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エミールガレ emile galle アールヌーボーの巨匠の歴史 3章

 2017/02/06 エミールガレ
この記事は約 19 分で読めます。 443 Views

『アール・ヌーヴォーの巨匠 エミール・ガレ』

エミールガレ作 植物文様の花瓶

 

 

第3章 人生、そして社会への想い

ガレはとっても繊細な心の持ち主で、宗教や社会と自分の距離感なんかについても人一倍、考えに考えて出した答えがあったと思います。

同時に、ガレには常に近くで支えてくれる家族や友人がたっくさんいたんです💞

もちろんその存在は、ガレ自身がとっても魅力的だったから故のことなんですけどね💞

その家族や友人達の中には、こんな人々がいました:

ガレの最初の家庭教師だったヴァージニ・モーヴェ、敬虔なカトリックな友人ポール・セニェレ、義理の父親でありビシュヴィラーの牧師だったダニエル・グリム、彼の妻ヘンリエット・ガレ=グリム、 義理の姉エリーズ・シャロン=グリム、 義理の従兄弟シャルル・ケラー、そしてその妻のマチルド・ロードゥラーなどです。

そしてきっと、この中のヴァージニ・モーヴェが彼に社会の非同調主義というものを教え込んだんでしょうね。

彼女は1855年まで、つまりガレが9歳になるまで家庭教師をしていた人なんですよ✨

1865年に高校を卒業したガレは、頭の中からどうしても離れない社会への疑問を、友人であるポール・セニェレにぶつけていました。当時ブルターニュ地方でドレニュックの城のドレネイ伯爵の子息の教育係をしていたポール・セニェレはそれに答えようと、1865年12月20日に手紙を送っています。

けれど、ガレはこの布教師ポールの言葉に全く納得できませんでした(涙)

『エミール、哀れなエミールよ。純粋と微笑みの人生の中で得たその美しさと幸福をすっかり失い、かわりに疑惑と試練に覆われてしまった。彼ほど気高く純粋な心を持ち、誰からも愛される彼が、そして私の大切な友人であり、イエス・キリストの元では親愛なる兄弟である彼が!神よ、彼は私がナンシーにいた頃の古い同級生達のうちの一人なのです。彼らの狭量によって判断され、影響を受けて、エミールはすっかり我を失ってしまったに違いない。彼はプロテスタントだが、純粋な心を持ち、彼にとって神はすべてだった。愛するということが、彼にとって最高の幸せだったのだ。だがすべてが変わってしまった。』

ポールはガレに直接答える代わりに、に助けを求めたんですね〜。

そこで、ガレの母親ファニー・レンメールはガレの本心を説明しようと、ポール・セニェレに手紙を書きました。

そのことについては、1865年12月にガレが母に宛てた手紙に書かかれていました。

『あの哀れなポールに手紙を書いてくださってありがとうございます。きっとたくさんの良い事、正しい事が書かれていることと思います。もうすぐ彼からの返事がくるはずです。私はそれを楽しみに待っていますが、ポールが感じている悲しさを想像すると、そんな楽しい気持ちは失せてしまいます。』

相手の気持ちを常に考える、繊細かつとっても優しい人なんですね、ガレは💞

1866年、ポールとヴァイマルにいる エミールと相変わらず文通を続けていました。そしてポールは相変わらず彼を改心させようとしていました。

ある時ポールは『l’Ecce homo du Guide』の写真を一枚送って来たそうです。それはポール自身がカトリックに目覚めたきっかけの一つだったのですが、ガレはその写真を捨てる事なく手許に置いてはいたが、それに対して返事をすることはなかったそうです。

これからもわかるように、ガレは熱心なキリスト教信者ではありませんでした。

反教権主義が盛んになっていた当時、エミール・ガレは共和主義に傾向していましたが、でもそれは宗教を否定するという事ではありませんでした。

ナンシーでの高校生活の最後の頃とヴァイマルにいた頃に彼の信仰心が揺らぐ時期があったとしても、1904年8月31日にジュール・ヘンリヴォーにあてた『最後の手紙』からみてもわかるように、ガレは間違いなく死後の世界の存在を信じていました。それに、ガレはその生涯でずっと、偉大な言語学者であったアントナン・シルベストル=ド=サシーの聖書を大事に持っていて、始終その聖書を開いては調べ物をしていたそうです。

寛容かつ人間中心主義の街、ビシュヴィレール

ガレが共和主義にのめり込んでいったことは、後になって彼の妻ヘンリエット・ガレ=グリムとその家族に大きな影響を与えた”きっかけ”とも言えるでしょう。

ヘンリエット・グリムは、アルザス地方の北部に位置するウィッセンブールの小さな村、クレーブールで生まれました。彼女の父親、ダニエル・グリムはミュルーズで生まれ、ストラスブールとボンヌにおいて神学を学びました。1845年11月20日、彼は同じくミュルーズ出身のキャロリン・ケラーと結婚し、リナヘンリエットマーガレット、そしてエリーズの4人の娘をもうけました。

当時は子だくさんだったんですね〜🎵

ダニエル・グリムは1843年から1851年までクレーブールの牧師を勤めていました。その後1851年から1903年に亡くなるまでは、ビシュヴィレールの教会に従事していました。くじけることなく人権を守り続けるその姿勢、そして寛容でありかつ広い視野をもった、まさしくビシュヴィレールのそれに同調するその姿勢に、ガレは義父を心から尊敬していたそうです。

その頃フランスの宗教戦争に続き、そしてナントの勅令が取り消された事で、多くのユグノー教徒達がビシュヴィレールに難を逃れてやって来ました。

なぜビシュヴィレールに?

ビシュヴィレールでは心おきなく彼らの宗教活動を行う事が出来たからです❗️

1648年に調印されたヴェストファーレン条約の中で、フランスの国土の一部であるアルザス地方においては当時の国王ルイ14世はいかなる宗教活動に対してもそれには一切干渉しない、としているんです。

ビシュヴィレールでは、今でもフランス系およびドイツ系カルヴァン派やルター派の信者達が、ぶつかる事なく共存しているそうです。

異なる信仰心を持つ人々の桃源郷ですね‼️

ダニエル・グリムが牧師を勤めていた頃、同じ教会では日曜日のミサを2度に分けて行っていたそうです。一つはアルザスとロレーヌ地方の改革派のため、そしてもう一つはルター派のためのミサ。

ダニエル・グリムが聖職について50年を記念したセレモニーの際には、小教区に住む住民達は、ガレがイメージしまた制作した家具『精神の果実』を彼に贈呈したそうです。

彼がどれだけ住民達に愛されていたか、わかりますね〜♪

ダニエル・グリムは司祭のための大きな家に住んでおり、そこには簡素かつ平穏な空気がいつも流れていました。ダニエル・グリムとキャロリン・ケラーはその家で、開かれた視野と寛容というビシュヴィレールの伝統およびプロテスタントという宗教の環境において、4人の娘達を育てあげました。

娘達やその友人達、その中には将来シャルル・ケラーの妻になるマチルド・ロードゥラーもいましたが、彼らの革命的な意見の数々に全くもって動じることなく、ダニエル・グリムは耳を傾け、笑顔を見せながら頭を横に振っているだけだったそうです。

1875年5月3日ビシュヴィレールにてエミール・ガレと結婚したヘンリエット・グリムは、教育係としての2つの経験を持っていました。一つは1870年から1871年にかけてイギリスのロンドンにて、とある裕福なイギリス人家庭で2人の子供達の教育係として働いていた経験です。イギリス滞在中ヘンリエットは家族から新聞を送ってもらっており、アルザス地方がドイツ軍に占領されたというニュースを絶望的な気持ちで知ることになったのです。

ガレ=グリム家族とイギリスとの関係は長く続く事になります。実際、ヘンリエット・ガレ=グリムの一番上の姉リナはミュルーズの銀行員グスタヴ・クリストと結婚し、彼らの3人の娘のうちの長女エレーヌは、イギリスに支店のあるスイス銀行の行員アルフレッド・バートーと結婚しています。ガレとヘンリエットの娘達の一人であるルーシーは、後にポール・パードリゼの妻となるのですが、従姉妹であるエレーヌ・クリスト=バートーを訪ねて頻繁にロンドンに行っていました。

現在でも、グリム家、クリスト家、バートー家の多くの子孫がイギリスに住んでいるんですよ‼️

政治の戦いにおける家族の連帯

ガレ=グリム家とグリム=クリスト家のつながりは、ガレおよびヘンリエットのドレフュス事件とのつながりと関係がないとは決して言えないでしょう。

エミールとヘンリエットの義理の兄グスタヴ・クリストはミュルーズにおいて大きな影響力を持つ人物で、ドレフュス家族やアルザスの上院議員オウグスト・シュレー=ケスナーの家族とも深い繋がりを持っていました。ヘンリエットは、彼女の夫のドレフュス事件での戦いに共感し、この事件に関わる重要人物達への手紙を書くという負担を自ら背負いました。

それに彼女は生涯、恵まれない人々へ手を差し伸べる事をやめなかったそうです。共和主義者として、彼女は社会の不公平を絶対に許しませんでした。

彼女はしばしば人権保護同盟の活動に参加しており、個人的にナンシー支部の創設にも携わっていたそうです。そして夫が病に倒れると、彼の跡を継いで秘書の仕事を引き受けました。『L’Etoile de l’Est 』誌の敬虔な読者として、彼女はしばしばフォルケホイスコーレ(成人向け教育機関)の講義に参加していたそうです。ナンシーの教会のクレーズ牧師は1914年4月に執り行われた彼女の葬儀に顔をだしています。この葬儀にはプロテスタント信者、カソリック信者、宗教者達が揃って出席しており、この一人の女性の寛容さ、偉大さを物語っていました。

内助の功!ヘンリエットあってこそのガレだったんですね〜✨

ヘンリエット・ガレ=グリムの妹、エリーズ

グリム牧師の4人の娘の中で一番年下で、そしてエミールの妻ヘンリエット・ガレ=グリムにとって最も近しい存在だったエリーズは、フロシュヴィラーの戦いで負傷した人々を介護する仕事に献身的に従事するようになり、そしてすぐに政治にも興味を持つようになりました。

1872年に数ヶ月間ロンドンに滞在していた際、フランスに戻っていた姉による影響もあってか、20歳だったエリーズは国際労働者協会(むしろ第一インターナショナルという名で有名)の一員となりました。この協会は1864年にロンドンのカール・マークスの教会の元で発足し、彼は協会の第一秘書に就任しました。

アルザスに戻ったエリーズ・グリムは、その地に進駐していたドイツ人達の存在にどうしても我慢ができず、パリに移住することにしました。そこで彼女はフォーノー通りの幼稚園の校長となり、 パリ・コミューンに従事し銃殺されたり投獄された親を持つ孤児達を援助する活動を始めました。

素晴らしい活動です✨

1881年、彼女は弁護士でありかつ作家でもあったポール・シャロンと結婚しましたが、なんと、なんと!彼はその結婚のたった1年後にビシュヴィラーにて亡くなってしまったのです😢

エリーズ・シャロンはその悲しみを乗り越え、フォントネイ・オ・ローズの高等師範学校の就職試験に応募し、見事に合格しました。

心の強い人ですね!同じ女性として、尊敬します〜✨

ムランとグルノーブルの師範学校においてドイツ語の教師および歴史の教師としてしばらく働いた後、彼女はナンシーのミュート・エ・モゼル師範学校に教師として任命されました。

そこでは、彼女はドレフュス事件の際には正義を守るための戦いに従事し、かつナンシーの第一インターナショナルで講義や講演会を開催していたそうです。

ところで、エリーズ・シャロンは1900年までアンドレ・レオ(仮名はレオディル・ベラ)と文通をかわしていました。アンドレ・レオはジャーナリスト兼作家でもあったシャンセークスの妻であり、パリ市民の中の女性の中で重要な位置にいたそうです。また、彼女は女性の権利を求める会の創立者でもあるんです。他にもエリーズ・シャロンは1914年まで、作家でありパリ・コミューンを支持していたルシアン・デスカヴとも文通していました。

大戦時には、エリーズは再びナンシーの空襲で傷ついた人々の介抱に従事することになります。そして大戦で疲れ果てたエリーズは、1928年にやっと故郷であるアルザスに戻る事ができまたそうです。

良かった〜✨

革命的かつパリ・コミューン支持者であるシャルル・ケラー

シャルル・ケラーはヘンリエット・ガレ=グリムの従兄弟にあたり、彼女の母でもある、シャルルの叔母キャロリン・ケラー同様ムルーズにて誕生しました。シャルルの父親は版画家でした。シャルルは頻繁にビシュヴィラーにある従姉妹ヘンリエットの家に遊びに行き、そこで彼女と共に正義と自由にあふれた新世界に夢をはせていたそうです。そしてそのビシュヴィラーの司祭館にて、牧師の娘達の友人だったゲブヴィラー出身のマチルド・ロードラーと出会いました。

本人達はまだ知らないけれど、実はこれ、運命的な出会いなんです💞

シャルル・ケラーはムルーズの専門学校で学んだのち、一般技師として資格を得る前にストラスブールでも学んだそうです。その後彼はアルザスの製糸工場の工場長に就任しましたが、オーグスト・シュレー=ケスナーと親好があり、反体制主義の新聞を配布したと密告されたことから、1868年にその職を手放さざるを得なくなるんです。

その後芸術や文学、社会問題に目覚めたシャルルはアルザスを離れ、それらの中心にある首都パリへと移住しました。

そこで彼はミハイル・アレクサンドロビッチ=バクニンエリゼ・レクリュといった無政府主義の理論家達と親しくなり、彼らと共に第一インターナショナルに認められた民主社会主義の国際団体を設立します。

のちにシャルルはカール・マークスの『Capital』の翻訳を手がける事になるのですが、戦争によってその仕事を全うすることは出来ませんでした。

彼は1870年のフランス国防軍の一員となり、その後アルザス=ロレーヌ地方に任地をうつすことになります。

フランスの降伏後、シャルルは1871年5月10日にパリに戻ってきました。そしてパリ・コミューンの反乱部隊の一人として参加し、5月25日木曜日、シャトー・ド通りのバリケードにおいて負傷してしまいます‼️

この時、負傷したり殺害された男達が皆引き戻されたあと、そこには女性達は代わりに立って、『パリ・コミューン、万歳!』と声をあげて戦ったそうです。それでも数で劣っていた彼女達はあっという間に鎮圧され、生き残った52名は捕まり、政府軍によって処刑されてしまいました😢

バリケードの鎮圧と同時に、移送されていたけが人達はその道中もしくは搬送されていた病院においてただちに処刑されてしまいました。

裁判所も容赦なく、パリ・コミューンの参加者達は即刻死刑、逃れようとした人達もその場で銃殺されたそうです。

1万3千人ものパリ・コミューン参加者がブレストの牢獄に投獄され、そこでの対応は本当に非人道的なものだったそうです。

記録では2万から2万5千人がまとめて埋葬されたり、街路下水に投げ捨てられたとされます。

フランスの歴史の、汚点ですね。。。。

それでも、パリコミューンの反乱はそこでやむことはありませんでした‼️

1871年4月、彼らは今度は聖職者達に対して怒りを爆発させました。

ポール・セニェレはイッセイ=レ=ムリノーのサン・スルピス神学校の生徒であり、そこは4月5日に反乱軍の中心団が集結した地でもあったのです。生徒達はひとまず学校のパリにある施設に一時的に集められ、その後パリを逃れることになるのですが、ポール・セニェレと7名の同僚たちは例外で、その地に残ることにしました。彼らは数日後に逮捕され、マザスにある勾留所にまず収監され、その後パリのグランド=ロケット監獄に収監されてしまいました。

牢獄の中から両親に宛てた手紙にこう書かれていることからもわかるように、数週間の間ポール・セニェレは死を覚悟していたようです。

『私の人生は幸せだったとあなた方に断言しましょう。すべて神のご意志。今はただ、人生の中で最も静で平穏な時を待つのみです。』

これ、両親に宛てた感謝とお別れの手紙ですね。。。

『人権とは何ともみじめなものだろう。それのために大砲が火を噴き、同胞の血の海の中でその存在を訴える事しか出来ない。そもそも人権とはそれと相対した情熱の中で生まれるものなのに!』と、神学校の上司に宛てた手紙には書かれていました。

1871年5月26日、反乱メンバーによって牢獄の外に連れ出されたポール・セニェレはアクソ通り85番地、まさしくパリコミューンの最後の暴動が起こった地で、太ももに銃弾を受け死亡してしまいました。

エミール・ガレは、彼の高校の同級生であり、若くしてこの世を去った友人を決して忘れる事はなかったのでしょうね。

1900年5月17日、スタニスラスアカデミー(学会)の式典にてスピーチをした際、この事件から40年近くもたっているにも関わらず、ガレは『ポール・セニェレの殉教』について触れているんです。

彼はまたもう一人高校の同級生だったユベール・ゾーフェルについても言及していました。彼もまたこの悲惨な惨劇の被害者の一人だったんです。。。

ガレにとっては親族として近しい人物になるはずだったのにこの暴動で負傷した、パリコミューン支持者だったシャルル・ケラー、反乱メンバー達によって殺された親友のポール・セニェレ。。。

ガレの友人という共通点がありながら、両極端な立場で傷ついた二人。。。

この相対する勢力の間で起こる悲劇は、ガレの生涯渡ってずっと影響を及ぼしていたことは、あえて言うまでもありませんよね。

パリコミューンの反乱の後、シャルル・ケラーはガレの手伝いでナンシーに居を構える

ところで、皆さんお気づきでしょうか⁉️

シャルル・ケラーはパリ・コミューンの暴動時に負傷しましたが、亡くなってはいません‼️

シャルル・ケラーはどうやってこの殺戮を行き逃れる事が出来たのでしょう⁉️⁉️⁉️⁉️

実は、彼はとってもとってもラッキーだったのです✨

奇跡的に怪我から回復したシャルルはスイスに逃亡しました。

逃亡が成功したのも、ムルーズに住む家族が手助けしたからでしょう。

バールにしばらく滞在したシャルルはそこでエリゼ・ルクリュと合流しました。エリゼは1871年4月3日に終身刑の判決を受けていたが、世界中の科学者達による減刑の嘆願書のおかげで10年の刑に減刑されていたんです。

マチルド・ロードラーはスイスにいるシャルルに合流し、1876年結婚しました。

そう!ビシュヴィラーの司祭館で出会った、彼女ですよ〜💞

彼女は音楽をこよなく愛していて、また夫であるシャルルの考えにも共感して、1871年11月12日、バクーニンとエリゼ・ルクリュによってソンヴィリエにて発足したジュラ地方連合会にも参加しています。

ちなみにシャルル・ケラーは、『ラ・ジュラシエンヌ』の歌詞の作者なんです🎵

それはあとになって自由主義かつ第一インターナショナルの歴史活動家であるジャム・ギヨームによって音楽をつけられた歌なんですよ。

多才な人ですね〜!

マチルド・ロードラーはアンドレ・レオの友人でもあり、1870年から1895年まで文通を交わしていました。

マチルドは1776年創始のルイ・ロードラーのメゾン・ド・シャンパーニュの資産を持っていて、彼女の相続人であるルイ・ロードラーは1876年にはロシアの皇帝アレクサンドロ2世のためにキューヴェ・ド・クリスタルを作ったんですよ‼️

また1909年には同じくロシアのニコラス2世が、彼らのシャンパーニュをロシア皇帝に献上されるシャンパーニュとして認定したそうです。

彼女、すっごいすっごいお金持ちだったんです〜!

彼女の持つ資金のおかげで、何年か後にナンシーに『市民の館』を開設することも出来ました。

シャルル・ケラーとマチルド・ロードラーは、ムルーズに併合されたアルザスに馴染もうと努力をしてきました。

だけども1879年11月20日、彼らは『フランス人であり社会主義者である』という理由から、その地から追放されてしまい、再びジュネーブに戻る事となってしまうんです。

パリ・コミューンの反乱の後、シャルル・ケラーはフランスに戻る事を決め、妻と共にベルフォーに移り住みました。そして1892年には、ナンシーのモンテ通り77番地に、すでにそこに住んでいた従姉妹のエリーズ・シャロンとヘンリエット・ガレ=グリムと共に生活を始めました。

妻であるマチルドの持つ資産のおかげでシャルルはお金に困る事はなく(ラッキー!)、政治活動は相変わらず続けていました。

彼は1902年、アルベール・シュニーガンと共に『自由思想主義』をナンシーにて設立。

自由思想とは、偏見やドグマ、拘束などを一切拒否した考えで、シャルル・ケラーはその一生をかけて人権にとって最良な社会を目指していました。また執筆にも力を注ぎ、ジャック・ターバンという名で詩を書いては発表していたそうですよ。

音楽家としても才能があり、後に有名になった『権利の歌』の作詞作曲も手がけたそうです。

民主主義:ガレの近しい人々の思考

マチルド・ケラー=ロードラー、エリーズ・シャロン=グリム、シャルル・ケラー、そしてヘンリエット・ガレ=グリムという、自由と正義をめざし共にビシュヴィラーの司祭館で学び、また女性や労働者達の立場に立って社会を見つめて来た人々がナンシーにて再度集う事となりました。

パリコミューンの際の主張が彼らの心に取り付いたように、ガレもこの義理の家族の考えはとても魅力的なものだと考えていました。

でもガレは彼らに賛同することはなかったんです。

その義理の家族の親世代の人々と同じように、ガレは共和国の持つ一番の価値、民主主義というものを大切にしていました。

よってガレは一度もプロレタリアの独裁的な主張に賛同する事はなかったんです。

それでも、ただ唯一の共通点である『自由』という主張を元に、ガレ、グリム、ケラー、シャロン、そしてロードラー一族は不正義と抑圧による様々な出来事が起こった時代を、離れる事なく常に固い絆で結ばれながら一緒に過ごして来たんです。

その後この一族にポール・ペルリゼという若者が加わる事になります。

彼はロレーヌ地方青年連合の会長であり高等師範学校に一番の成績で入学した才子なんです‼️

そして労働者階級の人々に勉学を教えていたこの素晴らしい✨若者は、シャルル・ケラーとエミール・ガレと共にフォルケホイスコーレの設立に関わった事で彼らと出会って、1906年にはガレの次女ルシールと結婚しています。

クラフーニョでのソワレ

政治にどっぷりのめり込んでいたガレ一族でしたが、それでもユーモアを忘れることは決してなかったんですよ🎵

シャルル・ケラーとエミール・ガレは『クラフーニョ』とふざけた名前のついた団体に所属していました。

ロレーヌ地方で『クラフーニョ』もしくは『クーニョ』とは、ほうきなどの掃除に使う道具を片付けておく場所の事を意味するんです。

街にあふれるホコリやゴミ(。。。的な思想)を掃除してきれいにしよう、という意味を込めてつけた名前だったそうです🎵

その集まりでは何人かの友人達がドミニカン通り47番地にある飲み屋の裏の部屋に集まり、この世をなんとかして創り直したいと願う彼らは、ビール🍻を浴びるように飲むという、どちらかというと和やかな雰囲気の中で、夜な夜な話し合っていたそうです。

そんな雰囲気でも地方政治や神秘学の哲学、芸術などについて議論を交わす事もあったそうですよ。

参加者の中にはエミール・ガレの他、シャルル・ケラー、『クラフーニョ』の名を思いついたモーリス・バレシャルル・ゲランエミール・ヒンズランカミーユ・マータンレオン・トヌリエーヴィクトー・プルヴェ、ジャーナリストのエミール・ゴティエ=ヴェルノル、音楽家のギー・ロパーズジャン・グリヨンなどがいて、彼らは定期的に集まっていました。

参加者はナンシーの人間に限られたものではなくて、たまたま近くに来る機会のあった、開かれた精神の持ち主達が参加しては彼らと議論を交わしながら夜を過ごすということもあったようです。その中にはロジャー・マークス、パリの作曲家ヴァンソン・ディンディシャルル・ボードなどがいたそうです。

またこの飲み屋はレネ・ウィナーの本屋に隣接していて、その本屋ではヴィクトー・プルヴェ、高島得三(北海)アンリ・ロワイエエミール・フリアンカミーユ・マータンルイ・エストーなど様々な才能ある若い芸術家達の展示会を開催していたんですよ。

ガレはナンシーでも、様々な異なる社会的立場の人々と実に豊かで堅実な友好関係を持っていました。

次の章では、そんな彼らとガレの出会いがナンシーにもたらしたことについて、ふれてみたいと思います🎵

 

 

4章へ続く


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