エミールガレ emile galle アールヌーボーの巨匠の歴史

目次


『アール・ヌーヴォーの巨匠 エミール・ガレ』

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1999年、それはナンシーの街が、一年を通して、

ナンシーの街の歴史上最も生き生きしていた時代を褒めたたえようと、

街全体で力を尽くした年でした😀

このロレーヌ地方の人材やノウハウを活かした芸術的なムーブメントの祝典に、

ナンシー市内の中心部だけでなく、周辺の他の街も加わりたがったほどでした。

 

 

ここで、ナンシー派の指導者やそのライバルたちによって

48を下らない展覧会が開催されたのです。

世界中の美術館や名高いプライベート・コレクションから出品された、

最大規模の作品群を鑑賞することができたこの展覧会は、

75万人以上の来場者を集めました❗️

 

展覧会の主催者が強調したのは、作品の並外れた多様さです。

ガラス工芸、陶器、工芸家具、彩色ガラス。

鉄工芸、木工細工、織物細工、革細工に、なめし革製品、装丁や金銀軸、

宝飾品、刺繍、捺染(プリント)、写真、グラフィック・アート・ポスター。

これらの様々な工芸品が、ナンシー派の巨匠たちが推奨する

この寛大な「諸芸術の統合」の中で、

建築、彫刻、絵画、版画と隣り合っていました。

 

 

こうして、訪れた人々は、

ロンドン、パリ、ブリュッセル、バルセロナ、グラスゴー、ウィーン、ベルリン、ミュンヘン、ワイマール、ダルムッシュタット、

さらにシカゴ、モスクワ、チューリッヒ、ブタペスト、パルレモ、

リガあるいはヘルシンキで誕生した

「生活」というすべての芸術と建築の修復による数々の場所をめぐる中で、

ナンシー派が最も重視していたものを生き生きと捉えることができたのです😊

 

 

芸術活動に関してヨーロッパ随一の観察眼を持つ人々が見誤ることはありませんでした。

例えば、ドイツのすぐれた芸術批評家だったユリウス・マイヤー=グラーフェは、

ナンシーは、フランスで最も重要な芸術産業の中心地だと見なしていましたし、

その時代の最も才能があり、多才な芸術家の一人だった

ベルギー人のアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデもまた、

彼が出した独自の造形的な答えとナンシー派が見出した答えには

明らかな違いがあったのにもかかわらず、

1894年にはすでに

「この世紀の終わりに起こっている重大なことを知りたいものは皆、ナンシーへ旅に出る」

と断言せざるをえませんでした。

 

同じ年、ヴェルデの同郷人であり、かの有名な「20人展」を主導したオクターブ・モースは、

『アール・モデルヌ』誌に躊躇せず次のように書いています。

「同時代の芸術活動に決定的な影響を与えている都市、そればロレーヌだ。

エミール・ガレ、カミール・マタン、ヴィクトール・プルーヴェという

この多くの天才たちがいるのはナンシーだ。

装飾芸術のルネッサンスの朝の鐘を鳴らすのは、ナンシーである。」✨

 

 

ガレがもたらしたナンシーの新たな黄金時代

 

 

19世紀の最後の三十数年は、

ナンシーが特別な歴史的情勢の恩恵を受けた時代でした。

1866年の、フランスとロレーヌ公領の併合百周年に見られるように、

ナンシーは、大規模な人口増加とロレーヌ地方全体に多分な利益をもたらした

産業革命による経済的な成功によって出来上がった

楽観主義に浸っていました😊

 

ですが、5年後、普仏戦争の劇的な結末によって、

つまりスダンの軍事的な敗北とフランクフルト条約の措置

〔アルザス・ロレーヌ割譲と50億フランの賠償金〕が、

逆にこのロレーヌ地方の発展を大きく加速させていくことになります。

 

パリジャンの中央集権主義に時折苛立つこともあったナンシーの街は、

独立国〔ロレーヌ公国〕だった数世紀を経て、国境の街となります。

以降、ナンシーの街は、自信を持って経済的な、知的な中心地となり、

さらにはフランス東部の軍事的な中心地にもなっていくのです。

そして、「科学と芸術のスダン」を打ち負かそうと躍起になっていきます💨💨

 

 

これは、ナンシーの街がもともと持っていたエネルギーに、

併合されたロレーヌやアルザスの生き生きとした力を

加えることになりました。

というのは、

ナンシーは、フランスに残ることを選択した得難い人々を迎え入れたのです。

 

その人々とは、

非常に優秀な従業員を抱える実業家や、知識人、学者、商人、

エンジニアや芸術家など、

非常に貴重な技能を持ったほぼすべての分野の職人たちでした😳

行政、軍事、大学、商業、工業、金融に潜在的な能力の高まりとともに、

1866年には人口4万9000人だったナンシーの街は、

1910年には12万人となります🌟

 

この数十年で、

ナンシーは、多数の市民のための建物や宗教的な建物を建て、

多くの新しい地域を作り出す巨大な工事現場となりました。

すべての工事現場で、驚くべき能力を持った大量の芸術家と職人が働いていました。

 

 

同時に、”生活”という芸術から生み出される、あらゆる家具調度の品々、

つまり家の設備に対する需要は、

贅沢品であってもずっと質素なものであっても、上がり続けました🤗

過去に公国の首都であったナンシーの街は、

まず17世紀に、街の画家や版画たちが、イタリア、公国の宮廷だけでなく

フランスの宮廷で強烈な印象を残しました。

次に、18世紀には建築家エマニュエル・エレ〔スタニスラス広場を設計〕を中心に、

あらゆる工芸家が、画家、彫刻家、装飾家、鍛冶職人、石工、左官、家具職人、金めっき工、金銀細工師が、卓越したまとまりを持って、

今日、ユネスコの世界遺産に登録された都市計画と建築物の傑作

〔スタニスラス広場、カリエール広場、アリアンス広場〕の創造に寄与しました。

 

そんな「黄金時代」を今一度、新たに作り出したいという街の野望に応えるかのように、

すべてが整っているように見えました✨✨

 

 

創造的エネルギーと経済的繁栄

 

 

この時期に、火の芸術(陶芸)がもっともまばゆい輝きを経験しました⭐️

ロレーヌの陶器は、王国一美しいと評判でした。

ガラス製造の職人の仕事は、はるか昔からもっとも栄えた産業のひとつでしたが、

この時期にまた並外れた発展を遂げることになったのです。

 

 

シャルル・ガレ、オーギュスト・マジョレル、ジャン・ドームといった

「父親世代」のパイオニアたちが、次の世紀にナンシーや「大ロレーヌ」の諸都市を

商業の生産・販売の地とすることができたのも、

この時期の陶芸家たちが高い評価を得ていたおかげでした。

 

経済的な繁栄と創造的エネルギーが立ち込める中で、

ナンシー人の過去に打ち立てた栄光を取り戻したいという野望が、

ナンシー派が現れる一つの原動力になったといえるでしょう😼

装飾芸術の分野での輝くばかりの成功、この奇跡は、

何よりもまず「この運動の精神であり信仰」であったエミール・ガレが

天才的な人であったから得られたものです。

 

 

1900年5月17日、ガレは、「象徴的装飾」と題して、

自然、科学、詩、そして救済の美に対する真の信仰を告白した

エミール・ガレの入会講演を行いました。

それに対し、画家であり実業家でもある、

アカデミー・ド・スラニスラス会長シャルル・ド・メスモロン・ド・ドンバールが

下した判断に、意義を唱えようなどとは誰も夢にも思わないほど、

ガレがその時期に果たした役割というのは大きなものでした。

 

 

メスモロン・ド・ドンバール自身、ナンシーの文化界で重要な地位を占め、

尊敬と敬意を集めていましたが、

その彼が、ロレーヌが芸術において輝かしい栄冠を得たのはガレのおかげでした👏

ガレによって美術産業はただ一新したのではなく、

元あったものを改良して刷新しました。

 

ロレーヌに推進力が与えられ、その推進力が、

新しさに夢中になったすべての国に瞬く間に広まったのは、

ガレのおかげだと彼は考えていました。

 

「貴殿の果たされた仕事の数とその多様さは数え切れるものではありません…。

その驚くべき労力がナンシーの装飾芸術の発展の、

まさに歴史を作ったのであります。」

 

 

ナンシー派-ナンシーの職人の自律を守るための組織-

 

 

ガレが確固たる意志で守り続けようとしたのは、

ロレーヌ地方やナンシーの街に実際に深く根付いていたものでした。

ロジャー・マルクスはガレについて

「享楽家、教養人、そして博識家への溢れる思いやりとともに、

彼は無限の郷土愛を持っていた」

と言っています。

 

 

1901年、一般にナンシー派と呼ばれる地方産業美術協会を創設したガレは、

何よりもまず、オリジナリティと独立性を守ることを大事にしていました👍

彼はナンシーの街を

「芸術の原理としても、産業の死活問題に関わる原理としても、

完全な自律を求める地方」にすることを心から願っていました。

 

 

1904年、

ナンシー派と美術友の会との共催により、

数週間前に亡くなったエミール・ガレを讃えて、

ギャラリー・ポワレルで大きな展覧会が開かれました👑

 

その際、ナンシー派委員会は、1894年に同じ場所でもう一つの展覧会で行った

〔装飾美術展、ナンシー市装飾美術館のもとになる〕という宣言を

誇りをもって思い起こそうと訴えました💨

 

 

エミール・ガレの後継者で、エミール派の会長はこう宣言しました。

「(この展覧会は)芸術家と職人を結びつけ、極めて稀なことに、

パリを源泉としない憧れや発想を表明した。

 

一地方だけで立派にやってのけ、自分たち自身の力と伝統のうちに、

真摯さ、大胆さ、分別を見出し、

それらが一度ならぬ障害から自分たちを救うことになること

を確かめるのは喜びだった」。

 

ヴィクトール・プルーヴェは、

他の地方の中心都市にも類似の団体を作りたいという

ガレの高潔な野望を引き継ぎ、誇らしげにこう述べました😉

 

「地方でも素晴らしい手本となれる。なんたる勝利、なんとありがたいことか!」

 

ポール・ペルドリゼは次のように書いています。

 

「ヴィクトール・プルーヴェにとって、

ガレは、少年時代から愛情と尊敬という強い絆で結ばれた存在、

正確には、師匠と言うよりも、興奮と刺激を与えてくれる存在でした✨✨✨

 

ガレは、芸術は広大なものであり、いわゆる芸術はそのひとつであること、

すべてに、壺にさえ芸術は存在しうること、

芸術というのは、人間の力で生み出されたものであれば

何であれ改良し美しいものすることができる、

感じ創造する方法だという確信を持っていました。

 

そうした彼の確信を通して、プルーヴェは、

ガレに対する憧憬の念を深くしていったのです。

[このペルドリゼの指摘は、ガレに対して本物の敬愛の念を抱くすべての芸術家、

職人、芸術に関わって働く者に当てはまります]。

 

つまり彼の信念とは、装飾美術の正当性、むしろ必要性です。

あるいは、たったひとつの専門分野に閉じこもるのでも、

画家や、彫刻家、彫り師など、何かひとつだけになりたいと思うことでもなく、

真の完璧な芸術家ならば、そのすべてになりたいと思うべきだということです……。」

 

 

その上、パリの美術学校を出て、

ナンシーの創造性溢れる雰囲気に引き寄せられて、

ナンシーに戻ってくることを決めた若い工芸家、建築家、画家、彫刻家たちの多くが、

ガレの人柄や手本とすべきその行動に魅了されました。

 

彼らは、装飾家、陶芸家、鍜治職人、装本師、家具職人となって、

美術産業に典型的な職業モデルを体現するだけに留まらず、

-社会的地位が下がるとは考えず-、

躊躇なく複数の職能を持つ職人になろうとしました🔥

 

 “仕事中毒(ワーカホリック)の夢想家エミール・ガレ

 

 

この著作で、今なお世界中で多くのファンの間で取引されるガレの作品の詩的な力、

影響力、いわばカリスマ性の妥当性を証明したのは、

フランソワ・ル・タコンの大きな功績です。

 

これまでガレについて隠蔽されたり、婉曲されたり、

あるいは過小評価されてきたことにこだわり、

タコンは、ガレのあまりにも短い生涯を、

膨大な研究を通して誠実に再構築しています。

 

 

エドゥアール・ブールに言わせれば、

 

ガレは「傑出した人物で、彼には誇り高さ、絶対的な誠実さがあり、

その生き方には非の打ち所のない正しいがあった」男。

 

また彼は、ダーウィンの著作とゲーテの自然哲学に育まれたその科学的思考を持つ

「一流の学者たちのレベルにあった」自然主義者でもあり、

正義と人権、愛国者とドレフュス派のために戦う、

抑圧されたすべての人の勇敢な擁護者。

 

ジャポニズムを解し、一流の学者や文学者、音楽家たちの尊敬と、

さらには友情を勝ち取った創造者(クリエーター)、

日常生活の装飾を刷新する使命のために身を捧げ、

芸術創作が等しく尊いことを説き、すべてに芸術があり、

すべての人の手に届くところに芸術があることを望んだ精神的指導者。

 

ユーゴー、ボードレール、ヴェルレーヌ、そして象徴主義作家たちの

作品を愛した詩人、盗作や競争という過酷な問題に立ち向かう芸術家であり製造業者、

発行者、そして販売業者でもあった明敏な経営者、

木々や植物に詳しく経験豊かな植物学者。

 

どこよりも閉鎖的なパリのサロンに迎え入れられた社交人、

仕事中毒(ワーカホリック)の夢想家、

肉体的に虚弱で、病に蝕まれながら、

並外れたエネルギーで洗練された傑作を作り続けた男🌟🌟

 

 

一見矛盾する多くのキャラクターがガレの中で同居していて、

彼の才能やガレが発揮し得た魅力を生み出す原動力となっているのは、

まさにガレのキャラクター全てが調和しているからこそなのです。

このことを、個々の読み手が気づくには、本著作での長い探求、

その忍耐強く、注意深い、知的な分析が不可欠でした。

 

さまざまなキャラクターすべてが相互に混じり合い影響しあって、

生涯にわたり次第に熟成され、もっとも豊かな作品を生み出して

見事な開花を果たしました🌺🌺🌺

 

ロジェ・マルクスは言います。

 

「このような至宝は、いかなる文明からも生まれ出なかったし、

それ以上に精神に果てしない夢の扉を開くだけの力があるものを私は知らない」

 

 

知覚の神秘と人間の運命

 

作品は、全ての輩出されたものの ”昇華物”といえますが、

感覚、感性、感情、夢、創り手の魂そのものが昇華したものでもあります💫

自然主義車の科学は、拡大し強固なものになればなるほど、

アンドレ・キュヴェリエが言うところの神秘主義へと向かっていきます。

 

キュヴェリエは、ガレを

「感覚と人間の運命の神秘に—それが命がけのものであっても—近づこうとする者」

だとみなしていました。

 

ボードレールの愛読者であったガレは、

自然という、あの「荘厳な寺院」、「厳かな言葉」を

もっとよく感じ取り、理解することができるようになり、

それを吸収し、形や素材、色や、色調、艶や透明度を変えることができたのです。

 

化学者にして錬金術師、ガラス職人にして宝石細工職人だったガレは、

新しいやり方や組み合わせを発明して、

物質が持つ無限の可能性に対する信頼を大きくしていき、

度々、偶然に得る幸運なサジェスチョンを糧に彼の想像力を大きくしていったのです。

 

マルラメは「言語の限界」を見出しましたが、

工芸品、たとえば花器は、

「夢のように壊れやすいが、思想のように破壊できない」ものです

 

工芸品は、偉大な巨匠たちの絵画と同等のものなりたい、

放射線と同じように広がる力を手に入れたい、

音楽のように、われわれの感覚や思考、感情に同時に訴え、

「幻想と芳香」という歓喜を与えたいと言った、

正当な野望を育むことができるのです🔥

 

ポール・クローデルの「病人ノ夢」〔芸術論集『眼は聴く』〕は、

私の主張を確かなものにしてくれます。

 

「実際、花器は、それをじっと見て、

周囲を見ないようにするだけでは不十分であって、

花器を手にとり、両の眼だけでなく、

10本の指先の感覚で捉え、それを理解し、手で触れ、味わい、

その量感を感じ取ることが必要である。

来る日も来る日も、どこか人里離れた場所で、

夜警の感覚を分かち合うべきである……。」

 

こうした芸術作品の豊かさに到達することは、

ガレにとっては最終的なご褒美ではなく、

「メジャー」と言われる芸術と「マイナー」と見なされることを

頑固に拒否する芸術の間の平等を説く、

疲れ知らずの伝道者の、長い探求の光り輝く帰結だったのではないでしょうか?

 

 

協力者たちの才能がガレを天才にした

 

 

ここで、もう一つのうっとりするような奇跡について話しましょう。

それは、ガレとその協力者たちとの共生関係のことです👬

 

ガレ自身が果たした貢献がたとえ過小評価されたとしても

「私個人の作品はとりわけ、思いやりあるいは冷酷な役割の結晶となることを夢見ることにあるのです」)、

ガレはつねに、共同制作であることや協力者たちそれぞれの功績を際立たせること、

彼らの名前が万博の受賞者リストに記載されることを望んでいました。

 

ガレは、企業主としては、生産性や労働の質、製法上の秘密の保持、

収益性(つまり企業の存続)に入念に留意しなければなりませんでした。

ですが、ガレの高潔で絶対的に誠実な人柄、その才能の感化する力、

正義感、一人一人への気配り、美術産業に実直な職人仕事を残していこうという意志、

ギルド的美徳、素材(マテリアル)との感情的な結びつき、

これらこそが、ガレに皆からの尊敬と賛同を得られる理由でした。

 

 

そうした皆から賛同が、他の何よりも不可欠だということがわかるでしょう。

なぜなら、ガレは、デザイナーでも鋳型製造工でも、

吹きガラス職人でもグラビュール職人でも化学技師でもなく、

工芸作品を構想し実体化するすべての局面を

掌握し統制することができなくてはならないかったからです。

 

それはつまり、ガレの頭のなかで構想しているオブジェ、

頭の中の理想的なイメージと音楽であるそのオブジェの造形的なクオリティと

詩的な力を完全に保ち続けることなのです。

 

この天才的作曲家兼オーケストラ・マスターは、

名演奏者たちとの最大限の同意を得ることが必要であり、

一方名演奏者たちは自分たちの才能が

つねに完璧の極みまでいざなわれることが必要だったのです。

 

それには、オーケストラ・マスターが、彼らを納得させ、

魅了し、ひとりひとりが身につけた能力や感受性、

そして知性を総動員させるだけの信頼性と

カリスマ性を持っていなければなりませんでした。

 

 

引き換えに、ガレからの信頼を得たガレの協力者たち。

協力者たちの腕前が発揮された技術が果たした偉業とともに、

ガレの強い情熱が彼の夢と野望の水準を引き上げ、

例外的なレベルでの感性の一致や繊細さを極めた

芸術的共犯関係を作り上げることができたのです🤗

 

フランソワ・ル・タコンが

「ガラス工芸史上、そしておそらくは家具調度の歴史においても最大の傑作」

と考えている、ベッド《夜明けと夕暮れ》、《蜻蛉》杯、《海藻と貝殻の手》は、

この協力関係から生まれたということを、忘れてはいけない点です。

 

なぜなら、ガレへの強いオマージュが、

ガレの燃える思いに導かれ、

彼の作品を製作したすべての人を正当に評価することになるからです。

 

 

はじめに(本書の紹介)

本書は、エミール・ガレには時に矛盾する、数え切れない顔があることを描き出すものである。たとえばガレには、進歩主義者、流行のパリのサロンに出入りし、パリでもっとも有名な女性たちと親しくする社交家、詩人、教養人、人道主義者(ヒューマニスト)、植物学者、科学者、芸術家、実業家の顔がある。とくに、ガレの自然に対する科学的アプローチ、そしてガレの芸術的進化において、この生物の構造研究が果たした役割に重点をおいているが、これはパリの美術評論家ガストン・ヴァレンヌと意見を同じくするものである。ヴァレンヌは1910年に次のように書いている「この芸術家を理解するには、著名な思想家や哲学者、あるいは詩人の作品を読むこと、さらには自然についての理論的科学的研究が、彼の関心やその研究の中で、どこに位置づけられているかを知ることが必要である。」

まずエミール・ガレが受けた教育、そして彼の職業生活に影響を与えたであろう要素を分析する。ついでガレの科学的かつ芸術的業績を総括する。彼の人となりの輪郭をより明確にするために、まず初期の伝記、すなわちルイ・フーコー(1903)、ロジェ・マルクス(1904)、ジュール・アンリヴォー(1911)に基づき、ついで近年の著作——数は少なく、またガレのすべての側面を扱っているわけでもないが——では、フィリップ・ガルネ(1976)、フランソワーズ=テレーズ・シャルパンティエ(1978)、ベルント・ハーケンヨス (1982)、フィリップ・ティエボー&フランソワーズ=テレーズ・シャルパンティエ (1985)、フィリップ・ティエボー (1991)を参照した。論文では、ガレの作品や人となりについて書かれたものや、エミール・ガレによる著作(数多く書かれ、記事・論文や出版されている覚書が66本、手稿18点のほか、未刊行の手帳と覚書がある)を詳細に分析したものなど、数え切れないほどのものを丹念に調べた。手書きの書簡は膨大な数がある。ガレ自身が自分は日に25通の手紙を書いたと断言している。1908年に、ガレの妻アンリエット・ガレ=グリムが、散在していた夫の刊行物を集めて『美術論集』(Écrits pour l’art)として出版している。その前書きで、アンリエットは「この本はエミール・ガレを愛してくださった方々に向けられたものです。みなさんの友の『生涯』と『書簡』については、その出版までお待ちいただきたいと思います。みなさんの中で友との手紙をお持ちの方は、エミール・ガレ夫人にご連絡いただき、彼の伝記準備にご協力いただけますようお願いいたします。」と書いている。

アンリエット・ガレ=グリムは、手紙(一万通もの)の収集を開始すると、それを相手ごとに分類する。のちのフランソワーズ=テレーズ・シャルパンティエの調査ではその数は177名にのぼる。エミール・ガレは原稿などの下書きを残して置くことが多く、それが妻の仕事の助けになった。彼女は、ガレの手紙の相手から提供された書簡の多くを手書きで書き写し、それをパリのエミール・ガレの総代理店をつとめていたマルスランとアルベールのデグペルス親子が保管していた商取引関係の書類に加えた。これらの文書は一括してナンシーのラ・ガレンヌ通りでガレの娘の一人であるリュシル・ペルドリゼが大切に保管していたものだ(注2:リュシル・ガレ=ベルドリゼ夫人(1981年に死ぬまでラ・ガレンヌ通り2番に居住)によれば、多くの手紙が燃やされてしまったらしい。フランソワーズ=テレーズ・シャルパンティエによれば、消失した手紙の中に、ロジェ・マルクスのものが含まれている。第二次大戦中、ガレンヌ通り2番地の建物はドイツ軍に接収され(ドイツ軍は一階に法廷を設置し、そこで多くの死刑判決が出された)、1955年に売却された際に失われたという。アンリエット・ガレ=グリムが、おそらくはポール・ペルドリゼの助けを借りておこなった手紙の分類もなくなった(エミール・ガレ、ロジェ・マルクス『書簡集(1882-1904)』参照。)。フランソワ=テレーズ・シャルパンティエは、ガレの腹心ロジェ・マルクスとの書簡を、注釈をつけて、謄写版印刷した。そのうちの一部がナンシー大学図書館に納められている。本作も、もちろん、この貴重な資料を参照している。

ガレの通信文の多くは、非常に幸いなことにフランス国立図書館が所蔵しており、またアカデミー・ド・スタニスラスやナンシー市立図書館に所蔵されているさまざまな手紙も、研究に重要な資料となっている。一方、個人所蔵や公売にかけられた手紙も、有用な情報を提供してくれている。本書では、この膨大な書簡の一部にしかアクセスできなかった。多くがまだ未詳のままである。しかしながら、1908年にアンリエット・ガレ=グリムが表明した願いに応える、エミール・ガレの人生と作品を扱った本書を組み立てるために十分な情報は集められたと思っている。しかし、本書は一つのステップにすぎない。主要なガレの書簡に研究者が閲覧できるようになった暁には、いくつかの点がおそらく明らかになるだろう。たとえ将来そうした発見があったとしても、15年前に始められた本研究の本体部分が見直されることはないだろう。

 

イントロダクション:芸術創造の刷新

 

19世紀、科学・産業革命とともに、急速に経済が発展しました。

産業化は良い結果だけをもたらしたわけではありません❗️

新しい産業手段から利益を引き出した実業家は、

社会の変動とは無関係である過去のスタイルのセンスを

膨張した中産階級に押し付けました😲

 

1836年にはすでに、

アルフレッド・ド・ミュッセは憤慨してこのように言っています。

 

「まるで世界の終わりが近いみたいに、

われわれは残り滓だけで生きている。

今、あらゆる時代のものがあるのに、

われわれの時代のものだけがない。

他の時代には全く見たことのないものがないのだ。」

(アルフレッド・ミュッセ『世紀児の告白』(1836))

 

 

建築の分野では、過去のスタイルを参照することは

しきたりとなっていました。

フランスで、19世紀に建てられたネオ・ゴシック様式の教会は、

歴史主義と呼ばれるものを具現化しています。

 

 

ヨーロッパの中で最も工業化が進んでいた国、イギリスでは、

人間の機械への従属、

工業都市の生活環境や芸術の退廃(デカダンス)を

告発する知識人もいました😨

 

労働者たち、終わりなく同じ作業を繰り返さねばならず、

もはやそこに主体性はありませんでした。

 

こうした変動は、オーガスタス・ウェルヴィー・ノースモア・

ピュージンの『コントラスト』(1836)、

あるいはジョン・ラスキンの

『ヴェニスの石』(1851-53)において、

見事に分析されています。

 

ラスキンはそこで、オリジナリティがなく、

過ぎ去った時代から着想を得た、

大量生産で生産される製品に殺到する

ブルジョワジーの悪趣味を批判しています😠

ラスキンは、創造性、そして使い手と作り手の対話に

立ち戻ることを願っていました。

 

こうした方針は、過去のスタイルから着想を得て

大量生産される品のデザイナーだった

ヘンリー・コールにも受け継がれました。

 

コールは、後の王立職業技能検定協会である

技能検定協会の主催の展覧会に新しい製品を出品するよう、

実業家と装飾家のグループに働きかけました。

そして、彼は、新たに複数の応用美術学校と、

のちにヴィクトリア&アルバート・ミュージアムとなる

美術館を作ったのです。

 

 

オックスフォードで学んだウイリアム・モリスは、

ラスキンの考えを実践に移しました💨

モリスにとって装飾品は、

進歩した現代生活を表現するものでなくてはならなかったのです。

彼は自ら木や石を彫刻し、刺繍や装飾写本を制作しました。

 

 

1861年、モリスは、

画家、彫刻家、家具職人、金物製造業者を結集させ、

モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立しました。

ラスキンの考え方に沿って、

この商会では、家具、ガラス製品、壁紙、ステンドグラスなど

多くの品が製造されました。

 

 

ウォリントン・テイラーが商会に加わると、

職人的だった仕事のやり方を、

合理的なやり方に仕切り直しました✨✨

1860年代ごろの、このようなウイリアム・モリスの会社方針は、

40年後に誕生するナンシー派を予兆していたように思えます。

 

 

だが、ガレとラスキンが、自然を愛するという点、

そしてブルジョワの悪趣味を批判しているという点

では一致していても、

二人が出した答えは若干異なっていました。

 

ガレが

その作品の中で自然への愛情を実際に表現するのに対して、

ラスキンは、彼もすぐれたデザイナーであるが、

つとめて理論家に徹し、多くの著作を残しました📚🕤

 

一方、ウイリアム・モリスが

彼自身の世界観の中で進展していったとすれば、

彼は、ガレよりもエコール派の第2代会長である

ヴィクトール・プルーヴェに近いでしょう。

とは言っても、ガレが次のように主張するのは当然です。

 

「偉大な芸術家にして人道主義的哲学者、

労働の喜びの唱導者たるウイリアム・モリスは言った。

労働は人間的なものである。

労働はよきものであり、芸術は有益なものである。

祝福された芸術、救済者たる芸術、それは大衆芸術、

すなわち物を作る仕事をする人間の喜びの表現である。

そして私たちは、人間的文化、精神の目覚め、

世界に広がった美の伝統による魂、

といった機能に芸術を与えるという教義に対する

深い信仰を主張することができる。」

(エミール・ガレ『美術論集』)

 

 

ヨーロッパ、そしてアメリカにおける新しい潮流

 

ヨーロッパ中がそうであるように、

フランスでも産業が発展していきます。

中世の協会に賛美を送ることに逃避し、

過去へのノスタルジーを育んだラスキンやモリスとは反対に、

帝国古文書館館長(1857-1868)である

レオン・エマニュエル=シモン=ジョゼフ・ド・ラボルトは、

芸術・科学・産業と、

技術の進歩に対する信頼との結びつきを推奨しました😊

 

 

イギリス、ドイツ、アメリカにおける産業的な競争は、

手工業や装飾美術の分野における競争を激化させました🔥

 

装飾美術での競争は、

とりわけ1889年のパリ万博の間に表面化しました。

この競争はフランス政府に危機感を与え、

フランス政府は、フランスとライバル関係にあった

すべての国に装飾美術の発展を研究するために

代表団を送りました。

 

フランスの政治・文化担当者たちは、

産業の飛躍に伴って、

芸術的な刷新が欠かせないことに気づいていました。

1894年、

レイモン・ポワンカレ大統領は次のように断言しました。

 

 

「ぐずぐずと過去を振り返り立ち止まっている国は、

たちまち無力さと不毛さに襲われてしまうだろう。

我らが先人たちの才能を知りたいという

好奇心がどれほど気高いものであろうと、

それはわれわれにとって重要な関心事ではないし、

そうであってはならない。

見るべきは後ろではない、

周囲を、そして前を見るべきなのだ。」

 

 

アール・ヌーヴォーの誕生にフランスが大きく寄与したとしても、

今日われわれが現実に直面しているのは

ヨーロッパとアメリカ合衆国全土に広がった巨大な運動なのです。

アール・ヌーヴォーは国境など気にも留めていませんでした❗️

 

この運動に参加した芸術家たちはみな、

共通したいくつかの目的を持っていました。

彼らの芸術の統一性を支持する人たちは、

装飾美術、手工業、産業を主要な芸術として

ひと括りにすることを願っていました。

このアール・ヌーヴォーは多岐にわたりますが、

原則はいずれも同じです。

 

すなわち、当時、大きく発展を遂げた

工業技術によって提供される素材を使うという新たなチャンスを

生かすということが大事なのです。

その目的は、最大多数の大量生産製品や美意識と、

材質的かつ文化的充足感への切望を両立させることでした。

芸術家たちは過去から解放されて、

新たな形式からインスピレーションを得たかったのです⚡️

 

 

「アール・ヌーヴォー」という表現は、

つねに「自然から引き出されたインスピレーション」

を意味するわけではありません。

ヘルシンキ、ダルムシュタット、ミュンヘン、

ウィーン、グラスゴーにおける、新しい形式は、

非常に幾何学的なものでした。

そして、これらは、

2つの世界大戦間にヨーロッパ全土に広がった

アール・デコのスタイルを予兆するものでした。

 

 

ユーゲントシュティール、モダン・スタイル、

グラスゴー・スタイル、リバティ・スタイル、

アール・ヌーヴォー、ゼツェシオンスティール、

ニウ・クンスト、スティレ・リベルティ、モデルニスモ、

アール・ヌーヴォー(新しい様式)を意味するこれらの言葉は、

いずれも、19世紀末から20世紀初めに

ヨーロッパのほとんどの国が影響を受けた

ひとつの文化現象の一側面といえます。

 

 

ユーゲントシュティール

(青春様式、ドイツにおけるアール・ヌーヴォー)は

ドイツのミュンヘンで誕生しましたが、

ダルムシュタットでも生まれています。

だが両者は同一とは程遠いものでした。

アルノルト・ベックマンのように、

一部にはフランスやベルギーのアール・ヌーヴォーを

参照する者もいました。

 

ですが一方で、

それ以外は典型的なゲルマン的な主題や神話から

着想を得たものもいました。

ミュンヘンの雑誌『ユーゲント』を介して、

ユーゲントシュティールの芸術家たちは

一つにまとまっていきました。

 

アムステルダムのニウ・クンストは

ドイツのユーゲントシュティールに関連づけることができます。

ノルウェーでは、1904年1月23日の暴風雨に襲われた

沿岸の木造建築の町オーレスンが、

暴風とその後に起こった大火事で完全に破壊されてしまいました。

3年をかけて、この町は、

ノルウェーとドイツの最高の建築家たちの協力によって

再建されました🏡🏡🏡

 

 

ヘルシンキの建築様式の再生も、

ユーゲントシュティールの影響を受けています。

ラトビアの首都リーガは、

ヨーロッパ最大のアール・ヌーヴォーの町の一つです。

町の建物の三分の一以上が、

ドイツ、フィンランド、オーストリアのスタイルから

影響を受けたアール・ヌーヴォー様式で建てられていました。

その一方で、新しく建設された建物の四分の一に

ラトビア独自の着想を見てとることができます。

この動きは「ナショナル・ロマンティズム」と呼ばれるものです。

 

 

ウィーンは、アール・ヌーヴォーのもう一つの重要な中心地です。

画家ギュスターヴ・クリムトとその弟子である

エゴン・シーレ、フェルナント・ホドラー、

ベルギー人フェルナン・クノップフらは、

アカデミズム(伝統的形式主義)を捨て、

19世紀末に「ゼツェシオン(分離派)」の名で知られる

独自の団体を結成しました。

彼らはゼツェシオンスティールが生みだしました。

 

 

ヨゼフ・マリア・オルブリッヒとオットー・ワーグナーは、

この新しいスタイルの系譜の下で、

ゼツェシオン館をはじめとする多くの民間の建物、

地下鉄ののような公共の建物を建設しました🏠🚇

1840年、

オーストリアのクロスターミューレに創設された

レッツ・ガラスは、

19世紀末に、

アメリカのルイス・コンフォート・ティファニーの作品から

直接的に影響を受けた、新しいスタイルを取り入れています。

 

スロベニアの首都リュブリャナは、

町づくりにゼツェシオン・スティールを採用しました。

地震によって町が壊滅状態となった

リュブリャナの市長イヴァン・フリバルは、

ウィーンの二人の都市計画の専門家、

カミロ・ジッテとマックス・ファビアーニに助けを求めました。

 

ウィーン分離派の建築家の一人、

ヨゼフ・マリア・オルブリッヒが

市庁舎の設計プランを提供しました。

リュブリャナには、

ブリュッセルの影響を見てとることもできます。

 

 

19世紀末のベルギーを特徴づけているのは、

ヴィクトール・オルタ、アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド、

ギュスターヴ・セリュリエ=ボヴィ、

ジュール・ブランフォといった、

若き建築家、画家、装飾美術家たちの想像力と才能から生まれた、

目を見張るような作品です👐

多くの人から、ブリュッセルはヨーロッパにおける

アール・ヌーヴォーの主要都市であると見なされています。

 

パリでは、1895年のベルギー旅行で、

ベルギーのアール・ヌーヴォーに影響を受けた

エクトール・ギマールが、

カステル・ヴェランジェ〔16区のアパルトマン〕、

ついで1900年の万博に向けて一番線が開通した

メトロの入り口の建設を手がけました。

 

エクトール・ギマールは家具調度の制作にも

首尾よく乗り出しました。

パリでは、他の建築家や装飾美術家たちも、

この新しいスタイルで制作しています。

アール・ヌーヴォー様式の宝飾は、フランスの首都で、

ルネ・ラリックとともにその絶頂期を迎えますが、

ルネ・ラリックはのちにガラス芸術に

専念していくことになります。

 

スペイン・モデルニスモで最も知られている人物は、

間違いなく、天才建築家アントニオ・ガウディです。

彼が生涯をかけた作品、

バルセロナのサグラダ・ファミリア聖堂は、

世界で最もよく知られている歴史的な大建造物の一つです。

 

だが、ガウディの才能は、

数多くの世俗的な製品や装飾美術にも発揮されています。

カタルーニャのアール・ヌーヴォーに君臨する二人の人物、

それはリュイス・ドメネク・イ・ムンタネー と

ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクです。

また、ガウディ生誕の町レウスとタラサの二つの町は、

カタルーニャで、

モデルニスモから影響を受けた

素晴らしい建物や産業用建築物がある町です。

 

 

ハンガリーの首都ブダペストには、

一連の第一級のアール・ヌーヴォー建築が見られます。

地方からの大量の人口流入を背景に、

これらの建物は地方色のある大衆的な形態から

着想を得て建てられています。

 

だがハンガリーのアール・ヌーヴォーの最も顕著な特徴は、

その東洋的な要素です。

そこにはユダヤ文化やトルコ文化の

かすかな記憶が見て取れます。

ハンガリーのアール・ヌーヴォーはまた、

1853年にペーチに設立された

ジョルナイ製作所の製品など、陶器にも見ることができます。

 

 

イタリアには、

かなり遅れてアール・ヌーヴォーが輸入されました。

パレルモは例外といえます。

 

この町にスティレ・リベルティという様式が誕生するのは

1891年の万国博覧会までさかのぼります。

〔ヴィラ・イジエアを建てた建築家〕エルネスト・バジーレ

の個性が1900年のパレルモの建築と家具に

強い影響力を及ぼしています。

 

彼はヴィットリオ・デュクロとともに

アール・ヌーヴォー様式の家具と装飾に特化した

協会を設立しました。

 

ガエターノ・ジェラーチの水彩画やスタッコ細工、

エットレ・デ・マリア・ベルグレールの女性像は、

この時代の芸術は豊潤なものにするのに一役買いました✨✨

 

 

ロンドンでは、1896年、マーガレット・マクドナルトと

妹のフランセス・マクドナルド、

ハーバート・マクネア、そして若き建築家

チャールズ・レニー・マッキントッシュの四人の作品によって、

一つの抗議運動を引き起こしました。

 

彼らの絵画、ポスター、装飾品、家具調度は

非常に削ぎ落とされたスタイルで作られており、

のちにグラスゴー・スタイルと呼ばれます。

一般にモダン・スタイルと呼ばれるものに含まれ、

芸術への真の侮辱と見なされました。

けれども、有名な雑誌『ステュディオ』に、

彼らは何度も好意的に取り上げられました。

1900年、分離派の芸術家たちが

ウィーンでの第8回分離派展に彼らを招待します。

オーストリアの批評家たちは、展示物の単純さ、

その線の純粋さに魅了されました💕

 

以後、グラスゴー派の評価は高まっていきました。

ロンドンでは、1890年には、

リージェント・ストリートのリバティ百貨店が、

実用品と宝飾品の制作を、アーサー・ウィルコックス、

アーサー・シルヴァー、アーチボルト・ノックスなど、

当時、もっとも有名なクリエーターたちに依頼しました。

これがやがてリバティ・スタイルになっていくのです。

 

 

互いに影響し合うアール・ヌーヴォーの様々な潮流

 

 

アール・ヌーヴォーは軽々と国境を乗り越えました。

モラヴィアに生まれたアルフォンス・ミュシャは、

1887年パリにやって来ます。

1895年、彼は、

サラ・ベルナールの舞台『ジズモンダ』の

話題を集めたポスターで有名になります。

1909年、ミュシャはプラハ市庁舎の壁を飾る

一連のフレスコ画に取り掛かります🎨

 

彼は、またプラハで、

スラブ国家の成立を祝う大作《スラブ叙事詩》にも着手しました。

この絵はプラハ、そしてアメリカで展示されました。

カルロ・ブガッティは、ミラノに生まれ、

ブレラ・アカデミーで学んだのち、

パリのエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)

に入学します。

 

画家、家具職人、室内装飾工、そしてエンジニアでもあった

ブガッティは、

イタリアで東洋的な特徴を持つアール・ヌーヴォーの一様式を

作り上げました🌼🌼

 

アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドは1901年にブリュッセルを離れ、

ベルリン、ワイマール、ケルン、スイスで働きました。

ベルギーには1926年まで戻りませんでした。

ヨーゼフ・ホフマンは、オルブリッヒとともに

ウィーン分離派運動で活躍したのち、

スコットランドの マッキントッシュ・ハウスに着想を得て、

ブリュッセルにストックレー邸を建設しました。

室内装飾に使ったモザイク画制作のために、

ウィーンの友人である

ギュスターヴ・クリムトの助けを借りています。

 

 

アール・ヌーヴォーの首都、ナンシー

 

 

ナンシーでは、

1850年の鉄道の到来と1854年の大学開設によって、

知的にも経済的発展のための環境が生み出され、

これはまさに前例のないものでした🌟🌟

 

だがこのナンシーの幸運は、

逆説的ではありますが、1870年の敗北にこそあったのです。

 

 

フランクフルト条約の後、

ドイツとの国境はわずか20㎞の距離になりました

ナンシーは国境守備隊の駐屯地がおかれる大都市になったのです。

アルザスやモーゼルの住民の多くが

併合された土地を離れ、ナンシーに移住し、

そのためナンシーの人口は爆発的に増加しました。

こうした「選択組」が資本、労働力、

そして新たな活力をもたらしました。

文化的発展に適した繁栄を得て、経済は飛躍的に成長しました💨

 

 

19世紀末に、

新しい多様な形態の産業美術が、先にイギリスに誕生し、

それがヨーロッパの諸都市やナンシーに広まったとしても、

ナンシーの発展の多くは、ロレーヌのダイナミズムと、

時代の先を行った一人の天才の存在によって説明されます。

 

ナンシーの若者ガレは、

父親の後を継いで小さな会社のトップとなりました。

ガレは、芸術が町や地方の経済発展に付随するだけでなく、

その中心にあるべきものだと理解していました。

 

こうして、エミール・ガレは

ひとつの新しい表現形態の始まりを築いていくことになります。

この新しい表現形態は、

最大多数の人々のためのソーシャル・アート、

つまりラスキン、さらにはモリスの進歩主義的思想に

近いものであり、

同時に自然を源泉とする産業美術なのです🍀🍀🍀

 

 

 

ガレの芸術と進化論

 

 

ガレの芸術における

自然主義の影響の重要性を理解するために、

いま一度、

19世紀という特別なコンテクスト(文脈)に

立ち返る必要があります。

それは、自然の中において、

世界・生活・人間の立ち位置が、

完全に新しいヴィジョンを持った進化思想

というコンテクストです。

 

 

細菌を別にして、

生物は、不連続の個体である異なる種により構成されています。

アリストテレスや多くのギリシャの哲学者にとって、

種は不朽不変でした。

これがフィクシズム(生物不変説)です。

18世紀まで、生物不変説は教会や学界の公式見解でした。

 

しかし有機物の進化や共通の祖先からの変化を論じた思想は、

(その原因を)古代にさかのぼって論じることになります。

タレス、ミレトスのアナクシマンドロス、

アグリジェントのエンペドクレスらは、

すでに生物の進化論的解釈を行なっていました。

 

ルネッサンスの時代には、

これらギリシャの哲学者たちの進化思想は

一部にしか知られていませんでした。

イタリアの哲学者ルキリオ・ヴァニーニ

〔別名ジュリオ・チェーザレ・ヴァニーニ〕は、

ひとつの種が別の種に変化するという考えを示したところ、

異端審問官によって有罪宣告を受け、

トゥールーズで舌を切られた上、

生きたまま火あぶりにされました😱

 

 

18世紀になると、

ビュフォン伯ジョルジュ・ルイ・ルクレールや百科全書派により、

進化思想に好意的な風潮の基礎を作っていきます。

ハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの頭の中に

1780年にはすでにあったこうした思想は、

1790年の『植物変態論』で表現され、

さらにパドヴァの植物園でヤシ科チャボトウジュロを

つぶさに観察したイタリア旅行の後に

確信に変わりました😋

 

ジャン=バティスト・ラマルク騎士は

1801年に初めてその思想を発表し、

1809年の種の起源に関する『動物哲学』、

さらに1815年に刊行が始まった『無脊椎動物誌』で、

その理論を明確にしました。

ラマルクはその中で、人間を含む、すべての動物は、

それ以前の種の後継種であるという思想を展開しています。

 

 

過去の動植物を研究する古生物学の始祖であり、

ガレの親友の一人である、ルネ・ゼイエによって、

現在とは異なる生物の形が存在することが明らかにされました。

 

 

その形は古ければ古いほど

現存する生物とは異なっていきます。

フィクシズム(生物不変説)の信奉者であった

ジョルジュ・キュヴィエは、

古い時代には別の動植物相が存在したことを説明するために、

何度も天変地異が起こり

—その最後がおそらく大洪水ということになるでしょう—

その時点の生物を一掃してしまったという説を唱えました。

 

1830年の、

種の進化説を支持していた

ジョフロワ・ド・サンティエールとの論争は有名です。

ゲーテはサンティエールが優勢なのを見て喜びました。

 

 

「私がこの大問題に取り組んでから50年だ。

始めた時は一人だった、

しばらくして、何人かの、手を貸してくれる人に出会った、

そしてついに!

実に喜ばしいことに、

同じ考えの持ち主に、私は追い越されたのだ。

だがこれで、

ジョフロワ・ド・サンティエールはわれわれの側にいる、

彼とともに、彼の偉大な弟子たち、

フランスの彼の仲間たちと一緒にだ!

 

これは私にとって、信じられないほど重大な事件で、

私が生涯を捧げた理論、

何より特別な私の理論が全面的な勝利を

得るのを見られたのだ、

これまで生きてこれたのを喜ぶのも道理である。」

 

 

つまり、チャールズ・ダーウィンの著作が刊行される以前に、

19世紀初頭にはすでに、

進化思想は非常にアクチュアルなものだったのです⭐️

 

 

種の進化について

一貫性のある説明がなされた理論を考えたのは

イギリスの偉大な学者でした。

 

彼はそのために、生存競争と自然淘汰を用いました。

その著『種の起源』の第一版は1859年11月に、

ついで1860年1月には第二版が刊行されました。

この本はすぐさまフランス語に翻訳されると、

学界にも宗教界にも大きな衝撃が走りました。

 

子どもの頃から博物学に夢中だったエミール・ガレは、

ダーウィンの理論を神の啓示のように受け取りました。

それがゲーテの思想を追認するものだ

ということを理解していました。

なぜなら、ガレはワイマール滞在中にすでに

ゲーテの思想に影響を受けており、

イタリア旅行の際にその正しさを認めていたからです。

ガレはチャールズ・ダーウィンの著作を貪るように読み、

彼自身、驚くべき的確さをもって研究に取りかかり、

生物が進化して驚異的な数の種に変化するメカニズムを

理解しようとしました。

自然の美しさの無限の変化に見とれつつ、

その秘密を読み解こうとすることで、

強烈な感動を感じていました🤗

 

 

こうして自然はガレの芸術の導き手となりました。

彼の作品は創造の賛歌となったのです。
人間はその長き進化の結実です。

ガレにとって、人間であるということは、

生命の最終的な終着点だったのです。

 

ガレは、その普遍的な精神によって、

古典古代の学者たち、

ルネサンスの最も偉大な叡智、

そして18世紀のフィロゾーフ(啓蒙思想家)へと受け継がれた

伝統のなかに位置づけられます。

 

 

そして彼は、

その人道主義的かつ科学的かつ芸術的な作品を

独自のヴィジョンで追い求めます。

 

それゆえ、人間が社会の中心にいる世界を

浮かび上がらせることに生涯を捧げたガレの作品は、

つねにわれわれの時代のものです。

 

ガレは実にトリプレックス(合わせガラス)な人間であって、

それは初期の伝記作者が思ったような、

単に限定的な意味でのガラス職人、家具職人、陶工が

あわさったという意味ではありません。

ガレの特質は、同時に誠実な人物であり学者であり

創造者(クリエーター)であったということです。

この三つの性質が彼を特別な存在にしているのです⭐️⭐️⭐️

第2章

 旅の情熱

ガレは人生の中で度々外国への長期旅行に出ていました。その旅はビジネス目的だったり、また彼が情熱を注いでいた植物の研究🍀のためだったりしたそうです。

まずガレは高校を卒業すると、ドイツ語を勉強するためにザクセン=ヴァイマル公国に留学しました。ガレのお父さんであるシャルル・ガレによると、その滞在はドイツ語の勉強の他、鉱物学を学ぶことも目的だったそうです。

ザクセン公国は18世紀後半頃から鉱物学の研究で有名な場所だったんですね。

ガレのこの滞在時期に関しては様々な意見があって、記述が正確だと思われている伝記をいくつか比べて見ても、やっぱり時期にずれが見られます。

つまり、誰も正確な滞在期間がわからない、ってことなんですね。

でもまあ大まかに見ると、1865年9月もしくは10月にフランスを出発して、1866年の終わりにナンシーに戻ったというのが実際なところなようです。

で、なぜガレのお父さんは、ガレをヴァイマルに行かせたんでしょうか⁉️

それは、ビジネスの思惑があったからなんですね〜‼️

1860年以降、ヴァイマル公国の公爵はエミール・ガレの父親であるシャルル・ガレに、ザーレのドルンブルグにある城のために、ライオンの紋章を飾った陶器製の大きなランプを注文していました。これらのランプは大きな炎を青、ハイライトに赤、そして小さな炎に赤を使った単彩画が描かれていて、そこには『ガレ』とサインがあるそうです。

エミール・ガレは父親の大切なお客様に会いに行ったのかもしれませんね〜。

ガレがザクセン=ヴァイマル公国で過ごした日々については、実際のところほとんど知られていないんです。

彼自身の記録からわかるのは、ヴァイマルでの日々は彼に文学への興味を授けたとの事。

どこにも証明するものはないのだけれど、本当に彼が鉱物学を学んだのであれば、ガレはきっと植物に関する古生物学やヴュルテンベルグ、コイパーの化石、もしくはヴァイマルからそれほど遠くないヴェッティンの石灰頁岩についても学んだはずなのです。

1889年の万博のメインエントランスの装飾のために花の化石を使ったのですが、それの一部はレネ・ゼイヤーの仕事のために貸し出された事もあったそうです。

その当のレネ・ゼイヤー、実は一度もコイパーでの化石の採掘やヴァイマルでのヴェッティンの石灰頁岩の採取に携わった事はなかったそうですよ。

ガレが物理学、鉱物学、古代植物学などを学んだとされる学校については未だに知られていないのですが、おそらくそれはトローストの学校だと思われます。

この私立学校はある一家によって運営されていて、その中の一人で息子であるヴァルマー・トローストはドイツのプロセイン軍がナンシーに進駐した際、ガレの母親であるファニー・レンメールに看病されていたそうです🏥。

ガレはヴァイマル滞在中も植物を採集し続けていました。(好きなんですね〜💞

あと、1866年に発表されたシンバル奏者を描いた絵画も、このヴァイマル滞在中に描かれたものだと言われています🎵

ヴァイマルにてエミール・ガレはガラスアートに目覚め、音楽に没頭する

ルイ・ド・フォコーによれば、エミール・ガレはヴァイマル滞在中に美術学校に通っていたそうです。その学校は1857年創立の絵画と造形美術を学べるボーザールの私立学校で、そこで教鞭に立つフランツ・ジャド氏の元で学んでいたそうです📖。ウォルター・シーディッグバーント・ハケンジョによると、エミール・ガレはそこでヴァイマルの建築家カール・フォン・ステグマンと知り合いました。

このステグマンとは、1862年から1863年にかけて市立の伯爵美術館の建築を担当した人物です。

彼は1865年頃、ヴァイマルに装飾芸術と建築の私立学校を建立、そして1867年には『アートとアールデコの週刊誌』と名付けられた雑誌を創刊しました。

このフランツ・ジャドとカール・ヴォン・ステグマンは協力しあって、将来の芸術家たちのために数多くの芸術作品を集めました💞

これらの作品の中にはガラス芸術作品、ベネチアングラス、16世紀から17世紀にかけて作られたドイツの七宝ガラス細工作品、ルビーが2層になっている18世紀のガラス作品など、ヴァイマルの公爵から貸し出してもらった作品も数多く含まれていたそうです。

シャルル・ド・メクスモロン=ド=ドンバルが言うには、エミール・ガレはヴァイマルで造形学と絵画を勉強し、のちにロンドンでもそうだったように、音楽にものめり込んでいったそうです🎵

『ヴァイマルではあなたはラッキーな環境でリストを知る事が出来、彼の自宅でリヒャルド・ワグナーの素晴らしい作品などに触れることが出来ているのですね』と記述がありました。

実際にはガレはフランツ・リストとは知り合うことは出来なかったんです😿

リストは1847年から1861年にかけてヴァイマル宮廷のチャペルの楽長をまかされていて、その後1861年から1869年まではローマで過ごしていました。この期間にリストがヴァイマルに戻った記録は一つも残っていません。

つまりガレがヴァイマルに滞在中にはリストは一度も戻ってきていないはずなんです‼️

だけど、ガレはヴァイマル公国での音楽仲間達のおかげでリストやワグナーの作曲した作品を知る機会はたくさんあったはず。

事実、1865年11月、ガレは『タンホイザー』を鑑賞しています🎵

ウォルター・シーディッグによると、とある個人収集家のコレクションの中に、ガレが3人の女性と共に写る一枚の写真があったそうです。

そこには『ヴァイマルにて、スター家の人々』と書かれていました。

スター家?

それは文学博士であるアドルフ・スターの最初の奥さんであるスター夫人と、アンナヘレンという二人の娘達であると思われます。

二人の娘達は共にリストの熱心な生徒達であり、同時に二人とも音楽を教える先生でした。

ガレはこの二人からピアノのレッスンを受けていたと思われます。

さらにヴァイマル滞在中、ガレはこのスター家の所有するアパートに滞在していたようだとシーディックは言うのだけど、そのことを示す写真や記録などは何も残っていません。

ミステリーです。。。

ガレの子孫達が今でも大切に保管しているガレの写真アルバムの中には、この当時の写真がいくつも残されているそうです。

1枚の写真には『ヘレン・スター嬢』との書かれてあり、2枚目には『アンナ・スター嬢』と記されています。3枚目は再びヘレンの写真で、そこには『1882』とだけ記載されています。

ということは、その写真はガレのヴァイマル滞在からかなり後のものだということがわかります。

スター家とのおつきあいはフランスに戻ってからも続いていたってことですね〜💞

4枚目はヘレンとアンナが一人の男性と写っている写真なのだけど、この男性が誰なのかはわかっていません。

が、多分彼女達の3人の兄達のうちの一人であるアロウィンだと思われています。

アロウィンは1870年にプロセイン軍の一員としてナンシーに進駐していました。

これらの4枚の写真はそれぞれに『スター』と、ガレの母親であるファニー・ガレ・レンメールの手書きで書かれ、同じアルバムにおさめられています。

他にも『ヴァイマルのヘレンとアンナ・スターの思い出として、優しいレンメール婦人へ』と書かれた写真も残っていることから、ガレ家とスター家がとても親しい関係💞で、それが少なくとも1882年までは続いていた、ということがわかります。

ザクセン=ヴァイマル公国滞在中、ガレはクリスタルガラス製造で有名なボヘミアを訪れています。

『ウルリッヒタルに行く事には私は賛成だよ。そこでペリカンの店に行ってみるがいい。そこでお前の感性に何か訴えるもの、万博(1867年)のために創造をかき立てる物があれば、買ってペリカンから私に直接送ってもらうように頼めば良い。ただしペリカンにはそれが万博のためだとは言ってはいけないよ。目的はいつも秘めておくべきだ。』と、1866年12月17日にガレの父親が彼に宛てた手紙には書いてありました。

こんな一つの手紙が、スパイ行為の証拠となるなんて、誰が思ったでしょう⁉️

エミール・ガレはヴァイマルでの滞在を利用して、バイロイトにも1週間の旅行に出ています。

そしてかつてヴァルミーの戦士で、のちには帝国の将校でもあった祖父の思い出の地、イエナも訪れています。ここでガレは一枚のクロッキーを描いています。

実際この1865年と1866年の間に、ガレはドレスデン、ライプツィヒ、カルスバート、ブルノ、ボヘミアなどを訪れています。

それは1865年のこと。ブルノにてヨハン・メンデルによって遺伝に関する法則という科学の歴史において決定的な発見がなされました。その画期的な発見は1910年まで世間の注目を集める事なく放置されていました。

きっと当時同じくブルノにいたエミール・ガレも、その事には全く気付いていなかったでしょう。

ゲーテの精神がヴァイマルを取り巻く 

30年程あとのヴァイマルでは、1775年からヴァイマル公爵の顧問を勤めていたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがその多彩な才能で有名になっていました。

彼は時には詩人であり、作家であり、画家であり、園芸家であり、生物学者であり、鉱物学者であった、本当に多才ですごい人です。

天才〜!

ゲータイト(針鉄鉱)の名前は、発見者であるゲーテの名前が由来なんですよ〜❗

ゲーテは園芸や植物の生態に関するいくつもの記事や著書を執筆しています。

フランソワーズ=テレーズ・シャーポンティエは、ガレは”シェークスピアとゲーテをとても良く知る人物だ”と1978年に記しています。また1904年1月6日にガレがロジャー・マークスに宛てた手紙の中には、ヴァイマル滞在中にゲーテの家を訪れたとはっきりと記されていました。

そこからもわかるように、ガレはゲーテに関心を持っていました。

とすれば、ガレは少なくとも10回は『ファウスト』を読んだでしょうね❗️

その後ガレはイタリアに旅立ったのですが、1816年から1817年にかけて書かれたゲーテの『Le voyage en Italie(イタリアへの旅)を読んで、同じようにイタリアを訪れたくなったのかもしれません。

ただその後のガレのイタリア旅行に関する記述を読んでも、どこにもゲーテを示唆するような記述は見当たりません。

アルプス山脈を通る際、ガレは植物の生態が変わっていることに気付きました❗️それはゲーテも1786年に発見して、しかし1816年まで発表されなかった内容ととても似ていたそうです。

その後、ガレはダーウィンの進化論にも感化されることになります。。。。

1871年、ロンドン。国際見本市や数々の大きな美術館がガレを魅了する

1871年、ガレはロンドンを訪れ、そこで父親の代わりに国際見本市に出ていました。

そこでガレはモンタルボ伯爵夫人であるジョゼフィン・ボウズと出会います。

彼女は夫であるモンタルボ伯爵が1840年から1870年までに収集した芸術品を集めて、展示した、ボウズ美術館の運営を任されている人物でした。

ジョゼフィン・ボウズは『フランスアート』のコーナーをわざわざ常設し、クルニー美術館の学芸員エドモンド・デュ・ソムラーに監修を依頼しました。

彼女はガレ家の作品にとっても興味をもったそうです💞

実際その直後にいくつものガラス陶器を注文したそうですよ。

イギリス滞在中、ガレは園芸の知識をも深める努力をしていました。数々の庭園を訪れ、その中にはロンドン、いや世界中で最も有名な庭園の一つともいえるキュー庭園がありました。

ジュル・ヘンリボーによれば、ガレはこのロンドン訪問時に、ロンドンのとある庭園にて上記のエドモンド・デュ・ソムラーが企画した小さな展示会を訪れていたと伝記の一つの中に記されているそうです。

ガレは中国のタバコ入れやガラス製品、また日本の器、イスラムの器などに大変興味をもったそうです。

中国の器で、白と緑の2層になっており、カメオによってかたどられた蜻蛉の模様が付いたものがありました。

これは現在でもヴィクトリア&アルベール美術館で観る事ができます❗️

1871年にはサウスケンシントン美術館にも展示されたことのある作品で、ガレの興味をそそったに違いありませんね〜。

アラスター・デュカンジョージ・ド・バルサによれば、ガレはブリティッシュ美術館を訪れていたそうです。

そこでガレは紀元前1世紀に作られたポートランドの器を見ました。この器は底に2層の青、外側に白い層があり、人の形がカメオで型とられているもので、中国の器同様、ガレに大きくインスピレーションを与えたものと思われています。

実際のところ、ジュール・エンリヴォーが断言するように、ガレは1884年にこの創作テクニックを使って一つの作品を作っているんですよ〜。

ガレはロンドンにて2つの科学書を購入しました。

一つは1855年出版の『ロンドンの植物辞典』、もう一つは1871年8月18日に購入したシャーレイ・ヒルブレッド著の『シダの庭園』です。

この2つの本はガレ本人の手で書かれた注訳があちこちにあり、彼の個人図書の一部として大切にされていました。

ジュール・エンリヴォーによれば、ロンドンからフランスに戻ったガレはルーブル美術館のアポロン像のコーナーにある天然クオーツの作品の前で、もしくはジョセフ・ブロカーのアラビアランプやユージェーン・ルソーの器の前でうっとり💞していたそうです。

イタリアとスイスの植物との出会い

エミール・ガレは1877年にイタリア旅行に出ています。

彼は1877年9月9日にナンシーを発ってから、ストラスブール、コルマー、ムルーズ、そしてバールを通っています。それからアルプス山脈を越えてスイスのルツェルン、そしてアンデルマットの谷を通って1877年9月13日に、マジョーレ湖に面するイタリアのイントラに入りました。

このナンシーからイントラまでの旅路は細かい記録があって、特に植物学の面では著書『園芸と南アルプス山脈の斜面』の一部で詳しい記述が残っています。

また彼のイタリア滞在中の事もこの本の別の部分で、同じく詳細に渡っての記述があります。

それだけ、印象深い旅だったってことかもしれませんね🎵

ガレはイントラやパランツァにある数々の庭園を訪れています。イントラにあるトルベツコイのヴィラは特に彼の興味をひいたそうです。

  1883年7月、ポール・クルルは妻と従兄弟と共にスイスアルプスを訪れる旅に出ました。その旅にはガレも参加していました。

この旅はラウターブルンネンのプロのガイドであるウルリッチ・ロエナーが同伴していて、その彼はユングフラウやアイガーの登山のスペシャリストでした。

ガレはこの登山時に数多くのアルプスの植物を採取していました🌱

彼は標高3000m以上の場所への登山を何度も行っていて、その一つ、1883年7月30日には雪の中を4時間以上も登って、バルムホーンの標高3688mのところまで行っているそうです!

そしてイタリア旅行の際と同じく、この滞在中に何枚ものクロッキーを残しています。

1880年8月、彼はベルギーにいて、ブリュッセルの美術館およびアンヴェールの美術館を訪れていました。

1883年10月には再びドイツに滞在しており、バイエルンとプファルツを訪問しています。

1885年4月にはクンストワーブ国立美術館に保管されている中国陶器を見学するためにベルリンを再び訪れています。

1892年8月15日から21日まではモーリス・バレスと、詩人のピエール・ロイスと一緒にバイルートに行っています。

1894年8月7日から15日までは、フランス植物学協会とスイス植物学協会が共同で開催した登山に参加するためにスイスを訪れています。この2つの協会が共催した貴重なイベントはジュネーブ、ヴィルヌーヴ、マルティニ、ゼルマット、グランドーコンバン、ホーンリ、シンプロン、ローザンヌで行われたそうです。

その後もガレはフランス国外への旅を何度も行き、そこにはフランクフルトやブリュッセルもありました。

オズワルド・ケルショフ=ド=ドンテルガムに誘われて、ガレはきっと1898年4月にヘントを訪れていたと思われています。

1899年3月にはスイスのジュシーを再び訪れていて、そこでは植物学者のマーク・ミッシェリ宅に滞在していたそうです。

ずいぶんと沢山の旅をしていますね!

これらの数々の旅はガレに確実に影響を与えているはずです❗️

そしてなによりも、最初のザクセン=ヴァイマル公国の訪問が、芸術と科学という2つの興味のきっかけになったのだと思います。

ヴァイマルへの出発前、ガレはまだ自分の人生について決めかねていました。

(まだ高校卒業したばかりの若者だから、当然ですよね〜)

けれど父親であるシャルル・ガレのおかげでザクセン=ヴァイマル公国に行く事が出来て、そこで、ゲーテの時代から芸術と科学が共存する社会の中心で成長することが出来たんでしょう。

アマゾン探検家、ジュール・クレヴォーとの友情

旅行を好み、地理学を好み、さらには海洋学にも興味を持っていたガレは、ナンシーの地理協会のメンバーになりました。協会が主催する講演会には積極的に参加していたそうです。

ガレはそこで、フランス領ギアナから戻ったばかりのジュール・クレヴォーと出会い、1879年に南アメリカから戻った彼がナンシーで開催した講演会に参加しました。

この時、ジュール・クレヴォーは南アメリカから連れて来たネイティブのアパトゥを紹介したそうです。

ガレはこの新しい世界を知った事にとっても感激して、さらにクレヴォーは自身が描いた絵画や、探検中に採集した熱帯の植物や昆虫のサンプルを披露し、ガレはすっかり虜になったそうです💞

ガレはこの新しい知識を後にガラス作品や木製作品の中にアイディアとして取り入れています。

中でももっとも美しい作品の一つに、1900年の国際見本市に出品された器『ギアナの森』があります。この見事な作品は、アマゾンのオヤポック川でネイティブに殺害されたジュール・クラヴォーに敬意を示したものだったそうです😿

第3章

人生、そして社会への想い

ガレはとっても繊細な心の持ち主で、宗教や社会と自分の距離感なんかについても人一倍、考えに考えて出した答えがあったと思います。

同時に、ガレには常に近くで支えてくれる家族や友人がたっくさんいたんです💞

もちろんその存在は、ガレ自身がとっても魅力的だったから故のことなんですけどね💞

その家族や友人達の中には、こんな人々がいました:

ガレの最初の家庭教師だったヴァージニ・モーヴェ、敬虔なカトリックな友人ポール・セニェレ、義理の父親でありビシュヴィラーの牧師だったダニエル・グリム、彼の妻ヘンリエット・ガレ=グリム、 義理の姉エリーズ・シャロン=グリム、 義理の従兄弟シャルル・ケラー、そしてその妻のマチルド・ロードゥラーなどです。

そしてきっと、この中のヴァージニ・モーヴェが彼に社会の非同調主義というものを教え込んだんでしょうね。

彼女は1855年まで、つまりガレが9歳になるまで家庭教師をしていた人なんですよ✨

1865年に高校を卒業したガレは、頭の中からどうしても離れない社会への疑問を、友人であるポール・セニェレにぶつけていました。当時ブルターニュ地方でドレニュックの城のドレネイ伯爵の子息の教育係をしていたポール・セニェレはそれに答えようと、1865年12月20日に手紙を送っています。

けれど、ガレはこの布教師ポールの言葉に全く納得できませんでした(涙)

『エミール、哀れなエミールよ。純粋と微笑みの人生の中で得たその美しさと幸福をすっかり失い、かわりに疑惑と試練に覆われてしまった。彼ほど気高く純粋な心を持ち、誰からも愛される彼が、そして私の大切な友人であり、イエス・キリストの元では親愛なる兄弟である彼が!神よ、彼は私がナンシーにいた頃の古い同級生達のうちの一人なのです。彼らの狭量によって判断され、影響を受けて、エミールはすっかり我を失ってしまったに違いない。彼はプロテスタントだが、純粋な心を持ち、彼にとって神はすべてだった。愛するということが、彼にとって最高の幸せだったのだ。だがすべてが変わってしまった。』

ポールはガレに直接答える代わりに、に助けを求めたんですね〜。

そこで、ガレの母親ファニー・レンメールはガレの本心を説明しようと、ポール・セニェレに手紙を書きました。

そのことについては、1865年12月にガレが母に宛てた手紙に書かかれていました。

『あの哀れなポールに手紙を書いてくださってありがとうございます。きっとたくさんの良い事、正しい事が書かれていることと思います。もうすぐ彼からの返事がくるはずです。私はそれを楽しみに待っていますが、ポールが感じている悲しさを想像すると、そんな楽しい気持ちは失せてしまいます。』

相手の気持ちを常に考える、繊細かつとっても優しい人なんですね、ガレは💞

1866年、ポールとヴァイマルにいる エミールと相変わらず文通を続けていました。そしてポールは相変わらず彼を改心させようとしていました。

ある時ポールは『l’Ecce homo du Guide』の写真を一枚送って来たそうです。それはポール自身がカトリックに目覚めたきっかけの一つだったのですが、ガレはその写真を捨てる事なく手許に置いてはいたが、それに対して返事をすることはなかったそうです。

これからもわかるように、ガレは熱心なキリスト教信者ではありませんでした。

反教権主義が盛んになっていた当時、エミール・ガレは共和主義に傾向していましたが、でもそれは宗教を否定するという事ではありませんでした。

ナンシーでの高校生活の最後の頃とヴァイマルにいた頃に彼の信仰心が揺らぐ時期があったとしても、1904年8月31日にジュール・ヘンリヴォーにあてた『最後の手紙』からみてもわかるように、ガレは間違いなく死後の世界の存在を信じていました。それに、ガレはその生涯でずっと、偉大な言語学者であったアントナン・シルベストル=ド=サシーの聖書を大事に持っていて、始終その聖書を開いては調べ物をしていたそうです。

寛容かつ人間中心主義の街、ビシュヴィレール

ガレが共和主義にのめり込んでいったことは、後になって彼の妻ヘンリエット・ガレ=グリムとその家族に大きな影響を与えた”きっかけ”とも言えるでしょう。

ヘンリエット・グリムは、アルザス地方の北部に位置するウィッセンブールの小さな村、クレーブールで生まれました。彼女の父親、ダニエル・グリムはミュルーズで生まれ、ストラスブールとボンヌにおいて神学を学びました。1845年11月20日、彼は同じくミュルーズ出身のキャロリン・ケラーと結婚し、リナヘンリエットマーガレット、そしてエリーズの4人の娘をもうけました。

当時は子だくさんだったんですね〜🎵

ダニエル・グリムは1843年から1851年までクレーブールの牧師を勤めていました。その後1851年から1903年に亡くなるまでは、ビシュヴィレールの教会に従事していました。くじけることなく人権を守り続けるその姿勢、そして寛容でありかつ広い視野をもった、まさしくビシュヴィレールのそれに同調するその姿勢に、ガレは義父を心から尊敬していたそうです。

その頃フランスの宗教戦争に続き、そしてナントの勅令が取り消された事で、多くのユグノー教徒達がビシュヴィレールに難を逃れてやって来ました。

なぜビシュヴィレールに?

ビシュヴィレールでは心おきなく彼らの宗教活動を行う事が出来たからです❗️

1648年に調印されたヴェストファーレン条約の中で、フランスの国土の一部であるアルザス地方においては当時の国王ルイ14世はいかなる宗教活動に対してもそれには一切干渉しない、としているんです。

ビシュヴィレールでは、今でもフランス系およびドイツ系カルヴァン派やルター派の信者達が、ぶつかる事なく共存しているそうです。

異なる信仰心を持つ人々の桃源郷ですね‼️

ダニエル・グリムが牧師を勤めていた頃、同じ教会では日曜日のミサを2度に分けて行っていたそうです。一つはアルザスとロレーヌ地方の改革派のため、そしてもう一つはルター派のためのミサ。

ダニエル・グリムが聖職について50年を記念したセレモニーの際には、小教区に住む住民達は、ガレがイメージしまた制作した家具『精神の果実』を彼に贈呈したそうです。

彼がどれだけ住民達に愛されていたか、わかりますね〜♪

ダニエル・グリムは司祭のための大きな家に住んでおり、そこには簡素かつ平穏な空気がいつも流れていました。ダニエル・グリムとキャロリン・ケラーはその家で、開かれた視野と寛容というビシュヴィレールの伝統およびプロテスタントという宗教の環境において、4人の娘達を育てあげました。

娘達やその友人達、その中には将来シャルル・ケラーの妻になるマチルド・ロードゥラーもいましたが、彼らの革命的な意見の数々に全くもって動じることなく、ダニエル・グリムは耳を傾け、笑顔を見せながら頭を横に振っているだけだったそうです。

1875年5月3日ビシュヴィレールにてエミール・ガレと結婚したヘンリエット・グリムは、教育係としての2つの経験を持っていました。一つは1870年から1871年にかけてイギリスのロンドンにて、とある裕福なイギリス人家庭で2人の子供達の教育係として働いていた経験です。イギリス滞在中ヘンリエットは家族から新聞を送ってもらっており、アルザス地方がドイツ軍に占領されたというニュースを絶望的な気持ちで知ることになったのです。

ガレ=グリム家族とイギリスとの関係は長く続く事になります。実際、ヘンリエット・ガレ=グリムの一番上の姉リナはミュルーズの銀行員グスタヴ・クリストと結婚し、彼らの3人の娘のうちの長女エレーヌは、イギリスに支店のあるスイス銀行の行員アルフレッド・バートーと結婚しています。ガレとヘンリエットの娘達の一人であるルーシーは、後にポール・パードリゼの妻となるのですが、従姉妹であるエレーヌ・クリスト=バートーを訪ねて頻繁にロンドンに行っていました。

現在でも、グリム家、クリスト家、バートー家の多くの子孫がイギリスに住んでいるんですよ‼️

政治の戦いにおける家族の連帯

ガレ=グリム家とグリム=クリスト家のつながりは、ガレおよびヘンリエットのドレフュス事件とのつながりと関係がないとは決して言えないでしょう。

エミールとヘンリエットの義理の兄グスタヴ・クリストはミュルーズにおいて大きな影響力を持つ人物で、ドレフュス家族やアルザスの上院議員オウグスト・シュレー=ケスナーの家族とも深い繋がりを持っていました。ヘンリエットは、彼女の夫のドレフュス事件での戦いに共感し、この事件に関わる重要人物達への手紙を書くという負担を自ら背負いました。

それに彼女は生涯、恵まれない人々へ手を差し伸べる事をやめなかったそうです。共和主義者として、彼女は社会の不公平を絶対に許しませんでした。

彼女はしばしば人権保護同盟の活動に参加しており、個人的にナンシー支部の創設にも携わっていたそうです。そして夫が病に倒れると、彼の跡を継いで秘書の仕事を引き受けました。『L’Etoile de l’Est 』誌の敬虔な読者として、彼女はしばしばフォルケホイスコーレ(成人向け教育機関)の講義に参加していたそうです。ナンシーの教会のクレーズ牧師は1914年4月に執り行われた彼女の葬儀に顔をだしています。この葬儀にはプロテスタント信者、カソリック信者、宗教者達が揃って出席しており、この一人の女性の寛容さ、偉大さを物語っていました。

内助の功!ヘンリエットあってこそのガレだったんですね〜✨

ヘンリエット・ガレ=グリムの妹、エリーズ

グリム牧師の4人の娘の中で一番年下で、そしてエミールの妻ヘンリエット・ガレ=グリムにとって最も近しい存在だったエリーズは、フロシュヴィラーの戦いで負傷した人々を介護する仕事に献身的に従事するようになり、そしてすぐに政治にも興味を持つようになりました。

1872年に数ヶ月間ロンドンに滞在していた際、フランスに戻っていた姉による影響もあってか、20歳だったエリーズは国際労働者協会(むしろ第一インターナショナルという名で有名)の一員となりました。この協会は1864年にロンドンのカール・マークスの教会の元で発足し、彼は協会の第一秘書に就任しました。

アルザスに戻ったエリーズ・グリムは、その地に進駐していたドイツ人達の存在にどうしても我慢ができず、パリに移住することにしました。そこで彼女はフォーノー通りの幼稚園の校長となり、 パリ・コミューンに従事し銃殺されたり投獄された親を持つ孤児達を援助する活動を始めました。

素晴らしい活動です✨

1881年、彼女は弁護士でありかつ作家でもあったポール・シャロンと結婚しましたが、なんと、なんと!彼はその結婚のたった1年後にビシュヴィラーにて亡くなってしまったのです😢

エリーズ・シャロンはその悲しみを乗り越え、フォントネイ・オ・ローズの高等師範学校の就職試験に応募し、見事に合格しました。

心の強い人ですね!同じ女性として、尊敬します〜✨

ムランとグルノーブルの師範学校においてドイツ語の教師および歴史の教師としてしばらく働いた後、彼女はナンシーのミュート・エ・モゼル師範学校に教師として任命されました。

そこでは、彼女はドレフュス事件の際には正義を守るための戦いに従事し、かつナンシーの第一インターナショナルで講義や講演会を開催していたそうです。

ところで、エリーズ・シャロンは1900年までアンドレ・レオ(仮名はレオディル・ベラ)と文通をかわしていました。アンドレ・レオはジャーナリスト兼作家でもあったシャンセークスの妻であり、パリ市民の中の女性の中で重要な位置にいたそうです。また、彼女は女性の権利を求める会の創立者でもあるんです。他にもエリーズ・シャロンは1914年まで、作家でありパリ・コミューンを支持していたルシアン・デスカヴとも文通していました。

大戦時には、エリーズは再びナンシーの空襲で傷ついた人々の介抱に従事することになります。そして大戦で疲れ果てたエリーズは、1928年にやっと故郷であるアルザスに戻る事ができまたそうです。

良かった〜✨

革命的かつパリ・コミューン支持者であるシャルル・ケラー

シャルル・ケラーはヘンリエット・ガレ=グリムの従兄弟にあたり、彼女の母でもある、シャルルの叔母キャロリン・ケラー同様ムルーズにて誕生しました。シャルルの父親は版画家でした。シャルルは頻繁にビシュヴィラーにある従姉妹ヘンリエットの家に遊びに行き、そこで彼女と共に正義と自由にあふれた新世界に夢をはせていたそうです。そしてそのビシュヴィラーの司祭館にて、牧師の娘達の友人だったゲブヴィラー出身のマチルド・ロードラーと出会いました。

本人達はまだ知らないけれど、実はこれ、運命的な出会いなんです💞

シャルル・ケラーはムルーズの専門学校で学んだのち、一般技師として資格を得る前にストラスブールでも学んだそうです。その後彼はアルザスの製糸工場の工場長に就任しましたが、オーグスト・シュレー=ケスナーと親好があり、反体制主義の新聞を配布したと密告されたことから、1868年にその職を手放さざるを得なくなるんです。

その後芸術や文学、社会問題に目覚めたシャルルはアルザスを離れ、それらの中心にある首都パリへと移住しました。

そこで彼はミハイル・アレクサンドロビッチ=バクニンエリゼ・レクリュといった無政府主義の理論家達と親しくなり、彼らと共に第一インターナショナルに認められた民主社会主義の国際団体を設立します。

のちにシャルルはカール・マークスの『Capital』の翻訳を手がける事になるのですが、戦争によってその仕事を全うすることは出来ませんでした。

彼は1870年のフランス国防軍の一員となり、その後アルザス=ロレーヌ地方に任地をうつすことになります。

フランスの降伏後、シャルルは1871年5月10日にパリに戻ってきました。そしてパリ・コミューンの反乱部隊の一人として参加し、5月25日木曜日、シャトー・ド通りのバリケードにおいて負傷してしまいます‼️

この時、負傷したり殺害された男達が皆引き戻されたあと、そこには女性達は代わりに立って、『パリ・コミューン、万歳!』と声をあげて戦ったそうです。それでも数で劣っていた彼女達はあっという間に鎮圧され、生き残った52名は捕まり、政府軍によって処刑されてしまいました😢

バリケードの鎮圧と同時に、移送されていたけが人達はその道中もしくは搬送されていた病院においてただちに処刑されてしまいました。

裁判所も容赦なく、パリ・コミューンの参加者達は即刻死刑、逃れようとした人達もその場で銃殺されたそうです。

1万3千人ものパリ・コミューン参加者がブレストの牢獄に投獄され、そこでの対応は本当に非人道的なものだったそうです。

記録では2万から2万5千人がまとめて埋葬されたり、街路下水に投げ捨てられたとされます。

フランスの歴史の、汚点ですね。。。。

それでも、パリコミューンの反乱はそこでやむことはありませんでした‼️

1871年4月、彼らは今度は聖職者達に対して怒りを爆発させました。

ポール・セニェレはイッセイ=レ=ムリノーのサン・スルピス神学校の生徒であり、そこは4月5日に反乱軍の中心団が集結した地でもあったのです。生徒達はひとまず学校のパリにある施設に一時的に集められ、その後パリを逃れることになるのですが、ポール・セニェレと7名の同僚たちは例外で、その地に残ることにしました。彼らは数日後に逮捕され、マザスにある勾留所にまず収監され、その後パリのグランド=ロケット監獄に収監されてしまいました。

牢獄の中から両親に宛てた手紙にこう書かれていることからもわかるように、数週間の間ポール・セニェレは死を覚悟していたようです。

『私の人生は幸せだったとあなた方に断言しましょう。すべて神のご意志。今はただ、人生の中で最も静で平穏な時を待つのみです。』

これ、両親に宛てた感謝とお別れの手紙ですね。。。

『人権とは何ともみじめなものだろう。それのために大砲が火を噴き、同胞の血の海の中でその存在を訴える事しか出来ない。そもそも人権とはそれと相対した情熱の中で生まれるものなのに!』と、神学校の上司に宛てた手紙には書かれていました。

1871年5月26日、反乱メンバーによって牢獄の外に連れ出されたポール・セニェレはアクソ通り85番地、まさしくパリコミューンの最後の暴動が起こった地で、太ももに銃弾を受け死亡してしまいました。

エミール・ガレは、彼の高校の同級生であり、若くしてこの世を去った友人を決して忘れる事はなかったのでしょうね。

1900年5月17日、スタニスラスアカデミー(学会)の式典にてスピーチをした際、この事件から40年近くもたっているにも関わらず、ガレは『ポール・セニェレの殉教』について触れているんです。

彼はまたもう一人高校の同級生だったユベール・ゾーフェルについても言及していました。彼もまたこの悲惨な惨劇の被害者の一人だったんです。。。

ガレにとっては親族として近しい人物になるはずだったのにこの暴動で負傷した、パリコミューン支持者だったシャルル・ケラー、反乱メンバー達によって殺された親友のポール・セニェレ。。。

ガレの友人という共通点がありながら、両極端な立場で傷ついた二人。。。

この相対する勢力の間で起こる悲劇は、ガレの生涯渡ってずっと影響を及ぼしていたことは、あえて言うまでもありませんよね。

パリコミューンの反乱の後、シャルル・ケラーはガレの手伝いでナンシーに居を構える

ところで、皆さんお気づきでしょうか⁉️

シャルル・ケラーはパリ・コミューンの暴動時に負傷しましたが、亡くなってはいません‼️

シャルル・ケラーはどうやってこの殺戮を行き逃れる事が出来たのでしょう⁉️⁉️⁉️⁉️

実は、彼はとってもとってもラッキーだったのです✨

奇跡的に怪我から回復したシャルルはスイスに逃亡しました。

逃亡が成功したのも、ムルーズに住む家族が手助けしたからでしょう。

バールにしばらく滞在したシャルルはそこでエリゼ・ルクリュと合流しました。エリゼは1871年4月3日に終身刑の判決を受けていたが、世界中の科学者達による減刑の嘆願書のおかげで10年の刑に減刑されていたんです。

マチルド・ロードラーはスイスにいるシャルルに合流し、1876年結婚しました。

そう!ビシュヴィラーの司祭館で出会った、彼女ですよ〜💞

彼女は音楽をこよなく愛していて、また夫であるシャルルの考えにも共感して、1871年11月12日、バクーニンとエリゼ・ルクリュによってソンヴィリエにて発足したジュラ地方連合会にも参加しています。

ちなみにシャルル・ケラーは、『ラ・ジュラシエンヌ』の歌詞の作者なんです🎵

それはあとになって自由主義かつ第一インターナショナルの歴史活動家であるジャム・ギヨームによって音楽をつけられた歌なんですよ。

多才な人ですね〜!

マチルド・ロードラーはアンドレ・レオの友人でもあり、1870年から1895年まで文通を交わしていました。

マチルドは1776年創始のルイ・ロードラーのメゾン・ド・シャンパーニュの資産を持っていて、彼女の相続人であるルイ・ロードラーは1876年にはロシアの皇帝アレクサンドロ2世のためにキューヴェ・ド・クリスタルを作ったんですよ‼️

また1909年には同じくロシアのニコラス2世が、彼らのシャンパーニュをロシア皇帝に献上されるシャンパーニュとして認定したそうです。

彼女、すっごいすっごいお金持ちだったんです〜!

彼女の持つ資金のおかげで、何年か後にナンシーに『市民の館』を開設することも出来ました。

シャルル・ケラーとマチルド・ロードラーは、ムルーズに併合されたアルザスに馴染もうと努力をしてきました。

だけども1879年11月20日、彼らは『フランス人であり社会主義者である』という理由から、その地から追放されてしまい、再びジュネーブに戻る事となってしまうんです。

パリ・コミューンの反乱の後、シャルル・ケラーはフランスに戻る事を決め、妻と共にベルフォーに移り住みました。そして1892年には、ナンシーのモンテ通り77番地に、すでにそこに住んでいた従姉妹のエリーズ・シャロンとヘンリエット・ガレ=グリムと共に生活を始めました。

妻であるマチルドの持つ資産のおかげでシャルルはお金に困る事はなく(ラッキー!)、政治活動は相変わらず続けていました。

彼は1902年、アルベール・シュニーガンと共に『自由思想主義』をナンシーにて設立。

自由思想とは、偏見やドグマ、拘束などを一切拒否した考えで、シャルル・ケラーはその一生をかけて人権にとって最良な社会を目指していました。また執筆にも力を注ぎ、ジャック・ターバンという名で詩を書いては発表していたそうですよ。

音楽家としても才能があり、後に有名になった『権利の歌』の作詞作曲も手がけたそうです。

民主主義:ガレの近しい人々の思考

マチルド・ケラー=ロードラー、エリーズ・シャロン=グリム、シャルル・ケラー、そしてヘンリエット・ガレ=グリムという、自由と正義をめざし共にビシュヴィラーの司祭館で学び、また女性や労働者達の立場に立って社会を見つめて来た人々がナンシーにて再度集う事となりました。

パリコミューンの際の主張が彼らの心に取り付いたように、ガレもこの義理の家族の考えはとても魅力的なものだと考えていました。

でもガレは彼らに賛同することはなかったんです。

その義理の家族の親世代の人々と同じように、ガレは共和国の持つ一番の価値、民主主義というものを大切にしていました。

よってガレは一度もプロレタリアの独裁的な主張に賛同する事はなかったんです。

それでも、ただ唯一の共通点である『自由』という主張を元に、ガレ、グリム、ケラー、シャロン、そしてロードラー一族は不正義と抑圧による様々な出来事が起こった時代を、離れる事なく常に固い絆で結ばれながら一緒に過ごして来たんです。

その後この一族にポール・ペルリゼという若者が加わる事になります。

彼はロレーヌ地方青年連合の会長であり高等師範学校に一番の成績で入学した才子なんです‼️

そして労働者階級の人々に勉学を教えていたこの素晴らしい✨若者は、シャルル・ケラーとエミール・ガレと共にフォルケホイスコーレの設立に関わった事で彼らと出会って、1906年にはガレの次女ルシールと結婚しています。

クラフーニョでのソワレ

政治にどっぷりのめり込んでいたガレ一族でしたが、それでもユーモアを忘れることは決してなかったんですよ🎵

シャルル・ケラーとエミール・ガレは『クラフーニョ』とふざけた名前のついた団体に所属していました。

ロレーヌ地方で『クラフーニョ』もしくは『クーニョ』とは、ほうきなどの掃除に使う道具を片付けておく場所の事を意味するんです。

街にあふれるホコリやゴミ(。。。的な思想)を掃除してきれいにしよう、という意味を込めてつけた名前だったそうです🎵

その集まりでは何人かの友人達がドミニカン通り47番地にある飲み屋の裏の部屋に集まり、この世をなんとかして創り直したいと願う彼らは、ビール🍻を浴びるように飲むという、どちらかというと和やかな雰囲気の中で、夜な夜な話し合っていたそうです。

そんな雰囲気でも地方政治や神秘学の哲学、芸術などについて議論を交わす事もあったそうですよ。

参加者の中にはエミール・ガレの他、シャルル・ケラー、『クラフーニョ』の名を思いついたモーリス・バレシャルル・ゲランエミール・ヒンズランカミーユ・マータンレオン・トヌリエーヴィクトー・プルヴェ、ジャーナリストのエミール・ゴティエ=ヴェルノル、音楽家のギー・ロパーズジャン・グリヨンなどがいて、彼らは定期的に集まっていました。

参加者はナンシーの人間に限られたものではなくて、たまたま近くに来る機会のあった、開かれた精神の持ち主達が参加しては彼らと議論を交わしながら夜を過ごすということもあったようです。その中にはロジャー・マークス、パリの作曲家ヴァンソン・ディンディシャルル・ボードなどがいたそうです。

またこの飲み屋はレネ・ウィナーの本屋に隣接していて、その本屋ではヴィクトー・プルヴェ、高島得三(北海)アンリ・ロワイエエミール・フリアンカミーユ・マータンルイ・エストーなど様々な才能ある若い芸術家達の展示会を開催していたんですよ。

ガレはナンシーでも、様々な異なる社会的立場の人々と実に豊かで堅実な友好関係を持っていました。

次の章では、そんな彼らとガレの出会いがナンシーにもたらしたことについて、ふれてみたいと思います🎵

第4章

パリ社会の中心にて

ガレはビジネスやプライベートな用事でしょっちゅうパリに行っていたみたいです。

最初はプチ・エキュリー通りの34番地にアトリエ兼お店があったのだけれど、

そのあとマースラン・デギュペルスさんのおうち、1886年7月1日からはリシェー通り12番地に移転しました。

デギュペルスさんが亡くなってからは彼の息子のアルベールが引き継いで色々世話をしたみたいなんですが、やっぱりパリで成功するには、お店1軒持つくらいじゃダメなんですねー。

もっとパリジャンやパリジェンヌ達と直接知り合って、もっともっと興味を持ってもらわないとダメみたいです。

それに、批評家の人達の意見も大事でした。専門雑誌や色んな分野の雑誌や新聞でいっぱい取り上げてもらって、有名になる必要があったんですね。

ガレって優れた芸術家だっただけじゃなく、すっごい博識だったんです✨

政治家の知り合いもいっぱいいたし、作品にも多く使われてる植物の検証のために、植物学の専門機関の紹介でいろんな学者と知り合いで、『パリでのお友達リスト』みたいなものまで作ってたんですって‼️

ガレにはロジャー・マークスっていう一生の大親友がいました。

この人、ガレが成功するために芸術批評家たちに紹介したり、色々手を尽くしてくれた人なんです。

いいお友達を持って幸せですねー♪

マークスは1859年8月29日にナンシーで、ユダヤ人商人の家庭に生まれました。

ナンシーの国立高校に通っていたけれど、一般的な教育に不満があって、卒業してからは雑誌なんかの編集の仕事に着いたんです。

その中には『ナンシー アーティスト』っていう美術雑誌もありました。

ガレとマークスが知り合ったのもちょうどその頃みたいです。

でもマークスは転職して、パリの美術官庁管轄の仕事につきました。大出世

そこからガレとマークス、数えきれないくらいの数の文通スタートです♬

ナンシー出身美術批評家ロジャー・マークスの助け

 1883年3月28日、ガレの最初の手紙がマークスに届きました!

そのあと、1884年に開催された第8回装飾美術品展覧会に出品したガレの作品を紹介する記事をマークスは書いてるんです。

いよいよロジャー・マークスの出番です!

マークスさん、美術館の監視官長なんていう大役について、1889年のパリ万国博覧会(パリ万博)の一貫のフランスアート展覧会の総責任者になったんです。

これでマークスさん、一気に有名人になりました❗️

1902年には『ラ・ガゼット デ ボーザール』の編集長に就任。

1903年にはパリでの『サロン・ドートンヌ展』の創設メンバー。

1909年、彼は初めて”ソーシャル・アート”という言葉を使いました。

マークスはエドモンド・ゴンクールにすごく影響されていたみたいです。

1913年1月 マークスは『ソーシャル・アート、アート、そして産業』と命名された会議の場で、芸術の統一性を強く訴えたそうです。

そしてその同じ年に、亡くなりました😿

生前の1892年、マークスはフランスの第三共和政に、もっと新しいアートのコンセプトを取り入れた新しいコインを作ろう!と提案していました。

画期的な意見ですね!

だって、小さなコインならお金持ちだけじゃなくて貧しい一般市民の手にも渡るから、

芸術をフランス中に広めるいいチャンス💞

マークスから提案を受けた、ほやほや新米の経済大臣、ポール・ドゥメール

銅貨にはカプラン、銀貨にはルイ・オスカー・ロティ、そして金貨にはジョン・バティスト・ダニエル=デュピュイという3名の彫り氏を雇って、それぞれに共和国を象徴する新しい3つの肖像を彫らせました。

ちなみにこのルイ・オスカー・ロティが創った女性の肖像が、今のフランスのシンボルになってるんですよ!

若い女性の横顔で、その髪が風に吹かれてフリジアン帽からはみ出して揺れている様子。

皆さんもきっとどこかで見た事があるはず!な、あの女性の横顔ですよ〜♪

フランス革命や農地への種まきの際の大きな動き、種がフランスの未来に希望をもたらすイメージを共和国に与えた肖像。

女性、自然、そして社会的関心という3つのシンボルと共に、アール・ヌーボーはすっかりフランス第三共和国の一部を担う大事な存在になっていました。

ロジャー・マークスはその一生の中で何人ものその時代の偉大な芸術家達と知り合ってました。

マークスは芸術作品の収集家で、彼の収集作品の中にはエドガー・デガスエドワー・マネ、ユージェーン・キャリエールアンリ・ファンタン=ラトゥールアンリ・ドゥ・トゥールーズ=ロートレックポール・ゴーギャンクロウド・モネオーグスタン・ルノワールピエール・ボナーエドワー・ヴイヤーなどの絵画やデッサンが、オーグスト・ロダンの彫刻やエミール・ガレのガラス作品と共に並べられていました。

いや〜、すごい顔ぶれですね〜。美術館並みの収集です❗️❗️❗️

彼が亡くなったあとの1914年5月1日、この作品たちはあちこちに売却されてしまいました。

かの有名なガラス花瓶シリーズ『Eaux Dormantes』(眠れる水)の中でも最初の頃に創られた作品は、マークスさんの息子クロウドによって買い取られ、今ではオルセー美術館のコレクションの一つとなっているそうです。

ロジャー・マークスさんが作ったアーティストのリストにはたくさんの名前があったけれど、中でもガレに関しては特別多くの記事を書いていて、ガレがパリのアーティスト界にデビューできるチャンスを作ってくれてたんです。

ガレはいくら感謝しても足りないくらい、恩恵に預かってたんですね❤️

  ロジャー・マークスが亡くなってからは、ジョンルイ・マリー・ド・ブセー・ド・フォーコー・ド・ボーマルシェ長い名前!)が彼の代わりになってエミール・ガレを支えてくれていました。

当初法律の勉強をしていたけれど、何を思ったか、ジャーナリストになる❗️と思い立ったらさっさとその勉強を諦めてパリに引っ越してきました。

  そしてなが〜い名前の代わりにジョージというシンプルなペンネームを使って記事を執筆していました。

その後1893年にド・フォーコーはパリ国立美術大学の美学および芸術歴史の講師に就任します。

彼のこれまでの芸術家に関する知識はとても豊富で、印象派や革新派の学生たちに様々な刺激を与えていたようです。

エミール・ガレはそんな彼のために、1894年『サン・グラール エ ソン タバーナクル』(聖杯と聖櫃)を作りました。

そしてド・フォーコーはその作品を『金に光り輝く琥珀とあふれる真っ赤な血に浸される聖なる杯』と評価したそうです。

そして1903年の『全時代のアーティスト』というコレクションで、ルイ・ド・フォーコーはガレのことをそれは詳しく詳しく紹介したんです。

エミール・ガレの最初の伝記の誕生です✨

ところでガレはロジャー・マークスのおかげでルイ=オスカー・ロティという人とも知り合っていました。

この二人、すぐに意気投合して仲良しになったんです。

ガレがパリに旅行で行った際にもこのルイオスカー・ロティ、そして画家のピエール・ピュビ・ド・シャバンヌ、そしてオーグスト・ロダンと会っていました。

ちなみにエミール・ガレがロダンに出会ったのはロジャー・マークスの仲介のおかげなのだけど、正確に言えばロベール・ド・モンテスキュー=フゼンサックという人の存在も実は大きく影響してるんです。

エミール・ガレはナンシーにおいてロダンを支える

  1840年に生まれたオーグスト・ロダンはガレと同世代で、

自然を愛する心や非凡なる作品を生み出す才能をガレと同じように持っていた天才でした。

ガレがロダンを賞賛していたことは、ガレが書いた手紙からもわかります。

1892年、事件が起こりました!

ナンシーのとある公園に一つの像を作る計画があり、そのコンペにロダンも作品を

出品したんですね。そして見事に選ばれたんです👏

だけど。。。いよいよ除幕式!という時になって、当時のフランス大統領サディ・カルノが

その作品が気に食わないと文句を言い出したんですよ。

ロダン、ショックですねー😱

ガレは『ル・プログレ・ド・レスト』(東部の躍進)誌や『ラ・ロレーヌアーティスト』

などの雑誌でロダンを擁護する記事を書いて応援したのだけど、すでに心痛めていたロダン、

これ以上話題にしないでほしいと、ガレに頼んだそうです。

そのあとロダンは仲のいい友達と一緒にレオン・ガンベッタバルザックが過ごした

ビル・ダブレイへの巡礼の旅に出ることにしました。

ガレも誘われていたのだけど、1900年のパリ万博の準備に忙しくてお断りしたそうです。

だけど。。。実際のところ断った理由は別にあって、ロダンがアンチ・ドレフュス派だということが本当の理由ではないか、と言われているんです。。。。

ドレフュス派って?? それについては後ほどお話しま〜す🎵

”繊細なアーティスト、エミール・ガレに尊敬の意を”―エドモンド・ド・ゴンクール

  ガレは本当に幸せものです✨

ロジャー・マークスだけではなく、エドモンド・ド・ゴンクールという人もガレが有名になるために一役も二役も買ってくれていたんです。

1896年7月26日出版の『ゴンクールとアートという職業』という記事を書いたガレ。

そこでこう語っています。

エドモンド・ド・ゴンクールとは12年程前(1884年の第8回装飾美術展覧会だと思われる)に知り合いました。

1884年12月ガレはゴンクールの自宅で、中国の北京にある夏の宮殿からきたという

タバコケースを見せてもらったそうです。

そこでガレはその貴重なタバコケースを手に取ってみる事を許されたとか❗️

二人の信頼の深さが見られますね〜。

このあとも二人は何度も会っていて、時にはオーテイユにあるゴンクールの自宅、

もしくはゴンクールが長年1880年以来仲良くしていた作家&詩人のロベール・ド・モンテスキュー=フゼンサックがはじめたサロンだったりという場所で会っていたようです。

   その後もガレとゴンクールは長い間文通をしていました。

1885年に出された『ジュール・ド・ゴンクールの手紙』という文集に寄せた献辞の中で、ゴンクールはこう書いています。

『繊細なアーティスト、エミール・ガレに賞賛の意を。パリに来られる際には是非食事をご一緒したい。エドモンド・ド・ゴンクール』。

ガレにとってみたら、最高に嬉しいお誘いですね❤️

ちなみにその文集のタイトルにあるジュール・ド・ゴンクールとはエドモンド・ド・ゴンクールの弟の事です。

エドモンドはナンシーで生まれたけれど、ジュールは1830年にパリで生まれました。

ジュールは病弱で、両親が亡くなったあとも兄弟はずっと一緒に暮らしていました。

1870年に母方の遺産を相続した兄弟は、俗社会やブルジョワジョー(階級社会)を嫌って、オーテイユに引っ越して、その周りに昔なつかし18世紀の風景を作っていったそうです。仕事もやめて、遺産で最低限の暮らしは確保しつつ、絵画の世界に没頭していきました。

現代社会を嫌って避け、昔の面影を再現しながら生活してた二人ですが、その再現には現代芸術職の助けが必要だったんですよね。

彼らの意図とは別にその現代技術の質の高さを世間に広める結果になるなんて、皮肉なことですよね。

実際彼らがやった事は、アール・ヌーボーに大きな影響を与えたんです。

ガレもゴンクールに宛てた手紙でこう書いていました。

『あなたは、ご自身が現代の芸術家達に与えている影響の大きさに気付いていますか?』

  ガレはその後もゴンクールについてあちこちで記事を書いていました。

そこからわかるのが、ゴンクールは現代ヨーロッパの一般的な芸術作品には一切興味がなく、一度も購入したことがないということ。

ゴンクールは18世紀の東洋の芸術が大好きで、1863年頃から弟と一緒に日本の春画🇯🇵をコレクションしていたそうです。

現代アーティスト達にももっと理解を示してほしいとガレは何度もゴンクールに頼んだようですが、結局無駄足に終わってしまいました。

う〜ん、残念!

だって、本人は自覚してないのだけど、実はゴンクールは現代の芸術技術も大好き💞なんですよ〜!

たとえば、クリスタルガラスの作品。

そのガラス作品に、ナンシーの職人達が新しい技術で新しい風を吹き込むのを

楽しみにしていたそうなんです。

1894年4月11日、ガレの作品である蜻蛉の模様が付いた杯(『蜻蛉』)  を

ジュリア・アルフォンス・ドデ婦人に贈っています。

そしてその作品、現在は東京のサントリー美術館で保管されています🎵

 エミール・ガレとエドモンド・ド・ゴンクール、日本美術への共通した情熱

『伝統的なスタイルを保持しつつ。鋭い観察力、直接的で愛情にあふれ、そしてまた自然と調和している』という言葉からもわかるように、エドモンド・ド・ゴンクールは14世紀の日本美術をすっごく気に入っていました。

そんなゴンクールのお友達の中に、日本人の林忠正という人がいました。

林忠正は1878年にパリ万博の通訳としてフランスに渡ったままそこに移住。

そして日本美術の専門店を開いたそうです。

ゴンクールは林忠正に合計32通もの手紙を送っていて、二人は意気投合。

二人で葛飾北斎喜多川歌麿についての研究をしていたそうなんです。

またゴンクールはガレと同様に日本庭園も大好きでした。

二人とも『自然はデコレーションのひとつの鍵』と言うように、すごく大切にしていたんですね。

ガレは庭園愛好家として、オクタブ・ミアボーという人とも知りあいました。

二人は園芸に関する話題で盛り上がり、”ガレの目に情熱が燃え上がり全身でその興奮を表現する”(ミアボーの記事による)くらい、充実する会話になったとか。

時には話が盛り上がりすぎて、ナンシーで発見されたベゴニアの新種に関する話で意見が食い違い、議論になってしまうこともあったそうです。

  エドモンド・ド・ゴンクールは生前、多くの”時の作家”達を招待していたそうです。

その中の一部の名前を挙げると。。。

ギー・ド・モーパッソングスタブ・フロベールイワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフエミール・ゾラルイ=フランソワ・ヴイヨテオドール・ド・バンヴィルジュル・バーベイドルヴィリーフィリップ・ド・シェンヴィエレスレオン・クラデルレイナルド・ハンレオン・へニックアンリ・ミュルジェールロジャー・ド・ボーヴォワーテオフィル・ゴーチエ、また林忠正などなど。

文学史の教科書から出て来た名前ばっかり!

エミール・ガレはそんな彼らと知り合うチャンスをもらっていたわけです🎵 ラッキー🎵

  華麗な貴族モンテスキューは、ガレをパリの社交界に引き入れる

  ロベール・ド・モンテスキュー=フゼンサック伯爵とも親しくしていたガレですが、

その関係はロジャー・マークスやエドモンド・ド・ゴンクールとの友情とはちょっと違うものだったようです。

それでも実際ガレを本当の意味でパリの社交界のトップに紹介したのはモンテスキューだったかもしれません。

ロベール・ド・モンテスキューはメロヴィング朝の血を引く家系の生まれで、彼の先祖で最も有名なのはシャルル・ド・バツ=カステルモール

アルタニャンの領主で、アレキサンドル・デュマによって有名になった王家の三銃士のキャプテンだった人です。

皆さんにはダルタニアンという通称の方が親しみがあるかもしれませんね🎵

ロベール・ド・モンテスキューが亡くなる直前の1921年に、

自伝書『レ パ エファセ』(消された足跡)が出版されました。

その中で彼はガレとの関係について長ーく長く書き綴っています✏️

1884年、モンテスキューはジャック=エミル・ブランシュと一緒に

ロンドンを初めて訪れていました。そこで彼はウィリアム・モリスと出会い、

1860年からすでに兆候のあったアールヌーボーの世界に触れたのです。

ウィリアム・モリスに触発されてこのアートの新しい概念に気付いたモンテスキュー、

パリ万博に出品されたガレの斬新な作品に興味を惹かれたのも当然ですね🎵

その後二人は200通以上もの手紙のやり取りをする、とっても親密なお友達に

なったんです。

モンテスキュー伯爵はとっても頭が良くて、パリでは人気者でした。そんな人とガレが

意気投合してお友達になるなんて、出会いって不思議ですね〜✨

ガレのモンテスキューへの手紙の最初にはいつも『 気品高い友人へ』とか『 僕の大切な友人へ』とか『僕の親愛なる友人へ』とか書かれていました。

時には『あじさい王子へ』なんて、お茶目な書き出しも!

二人の仲の親密さが感じられます🎵

ガレはロジャー・マークスに宛てたように、モンテスキューを『ロベール』と名前で呼ぶことはありませんでした。

それでもガレはいつもモンテスキューを大切な友人として大事に扱っていました。

1894年の手紙にもこうあります。

『ここ数年の間、まるで天から差す一筋の光のように、あなたは私を導くすべてです。仕事に行き詰まっている時、私はあなたのきらめきの中で目をしばたたかせます。あなたの放つ火花を見て楽しんでいます。羽があれば、あなたが妖精達のために開く数々のパーティーに参加する事が出来るのに。でもね、私には火の鉄球があるんですよ。両手と両足にね。』

火の鉄💣? なんのこと

実は、モンテスキューがパリでパーティーを開催するのでガレを招待したのですが、

ちょうど新調したばかりのクリスタルガラス専用オーブンに火を入れたばかりで、

パーティーへの参加を泣く泣く諦めた、っていうことだったんです。

  1896年ロベール・ド・モンテスキューは、ロシア最後の皇帝ニコライ2世が皇后と一緒にパリを訪問した際のお食事会に招待されました。 名誉❗️

だけどモンテスキューの頭の中はガレでいっぱい!

彼にとってはこのお食事会は名誉でも光栄でもなんでもなかったようです。

コウモリ〜ガレの新しい情熱

ガレが次に熱中したのが、コウモリでした。

そんなガレをコウモリに支配された男に模したのがモンテスキュー。

1892年に自費出版にて、628ページにもなる本を100冊限定で出版しました。

その名も『コウモリ』❗️

この本はコウモリの透かし絵が入った紙に印刷され、表紙にもやっぱりコウモリが灰色のシルクの糸で刺繍されています。

『エミール・ガレは一生コウモリへの興味を失わないだろう。そして彼の多くのガラス作品にその姿を見る事になるだろう。』というこの時のモンテスキューの言葉はまさに的を射ていたと言えますね。

この本の出版前の1890年にガレは一つの作品を作ったのですが、その作品は曇りクリスタルガラスの表面の大部分にコウモリを意した黒い影があり、さらに三日月と土星の輪がついた『アリエルの骨壺』と称された作品でした。

  モンテスキューいわく、ガレは雲や星座、霧などを混ぜ合わせて不思議な生き物を創造していたということです。

同時にガレはモンテスキューの詩や表現からアイディアをもらっている事に感謝をしていて、『こうもり』の中の詩のひとつ『夜中の賛歌』もまた、夜とオーロラの不思議に魅了されていたガレを感化させていました。

二人、お互いにいい影響を与え合っていたってことですね🎵

  ガレとモンテスキューには多くの共通点がありましたが、その中に日本文化への深い愛情というものがありました。

1878年のパリ万博で日本の芸術品に心を奪われて以来、モンテスキューはそれらのコレクションをはじめました。

モンテスキューはこの万博にて12本ほどの樫の木、そして150年もののクロベの樹を購入し、小さくも立派な庭園を作り上げたとか。

さらにモンテスキューはベルサイユにも小川と橋がつけられた素晴らしい庭園を造り、ガレがその彼の別宅を数日間訪れた際にもその庭園を非常に高く評価したという話です。

二人は手紙のやり取りの中でそれぞれの日本庭園への知識を共有しあっていました。

 モンテスキューとガレ:植物への共通の情熱

植物学や園芸というテーマも二人の共通した情熱の一つでした。

ガレはモンテスキューが1883年に引っ越したパッシーの邸宅の庭のために、百合やその他の植物を送っていました。

モンテスキュー曰く、ガレは優れた植物学者であるだけでなく昆虫にも詳しいとのこと。さらには、その天才的な繊細さが彼の言葉の中にも見られる、と。

それを示すこんなエピソードがあります🎵

ある日モンテスキューがナンシーのガレンヌ通りにあるガレの自宅に招待された際、

ディナーテーブルの上にヒメフロウのお花と葉っぱ🌱が飾ってあったそうです。

ヒメフロウ= Geranium robertianum、そう、ロベール・ド・モンテスキューの名前にちなんで、このお花を選んだんですね🎵 ロマンチスト〜💞

残念ながらモンテスキューはこのもてなしをあまり喜ばなかったそうです。

ヒメフロウの野性的な花は、この上品なテーブルセットよりも、むしろ古くさい壁にかかった羽飾りと一緒の方がずっとお似合いだ、と思ったとか。

  二人は長い間友人関係を続けていました。

そして1896年には、1890年から1891年にかけて書かれた詩の作品集『青いアジサイ』を共同出版することになったのです。

モンテスキューもガレも、あじさいのが大好きでした。

1891年9月、モンテスキューはガレに、自分自身の組み立てたコンセプトで作る『アジサイの棚』の制作をお願いしました。

それに対し、ガレはこう返信しています。

『普段私に協力を求めてくるアーティスト達は追い返しているのだが、あなたからの頼みは、どうしても実現したいと思えてしまうのです。なので今回限り、特別に他人のコンセプトを使った作品づくりに協力したいと思います。』

この『アジサイの棚』は1892年パリのシャンドマースで開催された国民美術協会の展示会で発表されました。

審査員や批評家達からの評判はすこぶる悪く、オリジナリティにかけ、アレンジもなし、ただの寄木細工の作品だ、と言いたい放題!

ロジャー・マークスもなんとかしてこの作品の名誉挽回を❗️と頑張りましたが、

大げさに評価する言葉はただのむなしいお世辞になるだけ。😢

すっかり落ち込んだモンテスキューは誹謗を受け止める事を拒否して、

ガレ一人が矢面に立つ事になってしまったんです。

その時のガレがマークスに宛てた手紙にはこう書いてありました。

『親愛なるロジャーへ。私の共同制作者は矢を外し、自身の小さなトリコロールの爆弾と火薬を大砲に詰めた後にさっさと身隠れしてしまいました。』

ガレもショックだったでしょうね〜。

   だけど、この失敗に懲りない二人❗️

その後も1893年に『思考時計』、1894年には『藤の花の水差し』など、共同制作を続けています。

この数年の間に作られた芸術品の数々の中で、ガレの2つの壺だけが唯一国王に捧げられる価値のある作品であり、過去の苦々しい思い出を消し去ってくれたと、モンテスキューは1897年の『考える葦』の中で語っていました。

実際にそれらの壺はフランスからロシア皇帝ニコライ2世に贈呈されていました。

  ガレとモンテスキューの別れ

とうとうガレとモンテスキューがけんか別れをしてしまいました!

モンテスキューはその理由についてあれこれ言っているけれど、どれも納得できない不明瞭なことばかり。

きっと本当の事を言えない理由がなにかあるんでしょうね〜。

いくつか考えられる説があるので、紹介します🎵

説1: 

1898年のある日、モンテスキューはガレとロダンをシャンティイーのオマール公に紹介しました。その場の招待客に、一人の女性がいました。

彼女はこの才能豊かなガラス職人との出会いにひどく歓喜して、もう他の食器類は一切買わない!

カフェ・オ・レもガレの作品の『アツモリソウの杯』でしか飲まない!と豪語したそうです。

その事になぜか腹を立てたモンテスキュー。

『田舎者の分別しかなく、未熟な上級者気取りの男。私は彼を、蟻のように群がってくる無数の”匿名の妃殿下”の一人に譲り渡す事にした。私はただいつもそうしているように、友人関係の木から枝を払い落とし、栄光を得たとすっかり勘違いをしているこの可哀想な男を切り捨てることにした。ちなみに彼はこの手紙を読んで驚き、不満に思うかもしれないが、私からはこの手紙の他に何も言う事はない。』

と言い捨てて、一方的にガレとの友人関係を断ち切ってしまいました。

これ、”焼きもち”ですよね〜。

説2:

フランソワ=テレーズ・シャーポンティエフィリップ・ガーナーはもう一つの可能性を見ていました。

1897年5月4日、パリで開催されていたチャリティーバザーの会場を大規模な火災が襲い、そこで140人もの人が命を落としました。

その大部分が上級社会層の人達だったそうです。

パリ市内では、その場で男性達が自分自身が助かるために杖で女性を殴っていたという噂が広まっていました。

1ヶ月後の1897年6月3日、ロベール・ド・モンテスキューはアドルフ・ド・ロチルド男爵夫人のコレクションを観に訪れていました。

その際、ロチルド男爵夫人と一緒に会場に来ていた女性の一人とモンテスキューが言い合いになる場面がありました。

その女性、モンテスキューへの仕返しに、こんな事を言いました。

『彼は立派な杖を持っていて、まるで悲劇の最中に誰かを殴り倒すのにぴったりのサイズだったわ。』

モンテスキューはこの根拠のない侮辱にひどく傷つきました。

この女性の親戚でその場にいた詩人アンリ・ド・ロニエに事情を話して、事の収拾に協力してもらおうと頼むも、むしろ殴り合いになる始末。

ロチルド家にガレもいたはずなのだけど、ガレはすでにロニエ達とすでに立ち去っていて、モンテスキューとその女性が言い合いになった時にはその場にいなかったとか。

それが二人の友人関係の終わりの原因ではないか、という事です。

う〜ん、やつあたり。。。。ですかね?

説3:

もう一つの原因も考えられます。

1898年は、ガレが自分はアルフレッド・ドレフュス擁護派だと公言したことから、モーリス・バレス含め数多くの友人を失った年でもありました。

モンテスキューがこの事にどれだけ関係していたかは不明ですが、1898年1月14日から始まったゾラによるドレフュス再審を求める署名に、マルセル・プルーストアナトル・フランスサラ・ベルナール、もしくはアン・ド・ノアイユ伯爵夫人などという名前の横に彼の名前はありませんでした。

自身の著書『ゲルマントのほう』の中でマルセル・プルーストは登場人物であるド・シャルルス公をこう表してます。

『―ブロッチはフランス人だったと私は答えた。『あ!』シャルルス氏は言う。『彼はユダヤ人かと思ってた!』このどうにも理解しがたい発言をするシャルルス公は、私はこれまでに出会った誰よりもドレフュス反対派の人間だろうと思った。』

このシャルルス公の人物像は、実はロベール・ド・モンテスキューを参考にしたものだと言われているんです。

一方ガレはドレフュス擁護派。

つまりこのドレフュス事件がモンテスキューとガレの別れに影響しているのではないか、という可能性も、捨てられないのです。

  ガレにとってモンテスキューとの友情って、どんなものだったんでしょうね?

作品の注文のため?

モンテスキューは個人的に、または友人達に贈呈するためにたくさんの作品を注文してました。

社交界への扉?

モンテスキュー伯爵の紹介によって、パリにおけるアーティスト社交界にガレは認められるようになりました。

ガレの性格にはあまりそぐわないかもしれないけど、それでもやっぱりパリの上級社会の

人々と交流できる事、社交界の空気に触れられる事は価値のある経験ですからね。

それにモンテスキュー伯爵の想像力は幾度となくガレを感化していました。

1890年の『アリエルの骨壺』、1892年の『アリエルの骨壺』の完成時には、アイディアをくれたモンテスキューに感謝の手紙を送っていました。

1893年2月には

『私がこうしてこの世界で生きる喜びを感じていられるのも、あなたのおかげだと思っています。あなたの心に響く言葉の一つ一つが私に夢を持たせ、私の作品に息吹を吹き込み、羽をもって飛び立たせてくれているのです。』という感謝の言葉と共に、一つの作品をモンテスキューに贈っています。

結局は、ガレは駆け引きなしに、心からモンテスキューを友人として大切に思っていたんですね。

時には自分とは相対する存在、時には自分の鏡のような存在。。。。

仲違いしてしまったのは残念だけど、二人が友人として過ごした期間はとても貴重で愛に満ちた時間だったと、想像できます💞

   エリザベス・ド・グレフュールとの出会い

まだ二人が友達だった頃、モンテスキューは自分の従姉妹エリザベス・ド・カラマン=シメイをガレに紹介していました。

彼女はかの大金持ちアンリ・ド・グレフュール伯爵の婦人で、当時パリで最も美しい女性と称されていた人なんです✨

モンテスキューも伝記『ラ・ディヴィン・コンテス』の中で

『彼女は活き活きとした優雅さを身にまとい、同時にガゼルのような雄大さを漂わせながら現れた』と自分の従姉妹のことを表現していました。

マルセル・プルーストが著書『ゲルマントのほう』で創造したゲルマント公爵夫人の影にはこのグレフュール伯爵夫人の姿が隠されていたんです。

グレフュール伯爵夫人は頻繁にボワブードロンの城で夜会を開催しており、その企画の多くはロベール・モンテスキューが行っていました。

そこでガレはアントニオ・ド・ラ・ガンダラポール=セザール・エリュジャック=エミル・ブランシュなどといった数多くの画家達と出会う事になります。

フィリップ・ガーナーによると、1890年頃ガレはこの伯爵夫人に、自身の彼女に向ける情熱の証として『クープ・ミステリユーズ』(秘密の杯)を贈呈しているそうです。

ガレもグレフュール伯爵夫人の魅力に魅了されてしまったんですね〜💞

グレフュール伯爵夫人もパリの人間としては珍しく、ガレの創始したナンシー派の賛同者でした。

  しかし!当時のパリの夜会の女王とされていたのはアンナ=エリザベス・ド・ブランコヴァン、マチュー・ド・ノアイユ伯爵夫人でした。

アンドレ・ジドは彼女のことを後にこう表しています。

『彼女が赤ん坊の頃は妖精達がそのゆりかごの周りにひれ伏した。彼女は名声、富、美しさなどすべてを兼ね備えた人物だ。彼女の話に少し耳を傾けるだけで、彼女の慎み深く沈黙してなどいられない、不思議な性分を見ることができるだろう。』

アンナ・ド・ノアイユはグレゴワー・バサラバ・ド・ブランコヴァン王子の娘で、ルーマニアのヴァラシーの王子やギリシャの有名なピアニスト、ラルーカ・ムスルの子孫でした。

彼女は子供の頃からすでに文章を書く事が大好きで、特にヴィクトル・ユゴーを神と讃え、その作品を『音や音節にまで栄光が宿っている。』と賞賛するほど魅了されていました。

1897年8月に彼女はマチュー・ド・ノアイユ伯爵と結婚しましたが、彼女の激動の愛の人生は何も変わらず。

特に1896年に知り合ったモーリス・バレスとの関係は長く続いたそうです。

彼女がアカデミー・フランセーズ選出されなかったのは、それは彼女が女性だったからだと言われています。アカデミーは彼女の作品に文学最高賞を授与していたのだから。

それでも彼女はベルギー初の女性アカデミー会員に選ばれ、そしてのちにフランスでは女性初のコマンドゥールに選出されました。

1893年サン・モーリッツにある彼女の別荘にて、彼女の叔母に招待されて来ていたマルセル・プルーストおよびアレキサンドル・ビベスコ王女と出会う事になります。

それから少しの間をおいて、彼女の兄コンスタンタン・ド・ブランコバンがマルセル・プルーストの親友となり、その後10年ほどの間ブラコバン家とマルセル・プルーストの親密なつきあいがはじまることになりました。

  マルセル・プルーストがアンナ・ド・ノアイユにガレの花瓶を贈った時

エミール・ガレがアンナ・ド・ノアイユに出会ったのは、おそらく1895年オッシュ通りのモンテスキューの家であったと思われています。

ブランコヴァン一家はショパンモーツアルトベートーベンなどを演奏する豪華な音楽夜会を開催していたんです。

  たしか1901年か1902年頃ガレはアンナのために『我が願望の鋭い叫び』と題した、蝉が描かれている花瓶を作って贈りましたが、その花瓶は箱に入れらていたため誰もその実際の姿を見たものはいません。

でもきっとアンナの美しさに負けないくらいの作品なんだろうな〜✨。

そしてこの作品はアンナの詩『刻印』の中でも引用されています。

  1902年パリでの国民美術協会の展示会に、ガレはクリスタルガラスのもう一つの花瓶を出品しています。

クオーツ、エメラルド、カメオなどが彫り込まれている作品で、これもまたアンナの作品の中に引用されています。

  1901年6月、ガレはアンナの作品『幸せな一日』の中で引用されたことのあるガラス寄せ細工で出来た水差しをロジャー・マークスに贈っています。

1901年6月19日、ガレはロジャーにこう書きました。

『あなたのことを決して忘れた訳ではないと伝えたくて、ある水差しをあなたに贈呈したいと思っています。どうしても作りたいと思えるテーマに出会い、マチュー・ド・ノアイユ伯爵夫人の最も素晴らしい詩にも引用された作品です。ガラス寄せ細工が施され、夏の暑さの中でもいつまでも中の水を新鮮で冷たいまま保ってくれるでしょう。この水差しの素朴で洗練された形は、非常に心地の良い事をを表現するのに最適なものではないでしょうか。『幸せな一日』、庭、葉、あふれる甘美さ、池、野原、丘、静けさ、果樹の香り、夕日。。。。 優雅で優しいある日、井戸の陰で飲む冷たい水。』

嬉しいですよね、こんな言葉と共に貰う贈り物❗️

マルセル・プルーストはガレの花瓶をいくつもアンナ・ド・ノアイユに贈っています。

彼女は最初の贈り物に対し、こうお礼を言っていました。

『昨日そうであったように、きっと今後もずっと、あなたはいつも親切で魅力的な方です。あなたからいただいた花瓶が大変気に入りました。光り輝き、そして深い。自身の輝きに包まれそしてそれを吸い込む、まるで太陽のよう。本当に感謝します。マチューと私からあなたに最大の感謝を。また近いうちにいらしてくださいね。心からの友愛の意を込めて。』

でもこの手紙、実はアンナ・ド・ノアイユの筆跡を真似て誰かが書いたものだと言われているんですよ〜。 真偽のほどはいかに。。。。。

一方1904年1月8日と日付のついたこちらは本当にアンナ・ド・ノアイユ自身の手で書かれた手紙です。そこにはまた別のシダの花瓶の事が書かれていました。

『この美しいガラスの上に飾られた、感動するほど美しいシダを誇りに思う気持ち、そしてそれを手にする喜びを、あなたに伝えたいと思います。私の心には二つのシダの葉が描かれています。広大な牧草地のようになめらかで小さな姿のシダの葉が。そして、何より私からあなたへの友情の証を。』

こんな手紙をもらったら、誰でもメロメロ〜ですよね〜💞

後にプルーストの日記の編集者フィリップ・コルブは、シダの葉をガラス瓶に装飾するようガレに頼んだこの作品こそ、1902年に兄のコンスタンタン・ド・ブランコヴァンによって創始された月刊誌『ラ・ルネッサンス・ラティーヌ』の、1903年11月15日発行の誌内で発表されたアンナ・ド・ノアイユの最新作『激励』を暗示させるものだと指摘しています。

ちなみにマルセル・プルーストはアンナの妹エレーヌ・ド・カラマン=シメイにも同様にガレの器を贈ろうとしていたが、それは実現しなかったようです💔

  窓のすぐ脇で、ガレのグラスの上でのように、雪の層が固くなっていく

マルセル・プルーストは、パリにて医者である父親と多大な財産と教養のある母親という家庭に生まれました。

そしてアールヌーボーの最初の理論家ジョン・ラスキンの作品の翻訳に長年を費やしていました。

1892年から1893年頃、彼はロベール・ド・モンテスキューからガレのガラス工芸作品の事を聞かされます。

それがプルーストとガレの出会いのきっかけになりました🎵

彼がメロメロ💞だったアンナ・ド・ノアイユ以外にも、プルーストは自分の友人達に好んでガレの作品を贈呈していましたが、ある時事件が起こりました❗️

友人の一人フェルナンド・グレッグの結婚に期して、一つの器を贈ろうとしていた時のことです。

なんと!

『君にはとても申し訳ないと思っている。君の結婚式以来、私は拷問の中にいるようだ。表面に『世界で一番素晴らしい日のために』と彫りたいと思っていた碧い器はなんと、割れてしまったのだ。まあ君はそれを目にすることはなかったのだけど、そのかわりといっては何だが、私からの贖罪の気持ちをおくりたい。その後病に倒れ、結局そのままにしてしまったのだ。』

その器は決して日の目を見る事はなかったのです。。。😢

残念ですね〜。

マルセル・プルーストがガレに彫ってもらおうとしていたこの器については、プルーストの1900年出版の文集『生きる事の美しさ』の中の『喜び』で引き合いに出されています。

マルセル・プルーストはガレのガラス工芸品を高く評価していて、自分の数々の有名な著作の中でもガレの作品について何度も言及しています。

例えば、『ゲルマントのほう』ではこう書かれています。

『冬はもうすぐそこだ。窓のすぐ脇で、まるでガレのグラスの上でのように、雪の層がかたくなっていく。シャンゼリゼにおいても、待っている若い娘達は来ず、ただ雀達がいるだけだ。』

ここで一つの疑問が浮かびます。

マルセル・プルーストは本当にガレと顔見知りだったんだろうか⁉️

ロベール・ド・モンテスキューに紹介されているのだから、少なくとも会った事はあるでしょう。

でもガレとプルーストの間で交わされた手紙は一通も見つかっていないんです。

ガレの記録からも、マルセル・プルーストからの作品の注文を示す資料も一切出て来ていません。

プルーストは作品の注文をする際、いつもパリにいるガレの代理人アルベール・デギュペルスのところに行っていたようなんです。

1902年12月初めに友人のアントワン・ビベスコ王子に宛てた手紙の中にて、その訪問の一つについて語っていました。

むむむ。。。。。謎が残りますね〜

  ビベスコ王女との友情

  アントワン・ビベスコは、1902年10月31日にブカレストにて急死したアレクサンドル・ビベスコ(旧姓コスタキ=エプレアノ)王女の息子でした。

1902年12月3日にパリのリシャー通りを訪れたあと、マルセル・プルーストはまだブカレストに残っていた友に宛てて長いお悔やみの手紙を書きました。

『何よりも私の心に衝撃を与えた事がなんだか、君に伝えようではないか。先日私はある器への装飾を頼みにガレの家に行ったんだ。しかしアトリエの人達は、その日は仕事が出来ないという。ガレの父親がちょうどその日に亡くなったんだ。”ではガレ氏は相当落ち込んでいる事でしょう”と私が言うと、こう言ってきた。”ガレ氏はその事を知らないのです。どうしてかって?彼は最近ひどく失望していて、そのせいで体の調子まで悪くなってしまったのです。今の彼に父親の死を伝えるなんてことは出来ません。” 彼のその失望は、父親の病気のせいではないのかと私が聞くとこう言った。”いえ、ガレ氏は父親が病気だという事も知りませんでした。ちょうど1ヶ月前、この世でもガレ氏が最も尊敬していた人物、ビベスコ王女が亡くなってしまったからなのです。以来すっかり意気消沈してしまい、ついには彼を隔離しなくてはいけないほどになってしまいました。その気持ち、理解できますとも。彼女は本当に素晴らしい女性でしたから。” この従業員は私が君と知り合いだとは思ってもいなかっただろう。そしてこういう話は100回以上聞いたかもしれない。』

1903年12月21日にロベール・ド・フレアに宛てた手紙に寄ると、プルーストはパリのリシャー通りにあるガレの店を再び訪れています。

『ガレのところで再び、私は当初思い描いていたプランを諦めたよ。そこでダイニングセットを見たら。。。君にはシャンパングラスが1本足らなくないか?君の奥方が使うグラスに、君の次の大勝利の名を刻み込んで、彼女がその成功を祝って飲むんだ。。。そのグラスはガレがしっかりと梱包して君に直接届けてくれるよ』

  ガレはブラコヴァン王子の兄と結婚していたビベスコ王女、その兄弟であるニコラジョージ・ビベスコ、そしてオドン・ド・モンテスキュー伯爵夫人にとても近しい関係でした。

王女とはモンテスキューの家やブラコヴァン家、もしくはゴンクールの家で何度も会う機会があったからですね。

1900年の春にガレは王女からパリのオペラに誘われていましたが、仕事に追われていた彼は、かつてロダンからのヴィル=ダブレイへの誘いを断ったのと同様に、泣く泣く諦めざるを得なかったのです。

ビベスコ王女はそのピアニストとしての類いまれなる才能の他、その美しさと知性でパリの上級社会のすべて魅了していました。

王女は1902年4月5日に行われた、ガレの娘テレーズルシアン・ブルゴーニュとの結婚式にも招待されていました。

この時ガレンヌにある自宅のバルコニーにて撮影された写真に、彼女はガレの隣に写っているんですよ。

二人の親しさがその写真からも伝わってくるようです🎵

ガレは彼女にエーデルワイスの寄せガラス細工のついた杯を献辞をつけて贈っています。

サラ・ベルナール、ポール・ヴェルレーヌ、そしてエドモン・ロスタンとの友情

 

 ロベール・ド・モンテスキューは1896年12月9日にガレをサラ・ベルナールに紹介しています。それはこの大女優の栄誉を讃えるために開催されたパーティーの席でした。

この時のサラとの出会いの思い出にと、ガレは黒い鉛筆で『親愛なる友人よ、誇り高く美しい女性サラとの出会いの記念に、この器をあなたに。』と書いた器をモンテスキューに贈呈しています🎁

ドレフュス事件を思い出させる2つの器の他、サラ・ベルナールはもう一つ『小さな笑顔と大きな涙』と名付けられたガレのガラス作品を持っていました。

このタイトルは1911年にノーベル文学賞を受賞したモーリス・メーテルリンクの文章からつけられたもので、ガレはこの偉大な作家メーテルリンクとはパリで出会い、その後文通を交わしていたとのことです。

この他ガレと出会った有名な作家達の中にポール・ヴェルレーヌがいました。

彼は1894年にシャルル・ゲランとエミール・ガレの紹介でナンシーで講演会を開き、その夜グランドホテルにて二人によって開催された夕食会にはナンシー在住の多くの文学家や芸術家が招かれました。

その中にはヴィクトル・プルーヴェカミーユ・マルタンユージェン・ヴァランそしてジョージ・シェファー達もいました。

そこでの逸話を一つ。

デザートの時ヴェルレーヌの右隣に座っていたガレは、この詩人に『彼女はその神のように崇高な目を閉じた』と彫り込んだ器を、彼への尊敬の意を込めて贈ったのです🎁

この引用はヴェルレーヌの作品『ベレニス』からのもので、詩集『昔と近頃』の中におさめられています。

ガレが心を込めて贈った作品をヴェルレーヌは、なんと!

パリの編集者ヴァニエに預け、それを売ってお金を作るように頼んだのです。

ヴァニエはそれを二束三文で本屋のレネ・ウィナーに売り払いましたが、そのウィナーはそのまま器をロレーヌ歴史美術館に寄贈したそうです。

大事な作品を理解してくれる人が買ってくれてよかった〜😌

  ガレはパリでその他多くの詩人や作家と出会っています。

その中にはガレが『生きる道』と題したナスタチウムの花の器を贈ったエドモン・ロスタンがいました。ガレが彼に贈ったこの器には、ヴィクトル・ユゴーの文章が引用され、彫られていました。

ガレは詩人アンリ・ド・レニエとも深い友情関係にありました。彼の作品『真夜中の結婚式』の中で、1898年のパリ万博の際にジャック・ド・セルピニーがガレのガラス作品の前で見せた感嘆ぶりを詳細に書いています。

ガレがパリで交友関係にあった他の作家としては、アルフォンス・ドーデがいます。

次の章ではアルメニア人大虐殺というジェノサイドの抗議運動をしていた頃のアナトル・フランスピエール・キヤーとガレとの関係について言及してみようと思います♬

   忘れがたき夜:ベルリオーズのオペラ『トロイヤ人の日々』の公演

  ガレは子供の頃から大の音楽好きでした。

パリに行く機会がある度に、コンサートや劇、オペラなどを鑑賞していたそうです。

そして当時の音楽家、オペラ歌手、女優達などとも交流を深めていました。

1892年6月28日、ガレはド・グレフュール伯爵夫人と共にヘクトル・ベルリオーズの『トロイア人の日々』というオペラの公演に来ていました。

ガレは伯爵夫人にこの忘れがたい夕べへの感謝の気持ちをこう述べています。

『あなたには心の底から敬意を表し、また感謝しなくてはいけません。ベルリオーズの『トロイヤ人の日々』を聴きながら、一つ一つの言葉やアイディアから感じられるこの作品の壮大で、心を打つ、素晴らしい魂はこの世で感じられる響きのすべてではないかと思っていました。それもすべてあなたのおかげです。』

  この壮大なオペラの感動の証として、ガレは1894年にベルリオーズの作品への敬意を示して『かの夕べ』と題した杯を作っています。

このタイトル、『トロイヤ人の日々』の第2幕の中から引用されたものなんですよ〜✨

この杯にみえる星の数々は重苦しい空に眩しいばかりの光を差し込み、それはまさしくヘクトル・ベルリーズの並外れた個性にあふれかつ壮大なスケールのこの作品を連想させるものです。

1897年6月1日、ガレはモンテスキュー伯爵、ド・グレフュール伯爵夫人、そしてジャン・ド・モンテベロ伯爵夫人と連れ立って『椿姫』の公演を観劇していました。

それはまさに大女優エレオノーラ・ドゥーセの名を一躍有名にした公演だったのです。

  

ロイ・フュラーとダンスの魔術と光

  

  エミール・ガレはパリにてロイ・フュラーとも出会っています。

フィリップ・ガーナーによれば、ガレはフォリー・ベルジェールに付き添ってこのアメリカ出身のダンサーの公演を観に行っていたはずだと言うのです。

ガレは1893年の『エクリ プール アール』の中の自身の記事で『1900年代の数多くのアーティストにインスピーレションを与えた女性との出会いで感じた喜び』を書き綴っています。

同じくフィリップ・ガーナーによるところ、ガレはルペール・カラバン作のロイ・フュラーの像の写真を持っていたらしいのです。

さらにガレからカラバンへの手紙に書かれている『私の無理な頼みをきいていただけないだろうか。ロイの尊大かつ極めて美しい姿の像を1体、いや出来るならば2体作ってはもらえないだろうか。』という事が確かなら、ロイ・フュラーに感化されたパリの彫刻家が彫った2体のタナグラ人形の小さな像をガレは持っていたことになる。

ロイ・フェラーにすっかり夢中💞になってしまったガレ❗️

ロイ・フュラーの何がそこまでガレをかき立てたのでしょう⁉️

ロイ・フュラー自身もガレの信望者の一人で、彼の素晴らしい作品を少なくとも一つは持っていたようです。

1900年のパリ万博の際、ロイ・フュラーは万博出展作品の一つとして彼女が上演していた作品の会場であり自身の名前がついている劇場兼美術館に迎えに来るよう、ガレに頼んでいます。

その会場ではロイ・フェラー自身の輝かしいダンス、そして川上音二郎とその妻貞奴率いる一団が上演しており、この日本劇の前座としても彼女は舞を披露して人々を魅了しました。

きっとガレは彼女を迎えに来たついでにこの公演を観劇していたのかもしれませんね。

  エミール・ガレは、フランス劇をこよなく愛する批評家ジュール・クラルティーとも素晴らしい関係を築いていました。

そしてその彼の紹介で悲劇俳優のマーガレット・モレノジャン・スリー・ムーネ(通称ムーネ・スリー)、フレンチコメディーの伝説的女優ジュリア・バーテ、俳優アーネスト・コクラン(通称コクラン・カデ)、そして演出家兼俳優のシャルル・ル・バージなどと知り合っています。

彼はマーガレット・モレノとアーネスト・コクランとは文通をしていました。

  ガレが交流していたパリの作曲家および音楽家は特に非常に数多くいました。

ウジェーヌ・イザイヴァンソン・ダンディラウル・ブーニョジュール・マスネアルフレッド・ブルノーレイナルド・アン、そしてアルベリック・マニャーなど、本当に充実した顔ぶれです!

ガレはラウル・ブーニョとウジェーヌ・イザイそれぞれに、ビクトル・ユゴーの同じ引用文をつけた異なる器を贈っています。

  エミール・ガレはパリの芸術家達の間では名の知れた人物でした。

ガレがひいきにしていたり、もしくは交友関係にあった画家の中にはピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌジョン=フランソワ・ラファエリアリ・レナンウジェーヌ・カリエールジュール・シェレグスタヴ・モロ、そしてガレと同じくロレーヌ地方出身でパリに住んでいた二人の画家シャルル・セリエジュール・バスチアン=ルパージュなどがいました。

 

 ルイ・パスツールへの敬意

  ガレはパリでいろいろ異なる分野の人物達と親しくしていましたが、その中でもルイ・パスツール一家とはちょっと他とは違う、特別な関係を築いていました。

1893年10月ガレが『ロレーヌの植物』と名付けたテーブルを完成させた際、その作品の写真を120枚印刷させました。そのうち91枚を近しい人々に贈り、その中にはパスツールの孫娘カミーユ・ヴァレリー=ラドがいました。

カミーユはパスツールの唯一生き残った娘マリー=ルイーズ・パスツールレネ・ヴァレリー=ラドの間に生まれた娘で、当時彼女はたった14歳❗️

ガレは自身のポートレートをヴィクトル・プルーヴェを通じてマリー=ルイーズ・ヴァレリー=ラドに贈っているのです。

ちなみに新年の贈り物の宛先として手書きで書かれたリストの中にはこう書かれていました。

『バレリー・ラド婦人(カードか花を新年に、ジャンヌ・ダルクの陶器をバレリー・ラド嬢に)、テーブルの写真』

  エミール・ガレの手書きの記録の中にはこう記された小さな紙切れも見つかっています。

『アカデミー・フランセーズの会員のルイ・パスツール、デュト通り21番、ジュラのアーボアに。 デュト通り―15区―ヴォージラー大通りから始まりアルレイ広場で終わる―ヴォージラー大通りはセレス通りから。』

一見、意味不明⁉️なこのメモ。。。

きっとガレはその場所に行くための道順を書いたんでしょうね。

つまりはガレがパリのルイ・パスツールの自宅を訪れていた、ということになります。

この訪問はおそらく1893年4月30日のものだと思われます。

というのもその日は、パリの高等師範学校の学生と教授達がガレに注文した杯をパスツール研究所の偉大な学者に贈呈した日だったからなんです。

ガレはこのセレモニーに出席しました。

そこでルイ・パスツールが著書『歓喜の本』の中でガレについて記述していた事に

感謝の意を示しています。

ガレとパスツール一家との関係、特にヴァレリー=ラド一家との関係は、このセレモニーがきっかけで強い絆ができたと思われています。

  この『パスツール』という器の創作にあたり、ガレはパリ高等師範学校の何人かの人とも知り合うことになったのですが、それは研究所のメンバーかつ所長のジョージ・ペロ、副所長のポール・ヴィダル・ド・ラ・ブラシュ、研究室長のジュール・トネリー、そして会計のポール・デュピュイなどです。

ポール・デュピュイには、『パスツール』器の制作にあたっていくつかの手紙が送られていました。

この作品制作に関しては、1893年1月2日にフランス国務院の聴取官であり装飾芸術中央組合の運営委員であり、さらにはガレの作品の収集家でもあったエドモンド・テニィに送ったユーモアあふれる手紙の中にはさらに詳細に記されていましたよ〜✨

『ちょうどこの時はパスツール氏のために混ぜて、ちりばめて、クリスタルガラスの血管の中で発酵させていた。私は炉床で桿菌やウィルスの培養をしているんだよ。どうか高等師範学校から偉大な博士のためにと作られたこのなんともモダンな装飾の作品がひび割れたりしないよう、祈っていてほしい。』

  政治家達との関係

  ドレフュス事件の際、ガレは多くの人物と出会い、エミール・ソラジョージ・クレモンソーオーグスト・シュレー=ケスナールイ・アヴェ、ジョセフ・レイナックピエール・エリンガールネ・ワルデック=ルッソーなどとは文通を交わしていました。

ちなみにドレフュス事件については、次の章で詳しく書きますね〜🎵

エミール・ガレは1899年から1906年までエミール・ルーベが大統領の任期中に秘書官を勤めていたアベル・コンバリユーとも親しくしていました。

ガレの晩年、エミール・ルーベ大統領はたびたび彼の健康を心配していたと言われています。

  

この章で紹介したガレの友人達の面々を見るだけでもわかるように、数でも質でも、

ガレの交友範囲はとてつもなく広くて、類いまれなものだとわかりますよね✨

ただ単に顧客を得るためだけにパリのあちこちに顔を出していたとは思えません。

人権擁護のための戦いに身を捧げたことで、政治への関わりを強めました。

文化への強い渇望が、 その時代の偉大な芸術家や作家達との関係を作りました。

彼の科学的探究心もまた別の人間関係を作り上げました。

つまり、パリで最も注目されていた人々に与えた影響を考えれば、ガレ自身がパリで成功したのも全く不思議ではないということですね🎵


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