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マイセン(芸術家としての発展・テーブルウェアのパターン)

 2016/03/20 マイセン
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本日もご覧いただきありがとう御座います♫

 

マイセン(meissen)通販取扱店

マイセンショップ店長の加寿美です(*^^*)

 

今日はマイセンの歴史をちょこっとだけ紹介させて頂きます♩

 

 

芸術家としての発展

 

アウグストゥス二世ははじめ、新しい器のデザインの製作を

ヨハン・ヤコブ・イルミンガーに委ねました。

 

1720 年、ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトが監督となり

素晴らしい色合いのマイセン磁器を発表しました。

 

次に彫刻 家のヨハン・ヤコブ・キルヒナーが初めて大型の彫像を製作しました。

 

アシスタントはヨハン・ヨアヒム・ケン ドラーで、1733 年にキルヒナーが一線を退いた後、

ケンドラーが「modelmaster」の長を引き継ぎました。

 

ケンドラーはマイセンで最も有名な彫刻家になりました。

 

一方で、マイセンは勇敢さを表現した小型の彫像も製作し ていました。

 

これは最高の新製品として市場に出回りました。

 

ケンドラーの風変わりな大型の動物の彫像は、白 いままで色付けされませんでした。

 

これはヨーロッパの磁器製品の魅力の一つでもありました。

 

ケンドラーの素 晴らしい彫像はのちにロココスタイルとして

ヨーロッパ中の磁器製作に影響を与えました。

 

アシスタントのヨハ ン・フリードリッヒ・エーベルリーンやピーター・ライネッケは、

1775 年にケンドラーが亡くなるまで彼を支え ました。

 

1756 年、七年戦争の真っ只中でプロセイン部隊がマイセンを占拠しました。

 

そしてベルリン王立磁器製陶所の設 立を考えていたプロセインのフリードリッヒ二世に、

職人を異動させる機会を与えました。

 

新古典派時代の変化 と 1760 年代のセーヴル焼きの人気の高まりにより、

マイセンは製品を今一度見直す必要がありました。

 

1763 年 の再編成ではドレスデンアカデミーの C.W.E.ディートリッヒが芸術監督に、

ミシェル-ヴィクトール・アシエが モデルマスターの長に就任しました。

 

1763 年に鋳物の在庫管理台帳において数字として顕著に現れるようになりました。

 

セーヴルスタイルや白大理石によるマットなビスク焼きのような

新古典派主義に足を踏み入れることは、 1774 年にカウント・カミロ・マルコリーニの元で行われました。

 

19 世紀にはエルンスト・アウグストはロココ調の彫像をすかし細工と花柄を取り入れて現代化し

「Second Rococo」 として、再発売しました。

 

イングランドの収集家たちはこれをドレスデンの磁器と名付けました。

 

1903 年の製作部門長であったエーリッヒ・ホーゼルの元で

昔ながらのスタイルは復活を遂げました。

 

ホーゼルは 18 世紀に取り入れられていたモデルを復活させたのです。

 

この復活をアールヌーボスタイルの作品でも見ること ができますが、

18 世紀のモデルがマイセンの中心でありことは変わりませんでした。

 

1933 年以降、芸術家の芸術表現の自由は、当時のドイツにあった啓蒙の進行に従って

サクソニー州の規制により 厳しくなっていきました。

 

ワイマール時代には進展していくマイセンに貢献した芸術家(例:アーンスト・バル ラハ Ernst Barlach)

の中には制作活動を禁じられた人もいました。

 

第二次世界大戦以降の共産主義支配の元で、工房は富裕層の要求に応じなくてはならず、

自身の道を見つけるの は困難な状況にありました。

 

恐ろしいことにマイセンの工房は、ただ大衆向けの製品を製作するだけの工房とな ってしまったのです。

 

これは 1969 年にカール・ペーテルマンが責任者になるまで続きました。

 

カール・ペーテ ルマンが責任者になったことで、古き伝統に重きを置くようになり、

芸術を自由に表現することが許されました。

 

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彫像、1750 年頃、マイセン磁器工房 ヴィクトリア&アルバート博物館 no. C.147-1931

 

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懐中時計ケースはフルートを演奏する男性、歌を歌う少女、

弦楽器のネックを持つもたれかかる男性が描かれて います。

ウォルターズ美術館。構成は L’Accord Parfait から派生したものです。

1719 年頃、アントニー・ワトー Antonie Watteau(1684 年–1721 年)。

現在はラマックにて保管されています。

 

 

テーブルウェアのパターン

 

ベットガーは、早い段階でテーブルウェアの予測をしており、

1720 年代に最初の一式を製作しました。

 

最初のものは無地でしたが、すぐにケンドラーが一式に合う模様を取り入れました。

 

また、1745 年にケンドラーは縁が波 型をしている「New Cutout」パターンを作りました。

 

有名なスワンのサービス(Schwanenservice)は 1737 年 – 1743 年に、

最高責任者であったハインリッヒ・フォ ン・ブリュール伯爵のために製作されたものですが、

その数は 1000 点以上にのぼります。

 

第二次世界大戦後、 スワンのサービスセットは収集家や博物館の間に散らばりました。

 

しかし、金型は現存していて、今日でもこの パターンは製作されています。

 

ブルーオニオンパターンは3世紀近くに渡り製作されています。

 

1739 年にヘロルトがデザインしたものです。

 

おそらく康熙帝の茶碗からインスピレーションを受けたものと思われます。

 

幅広く人気があり、60 を超える工房が このパターンを模倣しました。

 

中には、マイセンの刻印を使用する工房もありました。

 

しかし、高い人気と広が りにより、

1926 年、ドイツの高等裁判所はブルーオニオンパターンが公有に属する旨の判決を言い渡しました。

 

「コートドラゴン」と「レッドドラゴン」シリーズのテーブルウェアは龍を描いたものです。

 

一般的には赤地で、 プレートのリムに金箔で細かい模様が施されていたり、

カヴェットの中心に円形模様が施されています。

 

このパターンの食器はケールシュタインハウスで使用されていました。

 

パープルローズやワインリーフなどの人気の高いパターンは現在も製作されています。

 

マイセン ブルーオニオンのテーブルコーディネート

マイセン ブルーオニオンのディナーサービス

 

スワンサービスのプレート

スワンサービスのプレート

 

 

 

テーブルウェアもマイセンが起源になっていたのですね!

 

 

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妹尾 満隆

妹尾 満隆

合同会社SENOO商事の代表をしております妹尾満隆と申します。

ウェブという情報を発信してる人が見えてない中で、いろんな間違った情報がネット上にあるのを度々見かけます。

特にアンティークにおいては

・間違った情報
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・そもそも情報がない

などたくさんの課題がありました。

そこで私は、これまでのお客様との取引の実績、知識、経験、情報を元に正しい情報をウェブを通して発信していくことを会社の方針と掲げました。

ただ物を売る会社ではなく、これまでブラックボックスとされてきてた商品の真贋の見分け方を発信するというのが大切なことではないかと思ったからです。

なぜならアンティーク品の場合は情報量の不足から、買い手側が圧倒的に不利な立場にあったからです。

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