フランスのガラス工芸家 ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)の歴史 アンティーク照明(ランプ)の代表
目次
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)専門通販取扱店
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)ショップ店長の加寿美です。
この内容は第一次世界大戦を境に前編と後編になっています。
1866-1914年 カルハウゼンからリュネヴィルへ
1865年7月11日、モゼル東部に位置する都市カルハウゼンにて
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)の両親となるニコラとアン・マルグリットは結婚します。
父ニコラ・ミューラーはオーベルジュを営んだ後、肉屋の主人となります。
その後ミューラー夫妻はクリスタルとガラスの都、ペイ・ド・ビッチュで暮らしていました。
1866年11月16日、夫婦の第一子となるエミールが誕生した後、17年もの間次々と
子供に恵まれ、11人の子供を授かることとなります。夫婦の子供たちの9人の男子
(四男オーギュストは生後15ヶ月で亡くなる)は、サン・ルイやマイゼンタールなどの
ガラス工場が身近にある環境で育ち、兄弟は芸術家やガラス職人、科学者の道に
進むこととなるのです。
しかし、1870年の普仏戦争により、彼ら一家の住む町はドイツ領となります。
ドイツでは17歳になった男子に兵役の義務が課せられるため、この兵役義務を逃れるように
ミューラー一家は長男が16歳になる頃に国境を越えナンシーへと向かいます。
彼らなぜナンシーへ移住したのかといえば、ナンシーはフランスとドイツとの国境近くにあり、
ドイツからの移民が絶え間なく押し寄せる都市であり、ナンシー派の創始者エミール・ガレの
本拠地である経済的に裕福な都市だったからです。
ミューラー夫妻の息子たちはそれぞれガレ、ドームやバカラなど、ナンシー各地のガラス工房で働き、
経験を積んでガラス工芸に必要な技術やセンスを身につけていきます。
自分のアトリエを構える夢を持っていた、兄弟の中で最も積極的なアンリと
冒険心旺盛なアーティストだったデジレは、1895年にナンシーを去りリュネヴィルへ向かいます。
そして、ガレの工房で下積み時代を経たアンリ、デジレ、ユージーンの3人は、
1908年以降、彼らのガラスの「芸術」を実現させていくのです。
1895-1914年 サント・アンのアトリエからクロワマールの工場へ
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)はガラス工芸品の流通を目指して起業します。ガンベッタ通りに
オープンした会社では、工場や会社としての施設の他にも、陶器など工芸品の
オークションのための展示場所も調えました。
それでも、他のナンシーのガラス工場との競争に直面しましたが、
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)の製品は確かな品質を保ち続けました。
ナンシー派特有の「自然への眼差し」をインスピレーションの源とし、技法、素材やフォルムに
おいても、他の工場に引けを取ることはありませんでした。
またそれだけではなく、
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)独自の作風、自由なインスピレーションは目に見えるものよりも
強く感じるものを表現しています。
ここで、「サイン」についてちょっと紹介しておきます。
1895年から1914年に記されたサインは多様で、製品モデルごとに数多くのサインが
記されました。さらに付け加えますと、サインの無い作品は1952年まで製作されており、
そのため、ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)の作品の鑑定は困難を極めます。
また、ミューラー兄弟の作品にはときどき一文字でサインが入っていることがあります。
例えば、デジレの「D」、ユージーンの「E」、そしてアンリの「H」という風にです。
いずれにしてもこの頃のミューラー兄弟の作品は、工業製品としてではなく芸術品として
ナンシーの他のガラス職人にはない独自性があらわれています。
例えば、幾重ものガラス層を重ねる技法、特別な彫刻技法などを用いて独自性を強めているのです。
そのため、この時期の作品は芸術性が高く、希少です。
この時期の作品は、1898年にディジョンで開催された展覧会で金賞を受賞し、1900年開催の
パリ万国博覧会で多数の賞を得るなど、名だたる賞を独占しています。
それはフランス国内のみならず、他のヨーロッパの国々でも同様に賞を得ました。
このように、彼らのガラスの妙技は多くの人々を惹きつけてやみませんでした。
色彩とグラデーションを極め、あらゆる工房の多種多様な技法を取り入れる優れた技量を持ち、
たゆまぬ努力でさまざまな技法を常に向上させていったのです。
あくなき技術への探究心を持ち、完璧を求め続ける、それこそがミューラー兄弟が天才たる所以なのです。
1905-1908年 ベルギーでのこぼれ話
1905年、アンリをクロワマールに残し、デジレは妻と共にリエージュの程近くにある
ヴァル・サン・ランベールへと向かいます。
実は、デジレに関しては今なお解き明かされない謎があるのです。
ベルギーに移民した記録はユージーンのものしか残されていません。
しかし、ヴァル・サン・ランベールで製作された作品にはアンリ・ミュラーのサインが
記されているのです。アンリのデッサンを元にデジレかユージーンが製作した
ということなのでしょうか。真相は謎に包まれたままです。
そして、ヴァン・サン・ランベールの統治者は、1905年にリエージュで開催された展覧会で
大成功をおさめたドームと張り合うため、ミュラー兄弟を雇い入れることを決定します。
ベルギー時代の3年間、デジレと兄弟は特に花瓶に力を入れつつも、灰皿から照明まで日常用品の
さまざまなオブジェを製作します。その数は411モデルにものぼりました。
1909-1914年 リュネヴィルへの帰還
1909年、ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)はリュネヴィルへ戻った後、アトリエを構えて自身の製作活動に没頭します。
彼らの製品の工業流通化に取り組む一方、ランプやテーブルライトなどで光の色彩を追求していきます。
ミューラー兄弟は(Muller Freres Luneville)数々の栄誉ある賞を受賞して成功をおさめ、1914年までには他の追随を許さない
存在へと上りつめていったのです。
1914-1918年 第一次世界大戦での苦難
1914年に起こった第一次世界大戦は兄弟のガラス工場に空白の期間をもたらします。
ほぼ全ての工場は戦争のために転用されるか、閉鎖されました。
クロワマールの工場はドイツ軍により略奪され、フランス軍が領土を奪還する前に
ただの倉庫に成り果てます。
見捨てられた工場は廃墟になってしまいました。
また、ユージーンは戦闘初日に死亡してしまいます。
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)復活への道のり
1920年、第一次世界大戦が終結後に、ミューラー一家のうちのピエール、
オーギュスト、エミールはクロワマールへ帰還します。
1919年と1920年はミューラー兄弟にとって、生涯最も重要な年となります。
アンリとデジレは、ガラス製品の製作再開を決心するのでした。
彼らはクロワマール産のガラス製品とクリスタル製品を製作しはじめます。
戦争によりガラス工場は損傷してしまったことを機に、ミューラー兄弟は工場の
修理をするとともに設備の近代化を図ります。
また同時期には、アンリとデジレは彼らの造形や彫刻技術を
社会の中で確立することを目指し、リュネヴィルにて起業し、
「La Verrerie d’Art Muller Freres」(ミューラー兄弟のガラス工房)を設立します。
そして、戦時中に亡くなったユージーンの記憶を胸に刻み、彼らは作品に
「Muller Freres Luneville」(ミューラー兄弟、リュネヴィル)とサインするようになります。
このミューラー兄弟の製品マークは家族のしるしとして1952年まで記され続けるのです。
その後、ミューラー兄弟を大文字の「F」1字で表したマークが用いられます。
苦難はあったものの、ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)の人生は前途有望でした。
その才能、芸術的な感性は彼らの工場で働く職人たちの経験として結実します。
この職人として受け継がれるノウハウこそが、ミューラー兄弟の成功の鍵となるのです。
自身の名前(Muller Freres Luneville)でデビュー
1920年、最初の作品がアトリエで製作されます。
作品には「G.V. de Croismare」(クロワマール産高級ガラス製品の意)とサインが記されます。
このサインは色彩が限られ、工業化された次の製品シリーズにも記されるようになります。
このサインが記された製品は、1932年までカタログに掲載されています。
当時このサインはコップ類に記され、ホテル、レストランや居酒屋で普及したため、
「Muller Freres Luneville」のサインよりも知名度が高くなります。
この他にも、卓上装飾の水盤や不透明な花瓶は彼らの製品になくてはならないものでした。
成形はクロワマールで行われ、彫刻はリュネヴィルで行われました。
リュネヴィルにある型の造形工房は、彼らの芸術が創造される拠点といえます。
デジレの管理下のもと、オリジナルの作品が製作され、シリーズ化となります。
1923年には、ミューラー兄弟はリュネヴィルに新たな彫刻工房を建設します。
そして1920年には200人だった職人たちが、1925年にはその数350人を超えるようになります。
数多くの注文に対応するため、成形や彫刻技術を持ったイタリア人を臨時雇用するようになりました。
臨時の雇用者に宿泊場所を提供するため、ミューラー一家は集合住宅地を建設します。
集合住宅の建設は、当時多くの雇用者をかかえる鉱山や炭坑のオーナーが行っていましたが、
ミューラー一家の設立した集合住宅地には、雇用者やその家族のために52軒もの住宅が
立ち並んだといわれます。
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)の役割分担
アンリが工場近くの城を住処とする一方、デジレは彫刻工房の近くに建てられた一軒家に居住します。
アンリは彼自身の創作活動に見切りをつけて、経営や取引業務を担当します。
クライアントや納入業者との商業取引を円滑に行うため、得意先を
アルザスでの狩猟に招待します。
交渉相手の他に、友人にもこうした招待を行うようになります。
デジレはクリエイター、デッサン、造形などプロダクションのスーパーバイザーとしての役割を担います。
彼は芸術面でコンセプトに合わない製品をためらいなく壊し、完璧を追求しました。
工場で製品化が進む段階だとしても、気に入らない製品は生産中止にするなど、
そのこだわりは貫かれていました。
この完璧を追求する姿勢は、彼の強いこだわりの内のひとつでした。
その他の兄弟たちは芸術面や経営面の難点への対応で忙しく活動していました。
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)の製作方法
ミューラー兄弟の製作は、3つの主軸からなります。
その3つとは、工業製品、職人技の工芸品や特別な用途をもった製品
(企業のショーウインドウやノウハウのデモンストレーション用)の製作、
コップ類(足付きグラス、カラフ、ジョッキなどレストランで使用する製品)の製作、
そして、ガラス時計工場のためのガラス玉の製作です。
彼らは、曇りガラスのオブジェの製作技術にたけ、彼らのパート・ド・ベールの技法
(耐火性の型の中にガラスの細粒をつめ、加熱焼成するガラス器物の成型法の一つ。
素材の用い方により、色彩・文様・透明度など自在の調整が可能)は容易に
他社の製品と見分けることができました。
1923年までに、照明器具、花瓶、杯はミューラー兄弟の主力製品となります。
1925年から、パリ、リヨンやベルリンなど大都市にある百貨店の顧客を対象に、
彼ら自身の工房の広告記事を発信するようになります。
彼らが用いた曇りガラス技法は、二層の間の顔料の層を閉じ込める技法を可能にしました。
この技法により、これまで最終的なフォルムを決定づけていた、吹きつけによる成形や
ガラスが熱いうちにディテールを施さなければならなかった作業に集中する必要がなくなり、
ガラス工芸はさらに芸術的に、そして自由なものへと変化してゆくのです。
そして、1935年までリュネヴィルでミューラー兄弟は製作方法を追求していきます。
それは、製作過程を半分工業化し、多層のガラス地に彫刻を施した製品を製作するというものでした。
その装飾方法は多岐にわたります。
ヴォージュ山脈、フランドル地方、ブルターニュ、アルプス山脈、
そして北アフリカや中東などの風景、またダンサー、水浴する人々、羊飼い、森の中の場面、
牧神や春の女神といったテーマが描かれました。
そして、1925年から1927年にかけて、百貨店プランタンのブランド、「プリマヴェーラ」などの
有名な販売社と協力して、ミュラー兄弟はその当時大流行したアールデコに参入するのです。
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)はパリに彼らの製品を保管する倉庫を建設しました。
その倉庫ではアメリカや中東、フランス領の国々に輸出するガラス製品が保管されました。
ミューラー兄弟の工房は、世界で最も著名な金具職人のうち幾人かを輩出しました。
ミューラー兄弟(Muller Freres Luneville)の製作する照明器具にそれら金具職人たちのサインが併記されていることも
少なくありませんでした。
デジレはその自由な想像性で常に目覚ましい活躍をし、新たな流行の波もリードしてゆきます。
その一方、アンリは製品の採算が取れる製造手段を探求しました。
アールデコの幾何学的なモチーフ、直線的なフォーム、そして様式化された装飾は、
ガラス製品製造の機械化と完璧なまでに融合します。
そしてミューラー兄弟は、圧縮鋳型による製造を開始するのです。
【ミューラー兄弟専門ショップ 】
安心の交換・返品保証サービスを承ります。