伝説の工芸家ルネラリックの世界を見る(Rene Lalique)
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アンティーク食器専門通販取扱店
博多アンティーク店長の加寿美です(*^^*)
本日はルネ・ラリックがどんな工芸家でどんな歴史を辿って来たのか👀❓
その激動の歴史についてお話ししていきますね(^^)✨
◎伝説のガラス工芸家の1人 ルネラリック
フランス人のガラス製品、ジュエリーデザイナーであるルネ・ラリック(1860-1945)は、19世紀後半から 20 世紀初頭にかけてのアール・デコ、アール・ヌーボースタイルの最も優れたクリエイターのひとりとして知られています☝️✨
ラリックの作品は様式的にも技術的にも革新的で、個人所有用のもの、建築的なもの両方のガラス製品デザイナーとしての成功を導きました(*^^*)
今日ではラリックは花瓶やボウルなどの装飾的な作品で特に有名で、ラリック社は現在もガラス芸術作品とジュエリーをつくり続けています💓
1860 年4月6日、フランスのマルヌ圏にある小さな村、アイで生まれたラリックは、質素な生い立ちから世界でも名高いガラス工芸家になりました👀✨
フランス マルヌ
まだ赤ちゃんだった頃に、ラリック家はビジネスマンである、お父さんの故郷であるパリ郊外へ引っ越しました☝️
でも、夏休みにはよく、アイ村へ戻って、ラリックは自分の生まれた場所との絆を持ち続けることができました(^^)
早い時期からラリックは際立ったアートへの興味と才能を表していました💓
1872 年にチュルゴー・コレージュへ入学し、ジャスティン・マリーLequien に線画を学びました♩
コレージュ時代に線画で1等賞を取り、芸術的素質を証明しました(*^^*)
その後、Paris School for the Decorative Arts(パリ装飾芸術学校)で、ジュエリー制作を学びながら、自身のアートの勉強も続けました☝️✨
1876 年にラリックのお父さんが亡くなり、宝飾職人のルイ・オーコックに弟子入りします(^^)
装飾芸術学校は夜間コースに通いました👀✨
この見習い期間でラリックは本質的な制作技術を体験しながら学び、ジュエリーデザインに使う原材料の数々の採用を試みる無類の機会を得ました(*^^*)
オーコックのもとで2年過ごした後、ラリックはロンドンへ移り、サイデナム・カレッジで勉強しました📖✨
ここは、もともと 1851 年の世界博覧会の建物として設計された鉄とガラスの有名なCrystalPalace(水晶宮)の中にアートスクールとしてつくられました☝️
このときのラリックがイギリスへ渡った理由は明らかではありませんが、ニコラス・M.・ドーズは著書 ”Lalique Glass” の中で📖「その目標やコンセプトがすがすがしいほどにパリ社交界とは異なり、彼自身が明らかにより共感できるアーツ・アンド・クラフツ運動の発展したイギリスに引き寄せられたのかもしれない👀✨」と推測しています☝️✨
ニコラス・M.・ドーズ著書 ”Lalique Glass”
確かに、ラリック特有の自然主義的なスタイルの最初の兆候が表れたのはイギリス滞在中のことでした(*^^*)
プロとして初めての成功
1880 年にパリへ戻ると、ラリックは親戚の M. Vuilleret のもとでジュエリーデザイナーとして、さらに個人的にフリーランスのアーティストとしても働きました☝️💕
また、形式的なアート訓練を完了させるため、Ecole Bernard Palissy で Lequien のもと
彫刻と模型製作も学びました(^^)
早々に、カルティエ、ブシュロンなどの大手とジュエリーデザインの顧客契約を結びました☝️✨
ラリックは独り立ちの準備ができ、翌年制作を開始する小さなアトリエを 1885 年に開きました(*^^*)
ここで、当時まだ発達段階だったアール・ヌーボー様式に起因した独自のジュエリースタイルを制作したのです👀!
準宝石やエナメル、象牙、その他ハード・ストーンを使った作品で、特に有名になりました✨
左:ゴールドペンダント、ダイヤモンドとエナメル 1903年製
右:アイボリーペンダント、イエローゴールドと色ガラス 1900年製
ルネラリック ペンダント 「プリンセスファラウェイ」 1898-1899製
ラリックの成功は急成長し、1887 年にはもっとスペースが必要になっていました(^^)
もうひとつアトリエを借りて、両方で作業をしていましたが1890 年、30 人が働けるより大きな場所に制作活動をまとめました♩
彫刻家父子との共同作業で、ラリックはアトリエの壁と天井の装飾デザインをしました👀!
後年、ラリックはこの彫刻家の娘、オーギュスティーヌ・アリス・ルドリュと結婚します💓
この作業場保持中に彼は完全にデザイナーとなりました(*^^*)
女優のサラ・ベルナールなどの有名人のために作品をつくりました☝️
トニー・L・モーティマーは ”Lalique” の中でベルナールのひいきは「すぐさま国際的な評判を呼んだ価値ある商業資産だと証明した」と記しています✨
ラリックはまた、ジュエリーデザインにガラスを組み入れたり、香水瓶など小さな作品をつくるなど初めてのガラス製品にも進出しました☝️
個人的な出来事としては、1892 年に最初の子供、スザンヌが生まれました💕
1890 年代もラリックの大成功は続きます☝️
1894 年までに、アール・ヌーボー運動に名を貸したジークフリート(サミュエル)・ビングのLa Maison de l’Art Nouveau でラリックの作品が売られるようになりました(^^)
1897 年、サロン・ド・パリで象牙と角材のくしを発表し、エミール・ガレに「現代ジュエリーの創案者」と評されました✨
同じ年、ベルギーのブリュッセル万国博覧会に参加し、大賞を獲りました👑✨
この年の最期を飾るのはレジオンドヌール勲章(シュバリエ)の授章です☝️
1898 年、ラリックはガラス製品に向けた工房を立ち上げます(*^^*)
ガラスだけを使ったアイテムの実験期間は短命に終わりましたが、他の金属と一緒にしてガラスを使い続けました♩
ラリックは妻の家族に影響を受けたのか、銅を使い始めました👀!
世紀が変わるころには大きなパネルと浅浮き彫りのガラスピースの作品を制作し始め、よく銅のフレームを付けていました☝️
発達したばかりの製法に興味をそそられ、空洞の型を使ってガラスをどんな形にも鋳造しました👀✨
「ラリックはこのようなガラスの順応性のある特性に商業的な可能性があることを認めた」と書いています☝️
1900 年、パリの万国博覧会の展示は大成功しました(*^^*)
この後ライバルのジュエリーメーカーに自然にインスパイアされたデザインが多くコピーされていると気付き、ラリックはさらにガラス製品の制作に進んでいきました☝️✨
9 月には 2 人目の子供、息子マルクが生まれ、レジオンドヌールもオフィシエに昇進しました(^^)
1902 年、ラリックと家族は彼が特別にデザイン、鋳造した松の枝と松かさモチーフのフロント・ドアのある大きな家に引っ越しました🏠✨
ガラス製品への移行
フランスやヨーロッパ全域でのアート・ショーへの出品を続けながら、ラリックは 1905 年に有名なパリのヴァンドーム広場にジュエリーとガラス両方をそろえたお店を開きました✨
香水商フランソワ・コティの店の近所という立地から、1908 年ごろに幸運にもパートナーシップを結び、ラリックはコティの香水のラベルをまずデザインし、のちにガラスボトルのデザインも手がけました☝️
香水が伝統的でクラシカルな入れ物ではなく、ユニークで特徴的なボトルで売られたのは
これが初めてでした👀✨
ラリックのコティのためのデザインは、彼がその後もデザインを続けた当時の主要な有名香水の香りを呼び起こすものでした💕
ルネラリック 1920年製 Ci Galia ミニアートグラス 香水瓶
ラリックは、コティの市場の大きな香水のためにたくさんのボトルをつくるのに必要なだけの生産キャパシティを持っていなかったので、初期の香水瓶はラリックがデザインして、制作はルグラ社が請け負いました🏢✨
1909 年にパリから少しだけ外れた場所にラリックはガラス工場を開き、自分の気に入った demicristal のガラスを使ってラリック独特のスタイルをより表現できるようになりました(*^^*)
しかし同年、大変な悲しみも彼を襲いました(*_*)
妻、オーギュスティーヌ・アリス・ラリック‐ルドリュが亡くなったのです・・・💦
1911 年、ラリックは決定的にジュエリーデザインからガラス製品へと転換し、ガラス製品のみに特化した最初の Salon de la Société National des Beaux-Arts へ出品しました☝️✨
次の年、フランスの上流階級向け住居やニューヨーク5番街の Coty Building のための
ドア、窓、内装を含む建築的なものをデザインしました(*^^*)
1914年の第一次世界大戦の開戦とともに、ラリックの生産高は純粋な装飾品から病院や
薬局で使うガラス製実験用具という実用的なものも含むように変化しました☝️
戦後、ラリックは彼の作品に高い需要があることを知り、1921年に大規模なガラス工場 Verrierie d’Alsace René lalique et Cie をフランス東部のヴィンゲン・シュール・モデールに設置しました(*^^*)
この工場は今もラリック社が使用しています👀✨
ルネラリック 1920年製 香水瓶
国際的に尊重される1925 年、パリの Exposition des Arts Décoratifs でラリックはアール・デコ様式をあらわしたガラスの装飾品の数々を展示しました♩
このアール・ヌーボーより写実的でないスタイルは 1925年の博覧会以降とても人気になり、ラリックは自分の既存のスタイルを新しいアール・デコのテクニックにうまく混ぜ合わせていきました💕
この時代ラリックのガラス製品はフランス全土で見られるようになり、もちろんアメリカ、イギリス、アルゼンチンなど他の国のお店でもラリックの作品が取り扱われました☝️✨
ラリックの名を特に有名にしたのは、1926 年に大量生産が開始されたつや消しガラスの花瓶でした✨
ルネラリック 1925年製 アートグラス ユーカリの花瓶
彼のガラス製品は、当初こういった小ぶりであまり高価ではないものでしたが、時にはフランスの高級遠洋定期船の内装や装飾品、フランス中の教会の窓、世界的に有名なヨーロッパを走る豪華列車のベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスの食堂車などの大きな作品のデザインもしました👀✨
ルネラリック 1927年製 Rampillion花エッチング オパールブルー 花瓶
1920 年代後半から 30 年代初頭にかけて、ラリックはカーマスコットのデザイナーとしても名を馳せました(*^^*)
現代的なボンネット・オーナメントの先駆け、カーマスコットは車のラジエーターのキャップ部分に取り付けられる小さな装飾でした☝️✨
当時は、ねじぶたの金属製アタッチメントで取り付けるか、エンジンカバーにボルト付していました♩
ラリックが初めてマスコットのデザインを手がけたのは1925 年、フランスのシトロエン社用でした(^^)
その後、数年に渡ってベントレーやロールス・ロイスなどに 27 種類のカーマスコットを制作しました🚗✨
マスコットは文鎮としても使われ、ラリックの典型的な自然に関したデザインは、バッタ、クジャク、ワシ、カエルなど動物をかたどったものが多かったです(^^)💓
自動車会社が自社のロゴをカーマスコットとしてデザインするようになると、ラリックはマスコットを別の用途、文鎮やブックエンドとして生産するようになりました📖
主に小さなガラス製品を生産し、時々大型の、依頼された作品に乗り出すという方向を1930 年代も続けました👀✨
これら大型の注文というのは、パリのシャンゼリゼに置く噴水、アメリカのデパートの設備、旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)へのデザインがありました♩
まだジュエリー制作も少し続けていたラリックは 1931 年にカボションの指輪をデザインしました☝️✨
1935 年、パリのロワイヤル通りにお店をオープンし、ここは今でもラリック社のオフィス、フラッグシップ・ストアとして機能しています(*^^*)
第二次大戦とラリックの遺産
ラリック製品は非常な人気を誇っていましたが、ウィンゲン・シュール・モデールの工場がドイツ軍に侵略された 1939 年に会社は操業を停止しました・・・
地域がドイツの支配下にあったため、1945 年までガラス工場は閉められたままでした(*_*)💦
不運にも、ルネ・ラリックは戦後の工場再開を見ることなく、ジュエリーとガラス製品において実りの多い成功した人生を送った後、1945年 5 月 9 日に 85 歳で亡くなりました・・・
でも、ラリックの死が会社の終了に結び付く訳ではありません☝️
1945 年の後半にラリックの息子マルクがウィンゲン・シュール・モデール工場を再開し、
新たな作品がデザインされ、新しく、より鮮明な形態のガラスが使われました✨
マルクの娘、マリー=クロード・ラリックが 1956 年に働き始め、1977 年、父の死によりガラス工場の長となりました(^^)
今日も、ラリック社は世界中の販売店で扱われるガラス装飾品とジュエリーの制作を続けています✨
ラリックオリジナルの世紀の変わり目あたりの作品はニューヨークのメトロポリタン美術館やパリのオルセー美術館、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館といった世界的に有名な美術館で見ることが出来ます👀💓
【ルネラリック専門ショップ 博多マイセン】
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「今年こそ、ルネラリックを購入したい
でもなあぁ、通販で商品を購入するのってちょっと
不安だし〜う〜ん
イメージと違かったらどうしよう〜」
こんな不安って皆さんにもあると思うんです👀✨
私はこんな不安がありながらも、でも通販って便利だし
辞められないんですよねぇ
私も初めてのネットショップで購入する時は
『ちゃんと届くのかなぁ』
と心配になります!
貴方のそんな気持ちとっても分かります
そんな貴方にも
安心して楽しくお買いものをしていただきたい
その想いから、当店では
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