アンティーク食器 イギリス(英国)産陶磁器と紅茶の歴史 ウェッジウッドやスポード
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博多アンティーク店長の加寿美です(*^^*)
ティーガーデンの流行
時はアン女王が崩御した後、ドイツのハノーヴァー家よりジョージ1世が新国王の座についた時代です。
ジョージ1世はドイツの出身だったため英語が堪能でなく、英国国内文化にはあまり興味がなかったようです。
続くジョージ2世もドイツ国王との兼任や戦争で文化のことに目を向ける時間はありませんでした。
このような国政状況の一方で、ティー文化は国民全体に広がりました💕
元々人気のあったコーヒーハウスはジョージ王の時代に多様化し、アルコールも取り扱うことでパブ化していったり、客層を限定してクラブになる店もありました。
そんな中、新しく登場したのがティーガーデンでした。1730年ごろのことです。
ティーガーデンは広い庭園を散策しながらお茶が楽しめるようにロンドンの郊外に作られました(^^)
メニューとしては幅広く、バター付きパンなどと一緒にお茶、コーヒー、チョコレートなどの飲食物をサーブしていました。
コーヒーハウスとは違い、身分、性別に関わらず誰でも入場ができました。
今まで上流階級の人たちだけのお茶文化でしたが、比較的身分の低かった女性もこれを楽しめるきっかけができました。
ティーガーデンはオーケストラボックスでの演奏会、ダンスパーティーなどただの喫茶店ではない、エンターテイメントを提供する場でした。
当初は入場料無料でしたが、サービスの充実に伴い有料が一般的となりました。
料金は2-3シリング、一般的な労働者階級の賃金の2,3日分ぐらいでしたが、現在の遊園地のような感覚の場所として不動の人気を確立していきます。
ヴォクソール・ガーデンズや、ラネラー・ガーデンズは特に人気の高いティーガーデンでした。
いずれも1730-1740年代にオープンしています💕
特に、ラネラーではモーツァルトが演奏会を開いた記録も残っています。
健康的なイメージを持つお茶への注目
メアリ2世とウィリアム3世即位以降、英国国内に彼ら国王夫妻の故郷オランダからジンが流入するようになりました。
ジンがアルコール度数が40度以上もあり、たちまち人気のアルコールとなりました。
ジンは大量生産され安く手に入ったことからジン中毒者が社会問題となっていきました。
これを風刺した有名な版画がウィリアム・ホガースによる「ビール街」と「ジン横丁」。
ジンによる堕落に危機感を覚えた人々は、この反動から健康や薬のイメージを持つお茶に憧れを抱くようになります。
これは、国全体にとっても有益なことでした。
しかし、当時茶道具は中国や日本といったアジアでしか手に入らず、茶そのもの以上に高かかったことから、労働階級に手が届くものではありませんでした。
ドイツやフランスでは国産磁器が作られるようになっていましたが、英国では残念なことに、原材料の鉱石が採掘できなかったことから難しかったようです。
また、王政が復活して間もない頃だったため陶磁器産業は民間の中小資本に頼らざるを得ず、資金力不足も問題でした。
英国産の陶磁器の誕生
こんな状況の中、例外的にパトロンを有していたのがチェルシー窯でした。
1745年にカンバーランド公爵の支援のもと設立されました。
この窯には、王室からも贈呈品の注文が入り、圧倒的な人気でした。
有田焼の写しを得意としましたが、絵付けの際に見本としたのは有田焼を模倣したマイセン窯の作品だったそうです。
そんなチェルシー窯のライバルとなったのが、ボウ窯。
1747年に創業され、1748年に現在においてボーンチャイナと呼ばれる器の作成につながる技術が開発されました。
素地の中に動物の骨粉を混ぜて焼成すると、やわらかく透明度の高い独特の輝きをもった器が出来上がったのです。
ボウ窯は英国におけるボーンチャイナの最初の窯として知られています💕
また、この窯でできた製品は比較的安価で、日用食器として中産階級に広まりました。
柿右衛門スタイルを通常採用しており、中国的な図柄も多く作成していました。
のちにチェルシー、ボウ窯は経営困難となりダービー窯に買収されています。
陶磁器窯の経営の難しさが課題となっていましたが、その中で商業的に成功したのがウェッジウッド窯です。
創業者は貧しい家庭環境に苦労したジョサイア・ウェッジウッド。
労働者階級にも手の届きやすい器作りを目指し研究を続けた結果、美しい乳白色の陶器クリームウェアを生み出すことに成功しました。
一部作業が機械化されていたことにより大量生産が可能となり、廉価で売り出すことができました。
以上のことより、クリームウェアは今まで食器に縁のなかった人々の間に急速に広まっていくことになりました。
粗悪な日用陶器と最高級品の中間に位置した実用陶器として、多くの家庭に普及していったのです。
ジョージ3世の妻シャーロット王妃も、ウェッジウッドにクリームウェアのティーカップ、コーヒーカップのセットを注文しています。
普段使いのためのものでした。
田園での暮らしを好んだジョージ3世は農民王として国民に親しまれていました。
国王夫妻はロンドン郊外、キューに小さな宮殿を持っており、現在王立植物園となっているキューガーデンには一家がピクニックを楽しんだクイーンシャーロットコテージが残されています。
シャーロット王妃は家庭的なものを好み、ウェッジウッドのクリームウェアを高く評価しました。
クイーンズウェアと特別な名称を与え、王妃御用達の陶工に指定したほどです。
海外にもその人気は及び、ロシアのエカチェリーナ2世のオーダーによるフロッグサービスが制作されたこともあります。
*クイーンズウェアのティーカップ
ジャスパーウェア
西洋文化はルネサンスから始まり、バロック、ロココなどと流行が移り変わっていきました。
ジョージ王朝時代は派手なものが好まれていましたが、次第に新古典主義運動により古典的な美を見直そうというトレンドが高まりました。
ジョージ3世の時代には、グランドツアーという、現代で言うところの修学旅行が流行しました。
行き先は国外で、フランス、イタリア、エジプトなどが人気でした。
特にイタリアには古代ローマ、ルネサンス期の遺産が多かったことからこれに影響を受けた若者によって、英国国内にも新古典主義の建物が多く作られるようになりました。
新古典主義の建築家として有名なロバート・アダムもグランドツアーに影響を受けた1人です。
貴族の邸宅であるカントリーハウスを数多く建築しています。ロココの繊細さを残しつつ、ローマ様式を取り入れた室内インテリアはアダム・スタイルとして大変な人気でした。
部屋全体に古典時代の雰囲気を出し、室内全体の統一が重要とされていたため、カントリーハウスの建築ラッシュに伴い室内装飾品の需要も増加したのでした。
こうした流行に着目したウェッジウッドが1774年に発表したのがジャスパーウェアでした。
様々な色で、新古典主義にふさわしいように仕上げられています。
モチーフとしては、女神や天使など古代ギリシャやローマの模様、図柄が用いられました。
こうしてジャスパーウェアは新古典主義の建物に欠かせない装飾品となりました✨
この頃はまだ陶磁器を輸送するための運送手段やルートが装備されておらず、広い地域での人気に応えることがなかなか難しいという問題がありました。
馬車での輸送中に割れてしまったり、ということがよくあったのです。
そこで、ジョサイア・ウェッジウッドは陶磁器の街ストーク・オン・トレントと商業都市リバプールを繋ぐトレント&マージー運河の提案がなされ、実際に完成された後は輸送コストの大幅な削減に成功しさらに業績を伸ばしていきます。
*ジェスパーウェアの豪華なティーセット
茶税問題
英国が新古典主義一色になる一方で、茶税という新たな問題がありました。
東インド会社が独占してお茶を取り扱っており、正規ルートで入ってくるお茶は大変高い税金が課せられたのです。
当時、王政復古により宗教観が違うピューリタンと呼ばれる人々がアメリカ大陸に移住していきましたが、彼らは英国本土の上流階級と同様に、高価なお茶を高価な東洋の食器で楽しむような生活を成功の象徴として開拓にいそしんだのでした。
ニューヨークにはティーガーデンが1750年にオープンし、成功者たちは英国本国となんら変わりない優雅な喫茶生活を楽しんでいました✨
ボストン美術館に当時彼らが使っていた茶器がたくさん保存されています。
現在のカナダにあたる場所で英国とフランスが植民地獲得競争をしており、英国は勝利しましたが、この戦争による負債は大きく、植民地に対してもさなざまな税がかけられるようになりました。
このような状況の中、アメリカ市民は「代表無くして課税なし」というスローガンを掲げ、商品の不買運動をはじめとして、集会の開催など様々な活動をしたことにより、課税は撤廃されていきます。
しかし、茶税だけが唯一残り、英国本国の圧政の象徴となり、非難の的となったのです。
密輸が横行し、人々は英国からのお茶をボイコットし続けたため、東インド会社は大量の在庫を抱えてしまうことになります。
これに対抗し、英国は茶法を制定します。
植民地側に密輸入を禁じ、東インド会社には通常の関税なしで北アメリカの植民地に茶を売ることを認めた法律です。
これに従うと、東インド会社は当時の密輸入茶より安価でお茶を売り出すことができます。
英国側としては、茶税を撤廃するもので、これが事態を収束すると考えました。
しかし、密輸入で利益を得ていた東インド会社に独占販売権を与えるこの法律は逆に反発を呼びました。
反対運動はおさまることなくお茶が次第に優雅な生活の象徴ではなく英国の圧政、自由の足枷の象徴になっていきます。
こんな中起こったのが、ボストンティーパーティー事件です。この事件に対し、英国政府はボストンを軍政下に置いてしまいます。
経済的断交を決議した翌年、独立戦争が勃発します(><)
英国はなかなかアメリカの独立を認めませんでしたが、フランスがアメリカ側を支援したことで渋々承認する形となりました。
憧れのシンボルであったお茶は、独立を引き起こすきっかけとなってしまい、アメリカ人のお茶離れも進むことになります。
本国英国でも茶税は他人事ではありませんでした。
独立戦争にかかる戦費は茶税という形として転嫁され、国内に出回る茶も大半は密輸入のものとなっていきます。
東インド会社にとってはお茶が売れないという問題がありましたが、政府にとっては税収が入らないというさらに深刻な問題になっていました。
リチャード・トワイニングの働きかけがきっかけとなり茶税は大幅に下がりました。
それに伴い、お茶の価格は下がり、消費が拡大し東インド会社が輸入する茶の量が増加しました。
これまで密輸業者に流れていたお金が国内にとどまることで自国が富み、トワイニング社は国民の信頼を得ることにも成功したのです。
ボーンチャイナの誕生
他国に比べると歩みが遅れた英国の陶磁器産業でしたが、人々の関心の高さは他国に負けるものではありませんでした。
中国が英国に対して制限貿易を始めたことから国内窯、特にボウ窯のボーンチャイナの改良が緊急の課題となりました。
その中で頭角を現したのがスポード窯です✨
白地にブルーの下絵で装飾する独特の技法を完成させ量産化に成功しました。
スポードの白磁はアーザンウェアと呼ばれ、火打ち石やコーンウォール地方の石または粘土を混ぜて焼いた素地に、牛の骨灰を混ぜることによってほぼ完璧な白磁に近づけることに成功します。
その後、息子のスポード2世はファインボーンチャイナという新しい素地の開発に成功しました。
のちのジョージ4世はこの噂を聞きつけボーンチャイナを視察し、一目で気に入りスポードのボーンチャイナを王室御用達に認定したのです💕
絵柄としては、当時の流行であった新古典主義のモチーフが多く取り入れられています。
*スポード窯由来のティーカップ
*スポード窯由来のティーカップ
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