ロイヤルウースター royal worcester食器(サインの歴史)とペインテッドフルーツ イギリスアンティーク
目次
- 1 ロイヤルウースター(royal worcester)の歴史
- 2 『王室御用達を得るきっかけとなったブルー・リリー』
- 3 『ハリーディヴィスの才能』
- 4 最高傑作はいかにして生まれたのか?
- 5 『ペインテッドフルーツ』
- 6 ロイヤルウースター(royal worcester)のペインテッドフルーツ絵師
- 6.1 優れた絵師たちも副業、転職せざるをえませんでした。
- 6.2 レジナルド(・ハリー)・オースティン
- 6.3 ウォルター・オースティン
- 6.4 ハリー・エアトン
- 6.5 ウィリアム・バグナル
- 6.6 ウィリアム・ビー
- 6.7 キティー・ブレーク
- 6.8 ジョン・フリーマン
- 6.9 トーマス・ロッキャー
- 6.10 ジョージ・モズリー
- 6.11 ホレス・プライス
- 6.12 ウィリアム・リッケツ
- 6.13 フランク・ロバーツ
- 6.14 リチャード・セブライト
- 6.15 アルバート・シュック
- 6.16 エドワート・タウンゼンド
- 6.17 チャーリー・トゥウィルトン
- 6.18 ウィリアム・ホーキンス
- 6.19 『ロイヤルウースターのサイン(マーク・刻印)から見る歴史の移り変わり』
- 6.20 『現在でも輝き続けるロイヤルウースターの作品』
本日もご覧いただきありがとう御座います。
アンティーク陶器通販取扱店
アンティークショップ店長の妹尾です。
ロイヤルウースター(royal worcester)の歴史
ロイヤル・ウースター(Royal worcester)社は1751年に誕生した、現存する英国最古の陶磁器メーカーです。
薬剤師ウイリアム・デイビスと医師ジョン・ウォール博士を中心とする15人の株式出資者により、イングランド西ミッドランズ地域のウスター市にウースター・トンキン工場として設立されました。
創業の翌年には、素地にソープストーンを混ぜた「ステアタイト製法」と呼ばれる軟式磁器を製作していたブリストル工房を合併しました。
また、ボーン・チャイナが発明されるより早くに、当時のヨーロッパの人々にとって憧れであった、中国の陶磁器を思わせる薄く高品質な磁器の生産を行い人気を博しました。
その製法は、釉薬の上にエナメルで絵付けを施す高度な技術や「ジェット・エナメル」と呼ばれる黒の絵付けなどです。
また、銅版画転写法の技法により大量生産を可能としました。
ロイヤルの称号を得るまではロイヤルウースター(royal worcester)も元々はウースターというブランドで展開していました。
ロイヤルの称号が得られるか得られないかで、そのブランドは社運を大きく左右するものだったんです。
なぜなら王室に商品を納品することが出来るブランド=世界で通用するブランドであり、納品先が王室、世界と一気に広がるからです。
そんな時に国王ジョージ3世が窯を訪れた際に、ジャポニズムの影響がうかがえる藍の染付「ブルー・リリー」を大変気に入り、1789年、ロイヤル・ウースター社は英国の陶磁器界で初めてロイヤル・ウォラント(王室御用達勅許状)を授けられます。
『王室御用達を得るきっかけとなったブルー・リリー』
それ以来このシリーズは「ロイヤルリリー」と呼ばれ、現在のエリザベス2世に至る全ての君主からロイヤル・ウォラントを授与されています。
ジャポニズムの作品を機に、ロイヤルの称号を与えられたって日本の芸術ってやっぱり凄いですね。
そして、ロイヤル・ウースター社(royal worcester)は1800年頃にはボーンチャイナの製造にも成功しました。
19世紀前半に人気を博した東洋風モティーフには、中国風の楼閣と橋に屏風が描かれた「フェンス・パターン」と呼ばれるものや、日本の伊万里調のものなどがありました。
(下記はジャポニズムの影響を受けたロイヤルウースター桜のカップ&ソーサーになります。)
また、一企業としてのロイヤル・ウースター社(royal worcester)は創業以来、分離と合併を繰り返しています。
一例を挙げれば、1783年に独立した絵付師ロバート・チェンバレンが「チェンバレンズ・ウースター」を設立。
その後1840年にチェンバレンズ・ウースターが本家ウースターを吸収合併しています。
1852年からカー&ビンズ・ウースターとなり、1862年ロイヤル・ウースター磁器製作所と改称しました。
その後1889年にグレンジャー社、1904年にロック工房、1905年にハドレイ工房を買収し、現在の組織となりました。
従って現在のロイヤル・ウースター社の作品には、従来それぞれに発展してきた表現が混在するようになっています。
ロイヤル・ウースター社の現在継承されている技法は19世紀半ばに確立しました。
熟練した画家や彫刻家たちが、しばしば一族でウースター社の職人として働きました。
中でも知られているのは、1900〜1920年代の間に優れた絵付師を多く輩出したスティントン一族です。
「グレンジャー・ウースター」設立の1801年以降に働き始めたヘンリー・スティントンの息子であるジョン・スティントン(1854-1956年)は、1846年以降にグレンジャー社と契約しました。
彼は人物入り風景画を得意としました。
その長男のジョンJr.は、ウースター社の誇る天才絵付師ハリー・デイヴィスに比肩し得る才能の風景画家となりました。
「ジョン・スティントンによるハイランド地方の牛」の絵は彼の専門でした。
他にも、四男のワルターはニュージーランドの風景で、五男のジェームスは雉の絵で知られています。
『ジェームスによる雉のデミタスカップ&ソーサー』
また、ジョンの4人の子供もやはり絵付師としてウースター社で働きました。
長男アーサー、長女ケイト、次男ハリー、次女アニー。
その中でもハリー(1883-1968年)は体が弱く脚に障害をもちながらも画才に優れ、「ハイランド地方の牛」の画法を父から受け継ぎ、完成させました。
『ハリーディヴィスの才能』
20世紀初頭はいわばロイヤル・ウースターの黄金期で、天才絵付師のハリー・ディヴィス(1885(?)-1970年)は1898年に、優れた絵付師であり金彩師であった祖父のジョサイア・ディヴィス(1839-1913年)の勧めにより、僅か13歳で工房に入ります。
そして、たちまち才能を開花させ、とりわけ水彩画と陶版画にその芸術性を発揮していました。
『ハリーディヴィスによるハイランド地方の羊のカップ&ソーサー』
また、絵付師として名声を得たのみならず、数多くの作品を生み出したのと同時に後進の指導にも尽力し、1928年ウイリアム・ホーキンスの後を継いでマスター・ペインターとなります。
彼の考案した教材は、現在でもウースターで使われているとのことです。
その彼が得意とした題材は、自然風景やハイランド地方の羊や魚などでした。
ソーサーに草原に咲き乱れる草花やカップの内側に巣の中に眠る卵が描かれた「鳥の巣」は、彼の表現力の素晴らしさが際立った作品です。
そのディヴィスとハリー・スティントンは互いに親しく、一緒に魚釣りを楽しむ間柄だったそうです。
ウースターの絵付師には他にも、ぼかしの技法が駆使された「孔雀」を描いたホレース・ブライス、魚の鱗状模様を施した「エキゾティック・バード」の作者ジョージ・ジョンソン、フルーツと花の絵を得意とし、ハリー・オースチン、白鳥が飛ぶ姿が有名なチャールズ・ボールドウィンチャールズ・ボールドウィンとは鳥の絵で有名なウィリアム・パウエルなどがいます。
(ウィリアム・パウエル作 動物シリーズのカップ&ソーサー)
『白鷺のキャビネットカップ&ソーサー』
『真鴨のデミタスカップ&ソーサー』
1862年以降はロイヤル・ウースターとして、吸収合併したそれぞれの工房の特徴を生かしつつ、ウースターの面目躍如たる絵画的作品などを生み出しています。
最高傑作はいかにして生まれたのか?
後進の指導に力を入れていたハリーに目をかけられたのが、フルーツ画を得意としたエドワード・タウンゼント(Edward Townsend)です。
彼はハリーのアシスタントとして働き、ハリーの死後、マスター・ペインターを引き継ぎます。
マスターペインターの継承
・ウイリアム・ホーキンス
・ハリー・ディヴィス
・エドワード・タウンゼント
そして最後に集まった優秀な絵付師、造形師、金彩師が一丸となって、ロイヤル・ウースターの代表作である
『ペインテッドフルーツ』
ハンドペイントによる絵付けと焼成を6回繰り返した上から特殊技法により22金を施し、11時間かけて磨き上げた最高級品です。
22金で彩られた深みのある手描きのフルーツはカップの外側だけでなく内側にも描かれ、浮き上がるように見えます。
見える部分に絵付師のサインの入った芸術作品とも言えるティーセットを楽しめるのは、アンティークの醍醐味と言えるでしょう。
ロイヤルウースター(royal worcester)が得意とするフルーツの柄を、よりカジュアルに楽しめるシリーズが「イブシャム・ゴールド」白地に様々な種類のみずみずしいフルーツが描かれたシリーズの名前は、イギリスの有名な果物の産地、イブシャム渓谷に由来しています。
『ペインテッドフルーツ・イブシャム(evesham)ゴールドの作品』
ここからは、そんなペインテッドフルーツに携わった天才ペインターたちをご紹介していきます。
ロイヤルウールターのペインテッド・フルーツとウースターのフルーツ絵師の技巧
ロイヤルウースター(royal worcester)のペインテッド・フルーツの美しさは、フルーツ絵師と職人の多岐にわたる技術なくしては得られません。
ウースターで初めてフルーツを描いたのはオクター・H・コプソンだったといわれています。
1880年、パーショアにプラム栽培が導入されたのを祝うために、地元の農家から依頼された彼は、大きな飾り額に絵付けしました。現在の絵付師が過去の絵付師のレベルに達するのに最大 7 年かかるといわれています。
絵付師が透過色のパレットを用いて最初の色を付けた後、焼き入れます。その後、さらに絵付けと焼き入れを繰り返します。
ウースターの絵付師が各工程で色を入れ、それが徐々に濃くなっていくことで、フルーツの立体感が生まれます。
透過色を用いることで下の色が透けて見え、出来上がった作品に深みが生まれます。
とはいえ、めっき師と研磨師の熟練の技なくして作品を仕上げることはできません。
22 カラットのゴールドと様々な技術を
用いて作品をより豊かで美しいものに仕上げます。
そして最後に、職人の技、経験、確かな目により検査することで、ロイヤルウースター(royal worcester)のペインティド・フルーツの完成品ならではの品質が保たれています。
初期のウースターのフルーツ絵師
1899 年-1900 年のロイヤルウースターのフルーツ絵師たち
フランク・ロバーツ、チャールズ・バルドウィン、ジョージ・ジョンソン、
リチャード・セブライト、C・グレートバッチ、ウィリアム・ホーキンス、
リッケツ(前列左から)E・サドラー、ロバート・レア、サルター、
前列の見習い二人はハリー・デーヴィスとリチャードソン
ロイヤルウースター(royal worcester)のペインテッドフルーツ絵師
ロイヤルウースター(royal worcester)の歴史の中で、高い技術を持った絵付師は数々いましたが、1920 年代はその中でも特に腕の立つ絵付師たちが多く在籍していました。
オースティン兄弟(レジナルド・(ハリー)とウォルター)、ハリー・エアトン、
ウィリア ム・バグナル、ジョン・フリーマン、トーマス・ロッキャー、
ジョージ・モズリー、ウィリアム・ビー、ホレス・プライス、
ウィリアム・リッケツとその上司リチャード・セブライト、シュック、タウンゼンド、
トゥウィルトンと、ロイヤルウースターのフルーツ部門には
最高の絵師たちが勢ぞろいしていました。
その絵師たちをまとめていたのは有名なウィリアム・ホーキンスです。
彼ら以上の技術・作品は後にも先にもないといってもいいでしょう。
第一次世界大戦後の多幸感も相まって、1920 年代を爆発的にスタートさせた
ロイヤルウースターは、その後徐々に厳しい時代を迎えます・・・
優れた絵師たちも副業、転職せざるをえませんでした。
レジナルド(・ハリー)・オースティン
ハリーの呼び名で知られるレジナルド・オースティンは、1890 年生まれ、ウースター大学では芸術を専攻しました。
彼はフルーツの手付けを専門にしていましたが、後に花や鳥を描くことで有名になりました。
1920 年代を通してロイヤルウースターに在籍しており、地元で水彩画を売ることで生計を立てていましたが、1930 年、世界恐慌の真っ只中に稼ぎを増やすためフリーランスに転向しました。
その後、再び窯元で働くようになり、マーガレット王女の誕生を祝う記念品に絵付けをしました。
ウースターの街にも戻りましたが、ロイヤルウースター(royal worcester)で働くことはありませんでした。ハリー・オースティンは 1955 年に亡くなりました・・・
ウォルター・オースティン
ウォルター・オースティンはハリー・オースティンの 1 歳下の弟でした。
ハリー同様、植物画を得意としており、いくつかの賞も受賞した経験もあります。
もちろん、ロイヤルウースター在籍時には、フルーツを絵付しており、その腕前は確かでした。
兄同様、家計を支えるために副業で水彩画を売っていた時期もありますが、1930 年、ロイヤルウースターを離れました。
当時とても流行っていた、家具に花を絵付けする仕事に何年か従事していたこともありました。
ハリー・オースティンは 1971 年に亡くなりました・・・毎年 9 月は一切働かず、スコットランドで大好きな釣りをして過ごしていたそうです。
ハリー・エアトン
ティムとも呼ばれていたハリー・エアトンは1905年生まれ、1920年から定年退職する 1970年まで、ずっとロイヤルウースターに勤務し、定年後も 1976 年に亡くなるまで、ロイヤルウースターでパートタイムとして絵付師を続けました。
「7 人の困った奴ら(Terrible Seven)」として知られる見習いグループの一人で、悪気はないものの、機会を見つけてはサボって野球をしていたそうで、ロイヤルウースター(royal worcester)の職人たちをよく困らせていました。
また、職場の自転車同好会にも熱心だったそうで、遠征や大会によく参加していました。
様々な絵付けをしましたが、フルーツの絵付けを得意としており、1920 年代はフルーツの絵付けをよくしていました。
ウィリアム・バグナル
ウィリアム・バグナルも、「7 人の困った奴ら」の一人でした。
1918 年からロイヤルウースターに在籍し、フルーツ絵師としての腕をあげただけでなく、静物画の達人とも呼ばれるようになりました。
1920 年代はロイヤルウースター(royal worcester)で働きつつ、他の絵師同様、副業をして生計を立てていましたが、1930 年代前半にギルフォードのフィッシュアンドチップスの店を継ぐため、ロイヤルウースターを辞めたそうです。
ウィリアム・ビー
彼もまた、「7 人の困った奴ら」の一人でした。
とても優れたフルーツ絵師でしたが、世界恐慌の荒波の中でその能力が十分に発揮されることはありませんでした。
1932 年にウースターを辞めた後のことはほとんど知られていません。
キティー・ブレーク
キティー・ブレークは 1905 年から 1953 年までの 48 年間、
ロイヤルウースターに勤務していました。
専門は花や小さなフルーツの絵付けで、ブラックベリーやキンポウゲを用いたデザインも考案しました。
以前はディグリスロードにあるジェームズ・ハドリーの工房で働いており、その時身につけたハドリースタイルで描くたわわなブラックベリーは、キティー・ブレークの代表作といわれており、食欲をそそるほどリアルに描かれていることから、後にコレクターの間で人気になりました。
多くの絵付師がそうであるように、キティー・ブレークも芸術一家の生まれで、兄のエドワードはロックの工房でキジ絵師をしていました。
ユーモアのセンスに富み、職場のムードメーカーであったキティー・ブレークは、ロイヤルウースターでも超有名人だったそうです。
「7 人の困った奴ら」と呼ばれる男性絵師がいたように、若い頃はちょっとやんちゃだったキティーは、失礼なことをいう男性絵師に食って掛かる「6 人の生意気娘」と呼ばれる女性絵師の一人でした。
キティーはそのグループの中心人物で、ウースター内外でも名が知れていました。
キティー・ブレークは、ウースターに長く在籍し、精力的に職務に従事していました。
厳しい時期の方が多かったこともあり、空いた時間にロイヤルウースター(royal worcester)が開いたイベントのポスターを担当することもあったそうです。
親しみやすい性格のキティーは、紅いルージュとタバコを欠かさなかったそうです。
ジョン・フリーマン
ジョン・フリーマンは 1911 年に生まれ、ロイヤルウースターが苦しい時代を迎える 1925 年から働き始めました。
フルーツと静物画の絵師としての腕は群を抜いており、在籍中に彼よりも腕の立つ絵師はいなかったと言われています。
ロイヤルウースターに長く勤め、男性絵師の作業室の室長を務めました。
作業スピードが速かったことから、同僚からは「フルーツマシーン」と呼ばれていました。
トーマス・ロッキャー
トーマス・ロッキャーが専門のフルーツ絵師として、ロイヤルウースターで働き始めたのは、まさに第一次世界大戦が勃発しようとしている時でした。
コケ状の背景に彼ならではの手法を用いて描かれたデザートフルーツは、よだれが出るほどリアルに仕上がっていました。
第一次世界大戦中に軍隊に務めるために一度ウースターを離れますが、怪我を負い、足を引きずりながら歩くようになったため、1918 年に復職します。
1935 年に亡くなるまで、ロイヤルウースターですばらしいペインティド・フルーツを描き続けました。
ジョージ・モズリー
ジョージ・モズリーも「7 人の困った奴ら」の一人でした。
1919 年にウースターで働き始めてから腕を上げ、知名度はそう高くはありませんが、フルーツと小鳥の絵付けを得意としていました。
1935 年までロイヤルウースターに勤めた後、軍隊に入隊するため退職しました。
ホレス・プライス
ホレス・プライスは 1898 年に生まれ、1912 年から引退するまでロイヤルウースターに勤めました。
熱心なフルーツ絵師として尊敬されただけでなく、ロイヤルウースターとハドリーの花を描き分けることができました。
第一次世界大戦中、軍隊に勤めた際に右手の指を負傷しましたが、生活だけでなく仕事にも支障はなかったそうで、ウースターの幹部も感心するほどでした。
後に見習い絵師たちの監督役を務めました。
ウィリアム・リッケツ
ウィリアム・リッケツは、1877 年ごろから 1930 年代のはじめまでロイヤルウースター(royal worcester)に勤めていました。
花の絵付師としての技術も高かったそうですが、フルーツ絵師として有名でした。
フルーツのみではなく花瓶や別の飾りと一緒に描くことが多く、また、背景がまだらになるよう、オイルを用いた独特の手法を発展させました。
水彩画も得意としており、静物画を多く描きました。
ロイヤルウースター(royal worcester)のフルーツ絵師の中でも、特に高い評価を受けていた絵師の一人といえるでしょう。
フランク・ロバーツ
フランク・ロバーツは 1857 年に生まれ、1872 年からロイヤルウースターで働き始めました。
伝統的なウースタースタイルのフルーツ絵師として抜群の腕を持っていましたが、花(特に蘭)の表現力の高さでも知られており、浮き出しの金細工を手がけることもありました。
また、とても偏狭で信仰心の強い人として有名でした。
晩年、彼の作品の多くは、新入りの見習いの練習材料として用いられました。
亡くなる直前の 1920 年までロイヤルウースターで働いていたそうです。
リチャード・セブライト
リチャード・セブライトは、これまでで最も評価されたフルーツ絵師です。
ロイヤルウースターでフルーツを描くこと 56 年、その間、常に普通の生活をするのにも苦労していたそうです。
絵師たちは絵付けをした数によって給料が支払われていたため、多く絵付けするほど稼ぎは増えましたが、
リチャード・セブライトは仕事で手抜きはしない、常に最高のものを描こうという姿勢で作業していたため、作業スピードは決して速くはなく、他の絵師たちほど稼ぐことはできませんでした。
とても信仰心が厚く、生涯独身だったそうです。
信仰と仕事が彼の全てで、稼ぎは二の次でした。
同僚たちは、リチャード以上のフルーツ絵師はいないと考えていたそうです。
アルバート・シュック
1880 年生まれのアルバート・シュックは、1920 年代を通してロイヤルウースター(royal worcester)でフルーツと花の絵付師として働きました。
とてもシャイで控えめな性格だったといわれており、同僚たちも彼のことをあまりよくは知らなかったそうです。
エドワート・タウンゼンド
「7 人の困った奴ら」の一人であったエドワート・タウンゼンドは、テッドとも呼ばれていました。
1918 年からロイヤルウースターで働き始め、1971 年に定年退職しました。
フルーツだけでなく、様々な絵付けを得意としていました。
ハリー・デーヴィスの下で副主任を務め、1954 年にデーヴィスが定年退職した後は主任を務めました。
チャーリー・トゥウィルトン
「7 人の困った奴ら」の一人であったチャーリー・トゥウィルトンは、1918 年に見習いとしてロイヤルウースター(royal worcester)で働き始めました。
フルーツ絵師としての技術はありましたが、作業が遅く、絵師としてだけでは世界恐慌の不況時代を乗り切ることはできませんでした。
1920 年代後半~1930 年代前半にはウースターを離れ、別の職業に就いたといわれています。
ウィリアム・ホーキンス
ウィリアム・ホーキンスは、1920 年代に絵付け部屋の主任を勤め、1928 年に定年退職しました。ロイヤルウースターの中でも最も尊敬されている絵師の一人です。
フルーツ絵師としてはあまり有名ではありませんが、腕前は確かでした。
最も得意としていたのは肖像画、人物画でした。
ロイヤルウースター(royal worcester)のフルーツ絵師の技巧
ウースターのペインティド・フルーツの技術は、2 世紀以上にわたりロイヤルウースター(royal worcester)で発展し続けてきました。
上質で絵付けをするのに値する形のものにのみ、ペインティド・フルーツの絵付けが施されます。
ウースターの描くフルーツは、それぞれにユニークな構図を持ったアートであるといわれています。
18 世紀には、白の背景の上にフルーツを描くことが多かったそうです。一方、19 世紀半ばになると、現在のスタイルが発展し始め、ロイヤルウースター(royal worcester)の鑑定士やコレクターたちに重宝され続けています。
1) 絵付師:
絵付けに透過色のパレットを用いることで、色に深みが生まれ、
リアルで立体感のあるフルーツを描くことができます。
2) メッキ師:
メッキ師は、細心の注意を払いながら、手作業で 22 カラットの金を貼り付けます。
それにより作品がより豊かで美しいものに仕上がるのです。
3) 研磨師:
研磨師は、様々な道具と技巧を用いて、金ならではの光沢を惹き出します。
4) 品質検査:
最後に、完成品は厳密な検査を受けます。
皆さんの手元に届く作品が常に完璧な状態なのはそのためです。
『ロイヤルウースターのサイン(マーク・刻印)から見る歴史の移り変わり』
窯印は円で囲まれた4つの”W”の飾り文字の中央に”C51″の文字、
そして上方の王冠で構成されており、1862年頃から用いられています。
1867年から1890年までは、アルファベットにより製造年が表され、1891年以降は窯印の下の星印の左右に並ぶ点の数で、製造年が分かるようになっています。
1862年から1875年の間はアルファベットの代わりに製造年の下2桁が用いられることもありました。
また、1891年以降は円の周囲に“ROYAL WORCESTER””ENGLAND”の文字が追加されました。
製造年月日早見表
A=1867 B=1868
C=1869 D=1870
E=1871 G=1872
H=1873 I=1874
K=1875 L=1876
M=1877 N=1878
P=1879 R=1880
S=1881 T=1882
U=1883 V=1884
W=1885 X=1886
Y=1887 Z=1888
O=1889 a=1890
(最上列の左から2番目のマーク(刻印)はZのサインがしてあるので
1888年に製造されたことが分かります)
もっと詳しくロイヤルウースターのサイン(マーク・刻印)を見る
『現在でも輝き続けるロイヤルウースターの作品』
ハーブを描いた可憐な「ウースター・ハーブス」、ロイヤル・シェイプに22金の金彩で取り囲まれた数種の花を描く「サンドリンガム」、縦に波打つラインに落ち着いたブルーベリー柄が清楚な「ラビニア」、青と黄の花が瑞々しい「パストラル」なども人気のシリーズです。
ラビニア
ウースターハーブス
サンドリンガム
エッグコドラー
エッグコドラーは、中にバターなどを塗り、卵を割り入れ、
蓋をしてお湯に入れておくと、温泉卵みたいな料理が出来るという品物です。
サイズはすべておよそ口径5.5cm 高さは取っ手を入れて9cmほどです。
このデザイン意外にもフルーツ、植物、ラビニア、ローズ等
様々なデザインが存在します。
アーデン(arden)
英国の森と言う意味で作品の中に桃が描かれています。
キリン ビアマグ コレクション ロイヤルウースター
イギリスでビール会社のキリンと共同で作られた限定のマグカップになります。
サイズ
口径 11.2cm
高さ 12.1cm
いかがでしたでしょうか?
今日はロイヤルウースター(royal worcester)の基本的な歴史からサイン、現代の作品について大まかにご紹介させて頂きました。
本当はロイヤルウースターは細分化すれば、もっと深い歴史がありますので他のページも見てみて下さいね。
もし、この記事を見てロイヤルウースター(royal worcester)に興味を持って頂けたら、魅力が伝わったと嬉しく思います。