作家メーテルリンクとはパリで出会い、その後文通を交わしていたとのことです。
この他ガレと出会った有名な作家達の中にポール・ヴェルレーヌがいました。
彼は1894年にシャルル・ゲランとエミール・ガレの紹介でナンシーで講演会を開き、その夜グランドホテルにて二人によって開催された夕食会にはナンシー在住の多くの文学家や芸術家が招かれました。
その中にはヴィクトル・プルーヴェ、カミーユ・マルタン、ユージェン・ヴァランそしてジョージ・シェファー達もいました。
そこでの逸話を一つ。
デザートの時ヴェルレーヌの右隣に座っていたガレは、この詩人に『彼女はその神のように崇高な目を閉じた』と彫り込んだ器を、彼への尊敬の意を込めて贈ったのです🎁
この引用はヴェルレーヌの作品『ベレニス』からのもので、詩集『昔と近頃』の中におさめられています。
ガレが心を込めて贈った作品をヴェルレーヌは、なんと!
パリの編集者ヴァニエに預け、それを売ってお金を作るように頼んだのです。
ヴァニエはそれを二束三文で本屋のレネ・ウィナーに売り払いましたが、そのウィナーはそのまま器をロレーヌ歴史美術館に寄贈したそうです。
大事な作品を理解してくれる人が買ってくれてよかった〜😌
ガレはパリでその他多くの詩人や作家と出会っています。
その中にはガレが『生きる道』と題したナスタチウムの花の器を贈ったエドモン・ロスタンがいました。ガレが彼に贈ったこの器には、ヴィクトル・ユゴーの文章が引用され、彫られていました。
ガレは詩人アンリ・ド・レニエとも深い友情関係にありました。彼の作品『真夜中の結婚式』の中で、1898年のパリ万博の際にジャック・ド・セルピニーがガレのガラス作品の前で見せた感嘆ぶりを詳細に書いています。
ガレがパリで交友関係にあった他の作家としては、アルフォンス・ドーデがいます。
次の章ではアルメニア人大虐殺というジェノサイドの抗議運動をしていた頃のアナトル・フランス、ピエール・キヤーとガレとの関係について言及してみようと思います♬
忘れがたき夜:ベルリオーズのオペラ『トロイヤ人の日々』の公演
ガレは子供の頃から大の音楽好きでした。
パリに行く機会がある度に、コンサートや劇、オペラなどを鑑賞していたそうです。
そして当時の音楽家、オペラ歌手、女優達などとも交流を深めていました。
1892年6月28日、ガレはド・グレフュール伯爵夫人と共にヘクトル・ベルリオーズの『トロイア人の日々』というオペラの公演に来ていました。
ガレは伯爵夫人にこの忘れがたい夕べへの感謝の気持ちをこう述べています。
『あなたには心の底から敬意を表し、また感謝しなくてはいけません。ベルリオーズの『トロイヤ人の日々』を聴きながら、一つ一つの言葉やアイディアから感じられるこの作品の壮大で、心を打つ、素晴らしい魂はこの世で感じられる響きのすべてではないかと思っていました。それもすべてあなたのおかげです。』
この壮大なオペラの感動の証として、ガレは1894年にベルリオーズの作品への敬意を示して『かの夕べ』と題した杯を作っています。
このタイトル、『トロイヤ人の日々』の第2幕の中から引用されたものなんですよ〜✨
この杯にみえる星の数々は重苦しい空に眩しいばかりの光を差し込み、それはまさしくヘクトル・ベルリーズの並外れた個性にあふれかつ壮大なスケールのこの作品を連想させるものです。
1897年6月1日、ガレはモンテスキュー伯爵、ド・グレフュール伯爵夫人、そしてジャン・ド・モンテベロ伯爵夫人と連れ立って『椿姫』の公演を観劇していました。
それはまさに大女優エレオノーラ・ドゥーセの名を一躍有名にした公演だったのです。
ロイ・フュラーとダンスの魔術と光
エミール・ガレはパリにてロイ・フュラーとも出会っています。
フィリップ・ガーナーによれば、ガレはフォリー・ベルジェールに付き添ってこのアメリカ出身のダンサーの公演を観に行っていたはずだと言うのです。
ガレは1893年の『エクリ プール アール』の中の自身の記事で『1900年代の数多くのアーティストにインスピーレションを与えた女性との出会いで感じた喜び』を書き綴っています。
同じくフィリップ・ガーナーによるところ、ガレはルペール・カラバン作のロイ・フュラーの像の写真を持っていたらしいのです。
さらにガレからカラバンへの手紙に書かれている『私の無理な頼みをきいていただけないだろうか。ロイの尊大かつ極めて美しい姿の像を1体、いや出来るならば2体作ってはもらえないだろうか。』という事が確かなら、ロイ・フュラーに感化されたパリの彫刻家が彫った2体のタナグラ人形の小さな像をガレは持っていたことになる。
ロイ・フェラーにすっかり夢中💞になってしまったガレ❗️
ロイ・フュラーの何がそこまでガレをかき立てたのでしょう⁉️
ロイ・フュラー自身もガレの信望者の一人で、彼の素晴らしい作品を少なくとも一つは持っていたようです。
1900年のパリ万博の際、ロイ・フュラーは万博出展作品の一つとして彼女が上演していた作品の会場であり自身の名前がついている劇場兼美術館に迎えに来るよう、ガレに頼んでいます。
その会場ではロイ・フェラー自身の輝かしいダンス、そして川上音二郎とその妻貞奴率いる一団が上演しており、この日本劇の前座としても彼女は舞を披露して人々を魅了しました。
きっとガレは彼女を迎えに来たついでにこの公演を観劇していたのかもしれませんね。
エミール・ガレは、フランス劇をこよなく愛する批評家ジュール・クラルティーとも素晴らしい関係を築いていました。
そしてその彼の紹介で悲劇俳優のマーガレット・モレノやジャン・スリー・ムーネ(通称ムーネ・スリー)、フレンチコメディーの伝説的女優ジュリア・バーテ、俳優アーネスト・コクラン(通称コクラン・カデ)、そして演出家兼俳優のシャルル・ル・バージなどと知り合っています。
彼はマーガレット・モレノとアーネスト・コクランとは文通をしていました。
ガレが交流していたパリの作曲家および音楽家は特に非常に数多くいました。
ウジェーヌ・イザイ、ヴァンソン・ダンディ、ラウル・ブーニョ、ジュール・マスネ、アルフレッド・ブルノー、レイナルド・アン、そしてアルベリック・マニャーなど、本当に充実した顔ぶれです!
ガレはラウル・ブーニョとウジェーヌ・イザイそれぞれに、ビクトル・ユゴーの同じ引用文をつけた異なる器を贈っています。
エミール・ガレはパリの芸術家達の間では名の知れた人物でした。
ガレがひいきにしていたり、もしくは交友関係にあった画家の中にはピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ジョン=フランソワ・ラファエリ、アリ・レナン、ウジェーヌ・カリエール、ジュール・シェレ、グスタヴ・モロ、そしてガレと同じくロレーヌ地方出身でパリに住んでいた二人の画家シャルル・セリエとジュール・バスチアン=ルパージュなどがいました。
ルイ・パスツールへの敬意
ガレはパリでいろいろ異なる分野の人物達と親しくしていましたが、その中でもルイ・パスツール一家とはちょっと他とは違う、特別な関係を築いていました。
1893年10月ガレが『ロレーヌの植物』と名付けたテーブルを完成させた際、その作品の写真を120枚印刷させました。そのうち91枚を近しい人々に贈り、その中にはパスツールの孫娘カミーユ・ヴァレリー=ラドがいました。
カミーユはパスツールの唯一生き残った娘マリー=ルイーズ・パスツールとレネ・ヴァレリー=ラドの間に生まれた娘で、当時彼女はたった14歳❗️
ガレは自身のポートレートをヴィクトル・プルーヴェを通じてマリー=ルイーズ・ヴァレリー=ラドに贈っているのです。
ちなみに新年の贈り物の宛先として手書きで書かれたリストの中にはこう書かれていました。
『バレリー・ラド婦人(カードか花を新年に、ジャンヌ・ダルクの陶器をバレリー・ラド嬢に)、テーブルの写真』
エミール・ガレの手書きの記録の中にはこう記された小さな紙切れも見つかっています。
『アカデミー・フランセーズの会員のルイ・パスツール、デュト通り21番、ジュラのアーボアに。 デュト通り―15区―ヴォージラー大通りから始まりアルレイ広場で終わる―ヴォージラー大通りはセレス通りから。』
一見、意味不明⁉️なこのメモ。。。
きっとガレはその場所に行くための道順を書いたんでしょうね。
つまりはガレがパリのルイ・パスツールの自宅を訪れていた、ということになります。
この訪問はおそらく1893年4月30日のものだと思われます。
というのもその日は、パリの高等師範学校の学生と教授達がガレに注文した杯をパスツール研究所の偉大な学者に贈呈した日だったからなんです。
ガレはこのセレモニーに出席しました。
そこでルイ・パスツールが著書『歓喜の本』の中でガレについて記述していた事に
感謝の意を示しています。
ガレとパスツール一家との関係、特にヴァレリー=ラド一家との関係は、このセレモニーがきっかけで強い絆ができたと思われています。
この『パスツール』という器の創作にあたり、ガレはパリ高等師範学校の何人かの人とも知り合うことになったのですが、それは研究所のメンバーかつ所長のジョージ・ペロ、副所長のポール・ヴィダル・ド・ラ・ブラシュ、研究室長のジュール・トネリー、そして会計のポール・デュピュイなどです。
ポール・デュピュイには、『パスツール』器の制作にあたっていくつかの手紙が送られていました。
この作品制作に関しては、1893年1月2日にフランス国務院の聴取官であり装飾芸術中央組合の運営委員であり、さらにはガレの作品の収集家でもあったエドモンド・テニィに送ったユーモアあふれる手紙の中にはさらに詳細に記されていましたよ〜✨
『ちょうどこの時はパスツール氏のために混ぜて、ちりばめて、クリスタルガラスの血管の中で発酵させていた。私は炉床で桿菌やウィルスの培養をしているんだよ。どうか高等師範学校から偉大な博士のためにと作られたこのなんともモダンな装飾の作品がひび割れたりしないよう、祈っていてほしい。』
政治家達との関係
ドレフュス事件の際、ガレは多くの人物と出会い、エミール・ソラ、ジョージ・クレモンソー、オーグスト・シュレー=ケスナー、ルイ・アヴェ、ジョセフ・レイナック、ピエール・エリンガー、ルネ・ワルデック=ルッソーなどとは文通を交わしていました。
ちなみにドレフュス事件については、次の章で詳しく書きますね〜🎵
エミール・ガレは1899年から1906年までエミール・ルーベが大統領の任期中に秘書官を勤めていたアベル・コンバリユーとも親しくしていました。
ガレの晩年、エミール・ルーベ大統領はたびたび彼の健康を心配していたと言われています。
この章で紹介したガレの友人達の面々を見るだけでもわかるように、数でも質でも、
ガレの交友範囲はとてつもなく広くて、類いまれなものだとわかりますよね✨
ただ単に顧客を得るためだけにパリのあちこちに顔を出していたとは思えません。
人権擁護のための戦いに身を捧げたことで、政治への関わりを強めました。
文化への強い渇望が、 その時代の偉大な芸術家や作家達との関係を作りました。
彼の科学的探究心もまた別の人間関係を作り上げました。
つまり、パリで最も注目されていた人々に与えた影響を考えれば、ガレ自身がパリで成功したのも全く不思議ではないということですね🎵
5章へ続く