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ベネチアングラス・ムラノガラスが出来た歎史や時蚈・アクセサリヌのご玹介

 2016/05/18 ベネチアングラス
この蚘事は玄 43 分で読めたす。 4,522 Views

ベネチアングラス ムラノガラスに぀いお

本日もご芧いただきありがずう埡座いたす♫♫

 

ベネチアンガラス通販取扱店

ベネチアンガラス店長の加寿矎です(*^^*)

 

 

 

今日は、皆さんもご存知のむタリアの高玚ガラス

「ベネチアンガラス」に぀いお

ご玹介させおいただきたす☝✚

 

 

 

名前は知っおるけど、あんたり知らない・・・💊ずいう方は、

「ベネチアンガラス」に぀いお知る絶奜のチャンスです(^^)💓

 

 

 

この機䌚に「ベネチアンガラス」を是非知っおください♩

ベネチアンガラスはむタリアのベニス、

特にムラヌノ島で䜕䞖玀もかけお開発、掗緎されたガラス補造法です。

 

 

 

最高玚の品質ず技巧を持ち、色圩豊かで粟巧なガラス補造法の䞭心ずしお、

䞖界的な名声を今なお保ち続けおいたす。

 

 

 

その品質ず矎しさはガラス補品をはじめ、鏡やシャンデリア、

ビヌズや宝石においお楜しむこずができたす (^^♪

 

 

 

 

ベネチアンガラスの初期起源

 

 

 

ノェネツィアガラス補造に぀いおの最初の蚘述は、西暊982幎にたで遡りたす。

ドミニクス・フィオラリオスずいう倧小の瓶を䜜る、熟緎した職人にた぀わる蚘述です📖

 

 

 

その埌1090幎にぺタルス・フラビアン二コスずいう

やはり瓶を䜜っおいた職人に぀いおの蚘述も出おきたす。

 

 

 

 

しかし、1960幎代に発芋された考叀孊的資料によるず、

これらの蚘述よりも前の時代である450幎ほどの時代に、

ノェネツィア期にあるトルチェッロ島やむタリア本土の怍民郜垂アクむレむアにおいお、

ガラス職人が溶鉱炉を䜿っおガラス補品を䜜っおいたずいう事実が明らかになりたした。

 

 

 

 

これらの地域はtesseraeテッセラ゚ギリシア語で「四面」の意味ず呌ばれる

ガラス補造が盛んにおこなわれおいた土地です。

 

 

 

 

テッセラ゚ずは小さいガラスや正方圢に型どられた石を

装食目的のモザむクタむルずしお䜿甚する方法で、

教䌚や裕犏な貎族の邞宅の建築材料ずしお甚いられたずされおいたす。

 

 

 

 

この補造方法は、ロヌマ垝囜の公衆济堎の明り取りずしお

甚いられた鋳型ガラスの技術から来おいたす。

 

 

 

 

ベネチアのガラス職人たちが、

成熟した独特の技術をも぀装食ガラス職人ずの名声を埗るに至るのは、

これよりただ数䞖玀の埌の事です。

その名声を埗た埌、圌らのガラス補造は事実䞊ペヌロッパの独占産業ぞず発展しおいきたす。

 

 

 

ベネチアが西掋ず東掋の文化の懞け橋ずしお発達したこずにより、

ベネチアンガラスの泚目床も䞊がっおきたした。

これはアドリア海の地理的条件に由来したす。

 

 

 

 

アドリア海はバルカン半島に面し、

䞭東から東アゞア、南アゞアにそれぞれ぀ながりを持ちたす。

戊略的に匷い海軍や商船を配眮するのにちょうど良い地域であったのです。

 

 

 

 

貿易が盛んになるず、それにより暩力ず圱響力も持ち始めたした。

元来、地䞭海沿岞を囜境ずする囜々がそのような力を持ち、

聖地や東掋に圱響を䞎えおいたのですが、ベネチアの力は埐々に高たっおいきたした‎‎

 

 

 

 

平時にも戊時にも、ベネチア共和囜は商業利益に重点を眮き、

11䞖玀にはビザンツ垝囜ず関皎の免陀を亀枉しながら貿易し、

12䞖玀初頭には貿易拠点を䜜りながら、聖地や䞭倮アゞアの怍民地を守っおいたした。

 

 

 

この政策によっおベネチア共和囜は300幎もの間、

ペヌロッパ党土においおガラス補造をほが独占するようになりたした❕

 

 

 

ご存じかもしれたせんが、ガラス補造は非垞に東掋的な技術で、その䌝統は䞭東諞囜、

䟋えば゚ゞプト、パレスチナ、シリアずいった倚くの囜ですでに確立されおいたした。

 

 

 

ベネチアンガラスもこの地域に倚少圱響は䞎えおいたしたが、

䞭東諞囜のガラス補品がベネチアで芋られるこずはたずありたせんでした。

 

 

 

しかし西暊1204幎、第4回十字軍遠埁によりコンスタンチノヌプルが陥萜されるず、

ベネチアにもむスラムガラスが入っおくるようになりたした。

 

 

 

これにより、滅亡したビザンツ垝囜のガラス職人たちが

ベネチアに流入し、新しい技術をもたらしたした。

 

 

 

13䞖玀の終わりにはこの技術の倚くを採甚し、

独自の技術ずずもに独特な補法を䜜り䞊げおいきたした。

 

 

 

このような他囜からの技術の流入は、

1453幎のオスマン垝囜によるコンスタンチノヌプル陥萜の際にも繰り返されたした。

 

 

 

ガラス補品が競争垂堎で倧きな利益を生んでいるベネチアにおいお、

これらの技術をベネチアの䞭だけで保持しおいく必芁がありたした。

そのため、政治的、商業的政策が重芁な圹割を果たしたした。

 

1271幎、商業目的のガラス補造を芏制する垃告が発垃されたした。

この時から、倖囜のガラス補品のノェネツィアぞの茞入が犁止され、

倖囜のガラス職人がベネチアで働くこずも犁止されたした。

 

 

 

 

1291幎、圓時ベネチア、特にリノォ・アルトやドル゜デュヌロで流行し始めた

小さな独立ガラス工房の倚くが、ノェネツィア期を超えおムラヌノ島ぞ移動しおきたした。

これはマッゞオ.コンシグリオ倪政官によっお呜什された匷制的な移䜏でした。

 

 

 

䞭䞖、そしおルネサンス期にはムラヌノ島はノェネツィア共和囜の政治的機関であり、

貎族出身の成人男性によっお構成される議䌚政治議員は終身䞖襲制が行われおおり、

䞻に議䌚や十人委員䌚1310幎に蚭立ずいった囜家元銖が議長を務める

政治機関の集たりずしおの圹割を担っおいたした。

 

02_BBLB_Venice_Murano_Map

䜜者䞍明の銅板 ムラヌノ島の詳现を描いおいる

 

この移民政策の目的の1぀は、ベネチアにあるドヌゞェ垂を

ガラス工房の火による火事から守るためでした。

 

 

 

人口が倚く朚造建築家屋が密集しおいるドヌゞェ垂は、

火事が起こりやすい環境にあったのです。

 

 

 

たたベネチアンガラスを競合者たちのスパむ掻動から守る目的もありたした。

しかし、同じように溶鉱炉で火を䜿う鏡職人はこの垂に残るこずを蚱されたこずを考えるず、

この政策には他にも理由があったのかもしれたせん。

 

 

 

 

4幎埌、たた新たな法什が出されたした。

それは前回よりもあからさたな内容で、ガラス職人の技術を決しお掩らさないために、

ベネチアンガラス職人が海倖ぞ移䜏するこずを犁止するものでした。

 

 

 

 

倖囜人にその秘密をもらしたり、

公的な蚱可なくベネチアを離れたものには厳しい凊分が科されたした。

 

 

 

マッゞオ.コンシグリオ倪政官が島を脱出した人間を捕たえ、

殺すために、暗殺者を雇ったずのうわさたでありたした。

 

 

 

さらに島を離れたものは、ムラヌノ島で行われおいる

ガラス補造を他の土地で行うこずを犁じられたした。

 

 

 

しかしながら、埌幎数倚くの技術者が、

危険を冒しおむギリスやオランダずいった離れた土地で窯を開いおいきたした。

 

03_BBLB_Murano_Island_Map

ムラヌノ島 ベネチアずムラヌノ島を遠くから臚んだ颚景から1600幎頃 Dancherts䜜

1500幎頃に掻躍したJacopo de’Barbariが確立した有名な朚版画によるスタむル

 

ベネチアングラスのショップはこちら

 

ムラヌノ島では、芁塞郜垂アヌセナル圓時ベネチア最倧の造船所を保有しおいたず

貿易が行われおいたした。

 

 

 

ベネチアの暩力者たちは、䞻芁産業であるガラス補造をこの孀立した島

たずえそれが金メッキの鳥かごだずしおもに閉じ蟌めお保護しようずしたした。

 

 

 

職人の絊料や劎働条件は、ガラス産業を支配するために蚭立されたギルドによっお決められたした。

 

 

 

1224幎に蚭立されたガラス職人ギルドであるアヌス・フィオラリアは、

ベネチア共和囜の盎属の統治䞋に入りたした。

 

 

 

ギルトによる盎接支配ずガラス職人をムラヌノ島に隔離したこずによっお、

ガラス補造の発想や技術の向䞊が図られ、芞術的芁玠も高たり、

急速にベネチアはペヌロッパにおけるグラス補造の䞭心地ずなっおいきたした。

 

 

 

ムラヌノ島の職人たちには、

その代わりずしおベネチアにおける新しい瀟䌚的階玚を䞎えられたした。

 

 

 

 

14䞖玀になるず、ガラス職人は垯刀を蚱され、ベネチア垂における蚎远も免陀され、

自分の嚘をベニスで最も裕犏な䞀家に嫁がせるこずもできるようになりたした。

 

 

 

 

このような優遇措眮をずるこずで、ベネチア共和囜はガラス職人が

子孫にその技術を継承するよう仕向け、䞖襲間内においおのみ、その創造性を高めるこずで

さらなる技術刷新ず商業的成功を目指したした。

 

 

 

これらのガラス補造方法は高く評䟡されるようになるに぀れ、厳重に秘密にされたした。

 

 

 

 

その技術も父から息子ぞず䌝承され、秘密の本に曞き写されたした。

䟋えば、ムラヌノ島のアントニオ・デ・ピサずいうグラス職人は、

ラティモlattimoずいう牛乳瓶の補造に䜿甚する、䞻な成分の詳しい説明を䌝承しおいたす。

 

 

 

 

 

それはベネチア人にずっおありがたい日甚品の補法ずなりたした。

ずいうのも、ベニス人は圓時非垞に貎重ずされた陶噚を牛乳の容噚ずしお䜿甚しおおり、

このラティモのおかげで安䟡な牛乳瓶を手に入れるこずができるようになったのです。

 

 

 

その埌500幎以䞊にわたり、

政府による法什の発垃やギルトによる管理ずいった政治的干枉が、

ベネチアンガラスの品質をより確かなものにしおいきたした。

 

 

 

 

たた政府は補造原料に関する協定に合意したり、

求められれば倖囜の競合からの貿易保護も行いたした。

 

 

 

 

このような政府の盎接的な介入や、東西諞囜の貿易の䞭心地であるずいう地理的条件により、

ベネチアはガラス産業における独占的な暩力を持぀に至り、

品質の良いガラス補品をペヌロッパ党土に販売できるようになりたした。

 

 

 

このような発展はこの先䜕䞖玀も続きたした。

 

 

 

 

15䞖玀および16䞖玀のベネチアンガラス補造

 

 

 

1400幎から1640幎たで続いたルネサンス期は、

むタリア、特にムラヌノ島に深い圱響を䞎えたした。

 

 

 

その始たりの15䞖玀初め、

ムラヌノ島には3000人ものガラス吹き職人が生掻しおいたずの蚘録がありたす。

 

 

これは1400幎にダマスカスが包囲され、その埌1453幎にオスマン垝囜により

銖郜コンスタンチノヌプルが陥萜したこずによっお、倚くの職人が島に流入しおきたこずによりたす。

 

 

 

この新しく流れおきた技術を元にしお、

ベネチアンガラス職人はシリアに起源をも぀補法を新たに詊しおみたした。

 

 

 

これはガラスに゚ナメルず金箔を塗るずいう補法で、より豪華な装食を実珟できたす。

この装食をさらに際立たせるために、暗色系ガラスの開発にも着手するようになりたした。

 

 

 

 

この補法が確立する数幎前の1441幎には、

1271幎に発垃された「商業目的のガラス補造を芏制する垃告」が修正され、

その適甚範囲が拡倧されたした。

 

 

 

その内容はガラス補造に関するすべおの事柄―補造、販売、

皎制、芪方や同僚に察する瀌儀䜜法たでに及びたした。

 

 

15䞖玀の䞭頃、アンゞェロ・バロビ゚が、埌にノェトロ・クリスタロたたは

クリスタロ・ベネチアヌノvetro cristallo or cristallo veneziano ずしお

知られる䜜品を生み出しおいたす。

 

 

 

玔粋で華やかさがあり、透明床の非垞に高い完璧なクリスタルガラスです。

この䜜品は、脚付きのガラス補品、ゎブレット、皿、ボヌルずいった

様々な䜜品のデザむンや鑑賞の仕方に深い圱響を䞎えたした。

 

 

 

ペヌロッパ党䜓でもこれほどの圱響力をもった䜜品は類がありたせんでした❕

ガラスの透明さに䞍思議な魅力があり、科孊的な補造方法による色の効果が

光に反射するこずにより゚レガント印象を䞎えおいるのです。

 

 

 

アンゞェロ・バロビ゚によりこの時代に初めお成功した補造方法でした。

 

04_BBLB_Cristallo_Glass_1580

ベネチアン・クリスタル・グラスの初期の䜜品1580幎

 

ガラス補造における技術的偉業は、冒険や貿易、政治などにも倉化をもたらしたした。

 

 

 

15䞖玀の終わりたでに、あるポルトガル人、

぀たりバスコ・ダ・ガマが䞖界䞀呚の航海に成功したした。

 

 

アフリカの喜望峰からむンドを回り、リスボンぞ到達したのです。

 

 

この新しい航路により、北アフリカのサハラ砂挠を暪断する

昔ながらの貿易ルヌトが寂れおしたいたした。

 

 

 

アフリカ西海岞のギニア湟が海掋貿易における新しい䞭心地ずなり、

ボルトガルを初め、スペむン、オランダ、むギリスの貿易船が

物々亀換の品ずしおガラスビヌズを運びたした。

 

その玄40幎埌の1492幎、今床はコロンブスが新倧陞を発芋したす。

これにより、アメリカずの貿易ず怍民地化が始たりたした。

 

05_BBLB_Vasco_And_Columbus_Portraits

巊バスコ・ダ・ガマ14601524 右クリストファヌ・コロンブス14511506

 

圌らが開発した航路により新たに発芋された新しい囜々の倚くは、

人工的に補造されたガラスにほずんど觊れたこずがありたせんでした。

 

 

 

アフリカ人ずアメリカ原䜏民がようやく装食品にその䟡倀を芋出すず、

ペヌロッパの商人たちは原材料ず匕き換えにガラスビヌズ、

金属玉、陶噚玉などを取匕し、莫倧な利益をあげ始めたした。

 

 

 

これにより、ペヌロッパ党土におけるガラスビヌズ補造の黄金期が、

16䞖玀初頭から18䞖玀近くたで続きたした。

 

 

 

1592幎、新しい垂堎開拓を目指しお、ベネチア政府はガラス工堎を

再びムラヌノ島以倖のベネチア期の島に出すこずを蚱可したした。

 

 

 

その代わりずしお、ガラス職人がベネチアを出るこずを犁止し、

その法埋は共和囜党土で適甚されたした。

 

 

 

この決定により、1525幎圓時ベネチアには24のガラス工房しかなかったのが、

1606幎たでにはガラスビヌズ補造者の登録だけで251人にも達したのでした ‎‎

 

 

 

1764幎たでには毎幎200䞇ポンド以䞊のガラスビヌズがベネチアだけで補造されたした。

 

 

この200幎間においおムラヌノ島で生産されたベネチアンガラスビヌズは

それぞれが独自のカラヌバリ゚ヌションを持ち、その数は10䞇皮類を超えるず蚀われおいたす。

 

 

 

この時代を圩ったガラスビヌズをご芧頂きたしょう。

 

06_BBLB_Venetian_Trade_Beads

, 7局シェブロンビヌズChevron Bead1400幎代埌半 

 

7局シェブロンビヌズChevron Bead  1400幎代埌半

 

スぺオビヌズSpeo Bead1600幎代埌半    

  

フレンチアンバサダヌビヌズFrench Ambassador Bead1850幎代

 

バりルフェむスビヌズBaule Face Bead1800幎代

 

ブラックデコレむティッドビヌズBlack Decorated Bead(1800幎代埌半)

 

. コマラむンドアレッポビヌズComaline D’Aleppo Bead1800幎代埌半 

 

タブラ―ビヌズTabular Bead  1800幎代埌半

 

ラヌゞシェブロンビヌズLarge Chevron Bead1800幎代埌半

 

スク゚ア゚ッゞフロヌラルビヌズSquare Edge Floral Bead1800幎代埌半

 

む゚ロヌブラックスりィヌルバヌドYellow Black Swirl Bird1800幎代埌半

 

ミレフィオリビヌズMillefiori Bead(1800幎代埌半)

 

 

ほずんどのベネチアンガラスビヌズの生産はアフリカに向けお行われたした。

貿易船のバラストずしおガラス玉を積み、それらを銙蟛料、象牙、

ダシ油、そしお金ず亀換しお戻っおくるのです。

 

 

 

この貿易は次第に悪意あるものに倉容しおいきたす👀

 

 

 

アメリカず比べおアフリカの金の䟡倀が䜎いず刀断するず、

ペヌロッパの囜々はガヌナの統治者に、金の代わりに奎隷を船に乗せお運ぶこずを匷芁したした。

怍民地での劎働力ずしお䜿甚するずいうのです。

 

 

 

16䞖玀になるずベネチアンガラス職人は新しい装食技術を習埗し、

その色圩ず透明床においおさらなる技術の向䞊を実珟しおいたす。

 

 

 

1527幎には、フィリッポ・カタヌ二がザンフィリコたたは

レトヌチ・フィリグリヌzanfirico or retorti filigreeず呌ばれる補法の特蚱を埗たした。

 

 

 

それは矎しい乳癜色の茎暡様が透明のクリスタルグラスにらせん状に描かれおいる補法です。

 

 

 

これはラチシニオlatticinioず呌ばれる光沢のないガラスに斜す

栌子柄ずしおさらに完成されおいたす。

透明の花瓶などには癜色が金色の栌子柄で装食されたす。

 

07_BBLB_Zanfirico_Glass_1500

吹きガラス成型のベネチアンガラス 栌子柄氎差し16䞖玀埌半

 

カルセドニオCalcedonioは人工倧理石やその他の石の䜜り方も導入しおいたす。

ギアッシオGiaccioずアむスガラスは1570幎頃に発達したした。

これはガラスの内偎に矎しいひび割れを䜜るこずができたす。

 

 

 

ガラス補造の技術を䜿っお、プラハにおいおダむダモンド圫刻の改良がはじたるず、

ノェネツィアでも急速に広たりたした。

 

 

 

ムラヌノ島のガラス職人たちは、このような新しい技術の芁求にもよく応え、

さらに粟巧なデザむンで装食された完成床の高いガラス補品を補造し続けたした。

 

 

 

ベネチアンミラヌやシャンデリアの泚文も倚く、その圓時の王や教皇、

倧商人などから泚文を受けるほどの品質の高さでした。

 

 

 

しかしながら16䞖玀末期になるず、ベネチアは透明ガラスの専売暩を倱いたす。

 

 

 

ベネチアンガラスの需芁が非垞に高たったため、

数倚くの職人がペヌロッパ党土の郜垂に移䜏を始めたからです。

 

 

 

ゞャコボ・バヌれリ二ずいうガラス職人は、

幎に゚リザベス䞖からロンドンでのガラス職人ずしおの免蚱をもらっおいたす。

 

08_BBLB_Verzellini_Glass_1586

圫刻を斜されたガラスゎブレット1586

 

ムラヌノ島で商売をした経隓のある商人たちは、そのうち自分の工房を持ち始めたした。

フランス、ドむツ、ベルギヌ、オヌストリアなどで、

ムラヌノ島を远われた職人たちによっお運営されおいたした。

 

 

 

圌ら独自のベネチアンガラスやノェネツィアンスタむルず呌ばれる方法で補品を䜜っおいきたした。

圌らは叀兞的なベネチアンガラスのデザむンや技術を修正したした。

それは地元のテむストやその土地で採れる原材料に補品を合わせるためでした。

 

 

 

1534幎に、りォルフギャング・ビトゥルはフェルナンデス䞖の芁請により、

北ペヌロッパで最も早くベネチアンスタむルのガラス補品を䜜り始めたした。

 

 

 

この工房ではベネチアの吹き職人ず地元の職人を雇い、

むミテヌションガラスを䜜り始めたした。

 

 

 

それはオリゞナルよりも倧きくそしお頑䞈で、

しかもベネチアから茞入されたものよりも安䟡でした。

 

 

 

この品質により、りォルフギャング・ビトゥルは皇垝からハプスブルグ領で

20幎間ベネチアンガラスを補造する独占暩を埗たした。

 

 

 

17䞖玀のベネチアンガラス補造

 

1348幎のその発生以来、ペヌロッパで猛嚁を奮い続けおいたペストが再び倧流行し、

぀いに1630幎、ベネチア政府はガラス産業の人材ず技術を守るためにその雇甚制床を緩めたした。

 

 

 

むタリアは特にペストの被害が甚倧でした (>_<)

 

 

なぜなら他のペヌロッパ諞囜ず政治的制床が異なっおいたためです。

 

 

郜垂囜家による共和制を垃いおいたため、

郜垂が独自でペストによる猛嚁に察凊しなければならなかったのです。

 

 

 

むタリアの郜垂囜家は䞀䞞ずなっお察凊しようずしたしたが、

䞭倮集暩囜家であるフランスなどず比べるず死者数も倚く、かなりの損害を被りたした。

 

 

ベネチアではわずか1幎半の間に8䞇人が呜を萜ずしたした。

 

 

 

䟋えば11月9日には䞀日だけで595人が死亡しおいたす。

 

 

 

このような途方もない数の死者をだしたこずで、ベネチアはガラス産業をはじめ、

造船業やレヌス、矊毛、絹ずいった繊維業に倧打撃を受けたした。

 

 

 

ベストが終息するたでにベネチアの政治制床は

倧幅な倉革を䜙儀なくされ、共和制は衰退の䞀途を蟿っおいきたした。

 

 

 

 

ベネチアの政治的及び商業的問題ずしお特に次の事件を付け加えおおきたしょう。

 

 

 

1662幎、クリストファヌ・メレットずいう人物がラヌト・ベトタリアL’Arte Vetrariaず呌ばれる、

1612幎にアントニオ・ネリによっお曞かれた条玄を翻蚳したした。

 

 

 

その条玄の本題は、ガラス補造、特にベネチアン゚ナメルやガラス補品、

貎重な石のむミテヌションに぀いおのものでした。

 

 

 

これをむギリスのゞョヌゞ・ラベンスコルフトずいう人物が

独自のクリスタルガラスの補造に利甚したした。

 

 

 

ベネチアず匷い぀ながりがある職人の息子だったゞョヌゞは、

この条玄によりいち早く産業レベルでクリスタルグラスの補造を始めるこずができたした。

 

 

 

圌はガラス貿易を倉革できるほどの文化的教逊も経枈力も持ち合わせおいたため、

圌の䜜品により、むギリスがベネチアに倉わっお

18䞖玀19䞖玀のガラス産業の䞭心地ずなっおいきたした。

 

 

 

 

ベネチアンガラス職人たち、特にセグ二オ・ダ・ラ・コスタの揎助や、

ガラス販売ギルドの保護の元、ラベンスコルフトはさらに

ベネチアンクリスタルに倉わるものを探し求めたした。

 

 

 

 

圌は鉛ガラスを䜿ったガラス補品の生産を思い぀き、1673幎たでに、

すべおの生産的問題を解決し、その特蚱を獲埗したす。

 

 

 

これによりグラス、カップ、マグ、瓶に至るたですべお

鉛ガラスによるベネチアンガラスの補造が始たりたした。

 

 

 

18䞖玀および19䞖玀のベネチアンガラス補造

18䞖玀に入るず、ムラヌノ島にガラス産業の衰退の圱が陰り始めたした。

窯が閉鎖されるこずで倱業率が䞊がり、劎働者を䞀気に䞍安にさせたした。

 

 

 

ベネチアの商業的、政治的勢力衰退により、ガラス産業を守るために蚭けられた

厳栌な芏埋ももはや意味をなさなくなっおいたした。

 

 

 

 

ベネチアは1797幎にナポレオン政暩䞋にあったフランスに占領されるず、続いお、

1814幎にはハプスブルグ垝囜に移譲されたす。

 

 

これにより、ベネチアの共和制は完党に終焉を迎えたした。

 

 

 

ムラヌノ島のガラス職人は、オヌストリア政暩䞋の元で甚倧なる被害を被っおいたす。

導入されたガラス補造に関する芏埋は、

ボヘミア垝によっおオヌストリア政暩に有利に䜜られおいたからです。

 

 

 

これにより、重厚で圫刻も斜されおいるボヘミアンクリスタルは、

ムラヌノガラスの人気に远い぀くたでになっおいたした。

 

 

 

 

ムラヌノ島では、原料にかかる皎金や制限された垂堎、1805幎のギルト制床撀廃などにより、

窯の数は倧幅に枛少し、1800幎には24に、そしお1820幎たでには13にたで瞮小しおしたいたした。

 

 

 

ガラス名人マスタヌたちは今やペヌロッパ党土に散らばり、

島に残った職人たちは装食甚のガラスビヌズや小さな瓶、

たた海倖の怍民地貿易甚の安い宝石などを现々ず䜜っおいたした。

 

 

 

ムラヌノ島のガラス産業の衰退は、19䞖玀半ばたで続いた。

しかし1854幎、フラッテリ・トスコずいう家族経営によるガラス窯が蚭立されたす。

これに続き、アントニオ・サルビアヌティずいう産業匁護士がムラヌノ島で窯を開きたした。

 

 

 

フラッテリは実甚的なガラス補品を䞻に生産し、

䞀方サルビアヌティはベネチアンモザむクの修理や新䜜の補造などをしおいたした。

 

 

 

この2぀の工房ずかかわりのある名人たちの䞭には、吹き補法の䌝統的技術を保持する者や、

父や祖父から受け継いだ芞術を保ち続ける者、叀代から続くガラス補法を再発芋する者などがおり、

その䞭には1850幎代にムラヌノ島ガラス産業党盛期のずきの掗緎された補造技術の埩掻に

心血を泚いだロレンツオ・ラディもいたした。

 

 

 

この確かな運呜の埩掻は、ムラヌノガラス博物通を始めたノィセンツォ・ザネッティの尜力も倧きく圱響したした。

 

 

 

この博物通は、孊校の機胜も持ち合わせおおり技術の指導も行われたした。

こうしお、倱われた吹き補法技術の埩掻が、新しい窯の蚭立ずずもに埐々に始たりたした。

 

 

 

サルビアヌティの工房から出荷された䜜品は、1862幎に開催されたロンドン䞖界博芧䌚ず、

1867幎にパリで開催された䞖界博芧䌚で囜際的な認知を埗たした。

これはサルビアヌティの垂堎調査胜力の高さによるずころが倧きいず思われたす。

 

 

 

ロンドンでは、サルビアヌティの䌚瀟は倧胆にも、ラディによっお埩掻された

吹き補法によるカルセド二ヌグラスCalcedonioを展瀺し、芋事入賞を果たしたす。

これにより囜際的な泚目をたすたす埗るこずずなりたした。

 

 

 

10_BBLB_Chalcedony_Glass_1856

サルビア―ティによるカルセド二―グラスの氎差し1856

 

その芞術性を囜際的に認知されたこずによっお、ベネチアンガラスは商業的な成功を果たしたす。

サルビアヌティの䌚瀟はすぐに1868幎にロンドンに販売オフィスを蚭立したす。

 

 

 

これらの率先した行動がベネチアンガラスの新しい垂堎を開き、

ハプスブルグ垝囜の䌚瀟をも凌駕したのでした。

 

 

 

最終的にベネチアは1866幎にオヌストリア垝囜から独立し、むタリア王囜の䞀郚ずなりたした。

 

 

するず埐々にムラヌノ島のガラス産業は商業的に広たり、フラッテリFratelliや

バロビ゚ア(Barovier)、フランセスコ・フェロフィグリオFrancesco Ferro  Figlioずいった

倚くの革新的な䌚瀟が蚭立されるこずずなりたした。

 

 

 

䜕䞖玀も前の䌝統技術を受け継ぐだけでなく、ムリヌン(murine) ずいった

ロヌマ時代から続く補造技術等の発芋もされるなど、

ガラス職人たちはさたざたな偉業をなしずげおいたしたが、

ムラヌノ島でガラス産業をもう䞀床掻性化するにはさらに新しい技術が必芁でした。

 

 

 

圓時ムラヌノ島のガラス職人たちは、

䌝統的な技術の䞭で䜜品を䜜るべきずいう考えに瞛られ、芞術的な制䜜を敬遠しおいたした。

 

 

 

しかし19䞖玀末にアヌルヌヌボヌ思想が出珟するず、

芞術的なむンスピレヌションによる制䜜がムラヌノ島でも始たりたした。

 

 

 

しかしペヌロッパの芞術界においおはアバンギャルド思想に察する反応の方が倧きかったのです。

 

 

 

このペヌロッパ党土における新しいアむデアの革呜は、

1895幎のベネチアのビ゚ンナヌレ囜際的な矎術展芧䌚に眮いお党お芋るこずができたす。

 

11_BBLB_Biennale_Poster_1895

1895幎に開催されたベネチアビ゚ンナヌレの公匏ポスタヌ

 

この新しい芞術的抂念はベネチアのガラス職人たちのアむデアの広がりに倧きく圱響したした。

圌らは非公匏に話し合いを持ち、芞術的な思想やアむデアを亀換したした。

 

 

 

このようなグルヌプの䞭の぀で、カ・ぺサロCa Pesaroが参加したグルヌプ,

「Berivilacqua La Masa Foundation」は、倚くの芞術家が集たり、

ムラヌノ島のガラス職人たちに新しいデザむンのアむデアをもたらしたした。

 

 

 

その䞭でも特に有名な芞術家が、ビットリオ・れッチン、ナポレオン・ナチムッチ、

ハンス・ストレテンバヌグ・ラヌチェ、テオドロ・りルフ・フェラヌリらです。

 

 

ベネチアグラスの新しい黄金時代になるべく、20䞖玀ぞの準備が始たっおいたした。

 

 

20䞖玀におけるベネチアンガラスの補造の歎史

20䞖玀が始たる盎前、䌝統的な技術が芋盎される時代が続き、

ムラヌノ島の吹き矢補法の品質や技術は衰亡の䞀途をたどっおいたした。

 

 

 

そこで吹き補法技術の継承者たちは、䌝統技術の繰り返しを捚おその䌝統技術に新しい技術を導入し、

珟代颚のスタむルずテむストを吹き蟌むこずで、ムラヌノ島を芞術の䞭心地ずしお掻性化しようずしたした。

 

 

 

1950幎代たでには、ムラヌノ島ガラスはその歎史的重芁性を増し、

再びガラス補造においお䞻芁な存圚になりたした。

 

 

 

しかし、その間に起こった぀の䞖界倧戊ず経枈䞍況などに阻たれ、

その埩掻ぞの道のりは険しいものになりたした。

 

 

 

1900幎たでにはフラッテリ・トッ゜のガラス補品は50幎の䌝統を持ち、

ムリヌンmurrine補法でよく知られるようになりたした。

 

 

 

しかし、第䞀次䞖界倧戊の勃発により、

トッ゜の補品の向䞊やムラヌノ島ガラス産業の埩掻は䞀時䞭断されたした。

 

 

 

サルビアヌティCo.The SalviatiCo

珟圚はSalviatiがなく、Compagnia di Venezia e Muranoに改名は

トッ゜よりかなり囜際的な名声がありたしたが、1909幎には補造を䞭止したした。

 

 

 

これはむギリス人埌揎者で考叀孊者のオヌスティン・ヘンリヌ・ハワヌドず

奜叀趣味で知られるりむリアム・ドゥレむク卿によっお

ベネチア人実業家のトッ゜リヌ二氏に䌚瀟が売华されたためです。

 

 

 

圌はセントマヌクスク゚アに数倚くの店を構えおおり、圌の経営によっお、

䌚瀟は生産を䞭断し、小売店ぞの商品の卞しに専念したした。

 

 

 

1900幎初頭、ミラノ人である2人が、倉革を誓っおムラヌノ島で提携関係を亀わしたした。

ミラノ出身であるパオロ・ベニヌニずゞアコモ・カッペリンです。

2人はベネチアンガラスの埩掻を衚明したした。

 

 

 

1921幎、圌らは「Vetri Scoffiati Muranesi Cappellin, VeniniC」を立ち䞊げたした。

 

12_BBLB_Poala_Venini

パりロ・ベニヌニ1895-1959匕甚元Venini)

 

パりロ・ベニヌニは匁護士で、ガラス吹き補造の経隓は党くありたせんでした。

しかし圌には起業家ずしおの才胜がありたした。

新しい考えに前向きで、芞術家や建築家たちず共同制䜜を行いたした。

 

 

 

ゞアコモ・カッペリンは、ベネチア生たれの矎術商で、

ミランからモンテナポレオン珟圚ミランの高玚ファッション街ずしお有名に

アンティヌクショップを経営しおいたした。

 

 

 

圌らの䌚瀟は珟代的なデザむンに重点を眮いおいたした。

それは䞖界䞭を垭巻し、ミランの芞術サヌクルでの話題の䞭心ずなっおいたした。

圌らは芞術ディレクタヌにビットリオ・れッチンを迎えお、ガラス補造を始めたした。

 

 

13_BBLB_Vittorio_Zecchin

ビットリオ・れッチン1878-1947匕甚元Venini)

 

圌らの新しいデザむンは瞬く間にむタリアのみならず海倖にも広たっおいきたした。

この成功はベニヌニが最初から䌚瀟を海倖ぞ広めるずいうこずを目的にしおいたこずにありたす。

 

 

この成功により、圌はその時代の最も才胜のある芞術家ずの共同制䜜を暡玢し始めたした。

 

 

 

ベニヌニはたた、デザむナヌずずもに䜜品を䜜り始めたした。

 

 

圌の名の䞋で䜜られたすべおの䜜品をチェックしながらテむストを指揮しおいたした。

 

 

ベニヌニの自信に満ちた指導が、䜜品の品質ず共にこの䌚瀟の商業的成功を確実なものにしたした。

 

 

この発展により、䌚瀟はベニス、パリ、ミラノに倚くの小売店を進出させたした。

 

 

しかしながら、提携関係は長くは続きたせんでした。

 

 

1925幎にベニヌニずコッペリンがわずか4幎で退瀟し、独立したのです。

 

 

 

パりロ・ベニヌニはナポレオン・マヌチヌッチを経営者に迎え、

1925幎に「Vetri Scoffiati Muranesi Venini」を始めたす。

 

 

圓時マルヌッチはムラヌノガラス矎術通を監督する圫刻家でした。

 

 

圌はプレゎッ゜pulegosoずいう技術を発展させたした。

 

 

1930幎、この技術は分岐点を迎えたす。

 

 

光沢のないガラスによっお䌝統を壊し、創造的な発想ず詊みによっお

党く新しい方向性を切り開いたのです。

 

 

 

最初にベニヌニがこの原料で䜜ったガラスの花瓶は

ムラヌノガラスの埩興を感じさせ、批評家たちに倧いに歓迎されたした。

 

 

 

䞀方、ゞアコモ・カッペリンもたた1925幎に「Maestri Vetrai Muranesi Cappellin C」ずいう

新しい窯を開きたした。

 

 

 

 

前の䌚瀟から、芞術ディレクタヌのビットリオ・れッチン、

吹き補法名人のギオディ゚ゎ・ブロビア、アティオ・モラヌト、マルビノ・パバネロ、

ゞオバニ・セグ゜らをそのたた迎え入れたした。

 

 

 

しかし1926幎にれッチンが䌚瀟を去るず、その圓時ただ無名だった建築家、

カルヌロ・スカヌパを埌任ずしお迎えたした。

 

 

 

この䌚瀟は経営的䞍振で1932幎に倒産したすが、たもなくスカヌパの䜜品は評刀を呌び、

20䞖玀で最も革新的なガラス職人のひずりずしおその名を銳せるようになりたす。

 

 

 

䌚瀟が軌道に乗るたでの最初の数幎間、スカヌパはれッチンに圱響を受けた䜜品を䜜り続けおいたす。

しかしそのうち歎史的な技巧を再導入したり、光沢のないガラスや明るい色を積極的に䜿うなど、

圌独自の路線を発芋しおいたす。

 

 

14_BBLB_Carlo_Scarpa

カルヌロ・スカヌパ1906-1978匕甚元Marcello Ottolenghi)

 

カッペリンの窯の倒産ず時を同じくしお、ナポレオン・マルヌッチがベニヌニの元を去り、

ベニヌニの元で働いた経隓のある教育゚ンゞニア、

フランシスコ・れッチンを共同経営者に迎え独自の窯工房を開きたした。

 

 

 

これにより空いたベニヌニの芞術ディレクタヌにはスカヌパが就任し、

圌の独創的な技巧は「Venini Co」で花開きたした。゜マヌ゜sommersoのような

鋳造グラスを䜿っお新しい䜜品を䜜り出す䞀方、圌はコッロ゜corroso、

バッツヌトbattuto、ファスセfasce、ペネラッテpennellateなどの衚面技巧を発展させたした。

 

 

 

パオロ・ベニヌニは日々のガラス生産に積極的に乗り出し、

スカヌパず共同デザむンの䜜品を䜜り始めたした。

 

 

 

1936幎の装食ガラス䜜品を始め、圌はスカヌパず共に

ムリヌン・ロマヌナmuriine romanaを制䜜したした。

 

 

 

第二次䞖界倧戊埌、ベニヌニは明るい色のストラむプで装食されたボトルや、

モザむコツァンフィリコmosaico zanfiricoやモザむコテスヌトmosaico tessutoによる花瓶、

べトロモザむコvetro mosaicによる窓、そしおバッツヌトbattutoによる花瓶などを創䜜したした。

 

 

 

1950幎代初頭、フルヌビノ・ビアンコヌニずの共同制䜜においお、

ファ゜レッティfazzolettiやハンカチヌフ花瓶などを創䜜し、

これはこの時代の第䞀玚の䜜品の芋本ずされ、倧いに成功したした。

 

 

 

もう䞀人、特筆すべき起業家でありデザむナヌがいたす。

1930幎代に頭角を珟した゚ロコヌル・バロビ゚です。

 

 

 

圌はベンベツヌノ・バロビ゚の息子で、兄であるニコロず共に父の䌚瀟

「Vetreria Aristica BarovierCo」の芞術郚門を匕き継ぎたした。

 

 

 

1939幎、兄匟は別々の道を歩み始めるず、゚ロコヌルは圓時「the Fratelli Toso」を経営しおいた

「Decio and Artemio Toso」ずの合䜵に成功。

䌚瀟名を「BarovieToso C.」ずしたした。

 

 

 

 

50幎間のキャリアの䞭で、バロビ゚は倚くの装食技術を発明し、

芞術ガラスの埩掻に倚倧なる貢献を果たしたした。

 

 

 

1920幎代、圌はムリヌナmuriinaを䜿った䜜品や完党なオリゞナルである

プリマベラprimaveraガラスコレクションなどでその名を知られたした。

 

1930幎代になるず、バロビ゚は新しい倚圩色を䜿った実隓に没頭したす。

 

぀いにそのテクニックを完成させ、「colorazione a senza fusione」ず名付けたした。

 

 

第二次倧戊埌バロビ゚はの興味は䌝統的な技巧に移り、それを自分なりに解釈しお発衚したした。

1950幎代から1960幎代にかけお、圌はテッセラ゚(tesserae)技法の新しい解釈を発衚しおいたす。

 

 

15_BBLB_Ercole_Barovier

゚ロコヌル・バロビ゚1889-1974匕甚元Barovier &Toso)

 

「PaulyC」.を芋おみたしょう。

1903幎に誕生し、合䜵や買収を繰り返しおいたこの䌚瀟は、

サルビアヌティやカッペリンによる初期の䜜品やデザむンを

取り扱っおいたしたが、ガラス補造にも乗り出したした。

 

 

 

゚ミリオ・ポルティ、アレサンドロ・ヒクスバヌ・ヘルマン、

ノィットリオ・゚マニュ゚ル・トルヌド、アヌネスト・グラッツアデむらによっお䌚瀟は成長しおいきたした。

 

 

 

しかし1919幎、「PaulyC」は「Compania di Venezia e Murano」ず共に

「Milan Societa Anonima Sanitaria」に買収されたす。

 

 

 

しかし翌幎、今床は「Gaetano Ceschina Of Millan」に売华されたす。

新しく合䜵された䌚瀟は名前を「Paulty C.Compagnia Venezia Murano」ず改め、

1925幎にムラヌノ島においおガラス生産を再開したした。

 

 

16_BBLB_Pauly_And_C_Factory

「PaulyC」の玄関ぞ続く階段

 

「Paulty C.Compagnia Venezia Murano」は1933幎に

「Maestri Vetrai Muranesi Cappellin C」or MVM Cappellinを買収。

 

 

 

それは ゞアコヌモ・カッペリンによっお1925幎に蚭立されたガラス䌚瀟で、

この買収により「PaulyC」はさらに成長を始めたした。

 

 

たた「MVM Cappellin」のデザむン暩を同時に獲埗。

 

 

その䞭にはビットリオ・れッチンやカルヌロ・スカヌパたちの

歎史的に貎重な初期のデザむンや技巧も含たれおいたした。

 

 

 

このような数々の䌚瀟やガラス名人たちの努力によっお、

ムラヌノガラスは2぀の䞖界倧戊を生き抜くこずが出来たした。

 

 

 

旅行や芳光業の増加に䌎い、新しい垂堎を開拓し、1950幎代から1960幎代にかけおのガラス補造は、

ムラヌノガラスにずっお芞術的に蚘憶に残る時代ずなりたした。

 

 

 

さらに宝石補䜜者や高玚ガラス圫刻家などず共同制䜜する䞭で、

ガラス補造もたた新しい方向ぞず進んでいきたした❕

 

 

高玚ガラス補品の膚倧な補䜜費のために、ガラスビヌズ補造はその販売網を倱い、

その生産は日本、むンド、䞭囜ずいった地域に移行しおいきたした。

 

 

 

しかしペヌロッパではチェコ共和囜だけがガラスビヌズの倧きい垂堎であり続けたした。

ベネチアやムラヌノ島で残っおいるガラスビヌズ産業もほずんどなく、

高玚ガラス補品の䞭で现々ずその補造を続けおいくしかありたせんでした。

 

 

次のムラヌノガラスの新たな挑戊は、これはどの有名な補品にも蚀えるこずですが、

停造品の問題でした。

 

 

 

1980幎代以降、アゞアの工堎で䌝統的なムラヌノガラス補品や、花瓶、

ミレフィオリ(millefiori)補品、ガラスビヌズに至るたでレプリカが䜜られ始めたした。

 

 

 

その埌20幎ほどで、安䟡な劎働力で掗緎されたムラヌノ補品のレプリカを補造するたでになりたした。

䟋えば、むンドのガラスビヌズ補造工堎では、1980幎代の䞭頃から、茎暡様に䜿う棒状のガラスを䜿っお、

ロれッタたたはシェブロンビヌズ(rosetta or chevron)の補造を始めたした。

 

 

 

しかし限られた原材料の䞭で補造するため、これら「たがいもの」はビヌズの

V字スタヌの郚分の取り付けが悪く、それで芋分けが぀きたした。

 

 

 

10幎埌、䞭囜のシェブロンビヌズがノェネチアンシェブロンビヌズず党く同じ甚法で補造され、

芋分けが぀かないほどの品質を保っおいたす。

ムラヌノガラスビヌズの秘密などもうこの䞖には存圚しないのです

 

17_BBLB_Chevron_Beads_Comparison

セットベネトリアンロれッタビヌズ1650幎頃

セットむンド補シェベロンビヌズ1980幎頃

セット䞭囜補シェベロンビヌズ2005幎頃

 

補品の品質ず利益を保護するため、プロモべトロthe Promovetroや

ガラスメヌカヌ協䌚は、フランス人アヌティストのマス゚り・シバりット氏による

ムラヌノガラスの暙章を䜜りたした。

 

 

 

「cana de soffio」ずいうガラス吹きを衚す薄玫色のマヌクずむタリア語で

「芞術的ガラスムラヌノ」ず曞かれた文字で構成されおいたす。

 

 

 

この暙章により、倖囜のガラス䌚瀟がコピヌをするこずがより難しくなった。

2002幎、EUにおいお暙章登録されたした。

 

18_BBLB_Glass_Trademark_Murano

今日、䞖界で最も暩嚁のあるガラスブランドのいく぀かは、

今もなおムラヌノ島の歎史的なガラス工房で䜜品を䜜り続けおいたす。

 

 

 

最も著名な䌚瀟は「BarovierToso」、「Venini」、「Paulty」、「Seguso」です。

「BarovierToso」は、䞖界で最も叀い䌚瀟100の1぀に

「1295幎に蚭立された䌚瀟」ずしおギネス認定されおいたす。

 

 

 

このような深い歎史ず、玠晎らしいガラス名人たちによる努力の結晶であるベネチアンガラス。

芳光客甚のお土産グラスの品質くらいは、倧目に芋おあげようではありたせんか。

 

 

 

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安心しお楜しくお買いものをしおいただきたい

 

その想いから、圓店では

安心の亀換・返品保蚌サヌビスを

させおいただきたす

 

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ベネチアングラス専門店 アンティヌク食噚ファン

 

 

 

ラむタヌ玹介 ãƒ©ã‚€ã‚¿ãƒŒäž€èŠ§

効尟 満隆

効尟 満隆

合同䌚瀟SENOO商事の代衚をしおおりたす効尟満隆ず申したす。

りェブずいう情報を発信しおる人が芋えおない䞭で、いろんな間違った情報がネット䞊にあるのを床々芋かけたす。

特にアンティヌクにおいおは

・間違った情報
・信ぎょう性のない情報
・そもそも情報がない

などたくさんの課題がありたした。

そこで私は、これたでのお客様ずの取匕の実瞟、知識、経隓、情報を元に正しい情報をりェブを通しお発信しおいくこずを䌚瀟の方針ず掲げたした。

ただ物を売る䌚瀟ではなく、これたでブラックボックスずされおきおた商品の真莋の芋分け方を発信するずいうのが倧切なこずではないかず思ったからです。

なぜならアンティヌク品の堎合は情報量の䞍足から、買い手偎が圧倒的に䞍利な立堎にあったからです。

このアンティヌクの䞖界をもっずクリヌンで、信頌のおける分野に成長させおいく事が私の䜿呜だず思っおおりたす。

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