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エミールガレ emile galle アールヌーボーの巨匠の歴史 1−1章

 2016/10/19 エミールガレ
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『アール・ヌーヴォーの巨匠 エミール・ガレ』

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1999年、それはナンシーの街が、一年を通して、

ナンシーの街の歴史上最も生き生きしていた時代を褒めたたえようと、

街全体で力を尽くした年でした😀

このロレーヌ地方の人材やノウハウを活かした芸術的なムーブメントの祝典に、

ナンシー市内の中心部だけでなく、周辺の他の街も加わりたがったほどでした。

 

 

ここで、ナンシー派の指導者やそのライバルたちによって

48を下らない展覧会が開催されたのです。

世界中の美術館や名高いプライベート・コレクションから出品された、

最大規模の作品群を鑑賞することができたこの展覧会は、

75万人以上の来場者を集めました❗️

 

展覧会の主催者が強調したのは、作品の並外れた多様さです。

ガラス工芸、陶器、工芸家具、彩色ガラス。

鉄工芸、木工細工、織物細工、革細工に、なめし革製品、装丁や金銀軸、

宝飾品、刺繍、捺染(プリント)、写真、グラフィック・アート・ポスター。

これらの様々な工芸品が、ナンシー派の巨匠たちが推奨する

この寛大な「諸芸術の統合」の中で、

建築、彫刻、絵画、版画と隣り合っていました。

 

 

こうして、訪れた人々は、

ロンドン、パリ、ブリュッセル、バルセロナ、グラスゴー、ウィーン、ベルリン、ミュンヘン、ワイマール、ダルムッシュタット、

さらにシカゴ、モスクワ、チューリッヒ、ブタペスト、パルレモ、

リガあるいはヘルシンキで誕生した

「生活」というすべての芸術と建築の修復による数々の場所をめぐる中で、

ナンシー派が最も重視していたものを生き生きと捉えることができたのです😊

 

 

芸術活動に関してヨーロッパ随一の観察眼を持つ人々が見誤ることはありませんでした。

例えば、ドイツのすぐれた芸術批評家だったユリウス・マイヤー=グラーフェは、

ナンシーは、フランスで最も重要な芸術産業の中心地だと見なしていましたし、

その時代の最も才能があり、多才な芸術家の一人だった

ベルギー人のアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデもまた、

彼が出した独自の造形的な答えとナンシー派が見出した答えには

明らかな違いがあったのにもかかわらず、

1894年にはすでに

「この世紀の終わりに起こっている重大なことを知りたいものは皆、ナンシーへ旅に出る」

と断言せざるをえませんでした。

 

同じ年、ヴェルデの同郷人であり、かの有名な「20人展」を主導したオクターブ・モースは、

『アール・モデルヌ』誌に躊躇せず次のように書いています。

「同時代の芸術活動に決定的な影響を与えている都市、そればロレーヌだ。

エミール・ガレ、カミール・マタン、ヴィクトール・プルーヴェという

この多くの天才たちがいるのはナンシーだ。

装飾芸術のルネッサンスの朝の鐘を鳴らすのは、ナンシーである。」✨

 

 

ガレがもたらしたナンシーの新たな黄金時代

 

 

19世紀の最後の三十数年は、

ナンシーが特別な歴史的情勢の恩恵を受けた時代でした。

1866年の、フランスとロレーヌ公領の併合百周年に見られるように、

ナンシーは、大規模な人口増加とロレーヌ地方全体に多分な利益をもたらした

産業革命による経済的な成功によって出来上がった

楽観主義に浸っていました😊

 

ですが、5年後、普仏戦争の劇的な結末によって、

つまりスダンの軍事的な敗北とフランクフルト条約の措置

〔アルザス・ロレーヌ割譲と50億フランの賠償金〕が、

逆にこのロレーヌ地方の発展を大きく加速させていくことになります。

 

パリジャンの中央集権主義に時折苛立つこともあったナンシーの街は、

独立国〔ロレーヌ公国〕だった数世紀を経て、国境の街となります。

以降、ナンシーの街は、自信を持って経済的な、知的な中心地となり、

さらにはフランス東部の軍事的な中心地にもなっていくのです。

そして、「科学と芸術のスダン」を打ち負かそうと躍起になっていきます💨💨

 

 

これは、ナンシーの街がもともと持っていたエネルギーに、

併合されたロレーヌやアルザスの生き生きとした力を

加えることになりました。

というのは、

ナンシーは、フランスに残ることを選択した得難い人々を迎え入れたのです。

 

その人々とは、

非常に優秀な従業員を抱える実業家や、知識人、学者、商人、

エンジニアや芸術家など、

非常に貴重な技能を持ったほぼすべての分野の職人たちでした😳

行政、軍事、大学、商業、工業、金融に潜在的な能力の高まりとともに、

1866年には人口4万9000人だったナンシーの街は、

1910年には12万人となります🌟

 

この数十年で、

ナンシーは、多数の市民のための建物や宗教的な建物を建て、

多くの新しい地域を作り出す巨大な工事現場となりました。

すべての工事現場で、驚くべき能力を持った大量の芸術家と職人が働いていました。

 

 

同時に、”生活”という芸術から生み出される、あらゆる家具調度の品々、

つまり家の設備に対する需要は、

贅沢品であってもずっと質素なものであっても、上がり続けました🤗

過去に公国の首都であったナンシーの街は、

まず17世紀に、街の画家や版画たちが、イタリア、公国の宮廷だけでなく

フランスの宮廷で強烈な印象を残しました。

次に、18世紀には建築家エマニュエル・エレ〔スタニスラス広場を設計〕を中心に、

あらゆる工芸家が、画家、彫刻家、装飾家、鍛冶職人、石工、左官、家具職人、金めっき工、金銀細工師が、卓越したまとまりを持って、

今日、ユネスコの世界遺産に登録された都市計画と建築物の傑作

〔スタニスラス広場、カリエール広場、アリアンス広場〕の創造に寄与しました。

 

そんな「黄金時代」を今一度、新たに作り出したいという街の野望に応えるかのように、

すべてが整っているように見えました✨✨

 

 

創造的エネルギーと経済的繁栄

 

 

この時期に、火の芸術(陶芸)がもっともまばゆい輝きを経験しました⭐️

ロレーヌの陶器は、王国一美しいと評判でした。

ガラス製造の職人の仕事は、はるか昔からもっとも栄えた産業のひとつでしたが、

この時期にまた並外れた発展を遂げることになったのです。

 

 

シャルル・ガレ、オーギュスト・マジョレル、ジャン・ドームといった

「父親世代」のパイオニアたちが、次の世紀にナンシーや「大ロレーヌ」の諸都市を

商業の生産・販売の地とすることができたのも、

この時期の陶芸家たちが高い評価を得ていたおかげでした。

 

経済的な繁栄と創造的エネルギーが立ち込める中で、

ナンシー人の過去に打ち立てた栄光を取り戻したいという野望が、

ナンシー派が現れる一つの原動力になったといえるでしょう😼

装飾芸術の分野での輝くばかりの成功、この奇跡は、

何よりもまず「この運動の精神であり信仰」であったエミール・ガレが

天才的な人であったから得られたものです。

 

 

1900年5月17日、ガレは、「象徴的装飾」と題して、

自然、科学、詩、そして救済の美に対する真の信仰を告白した

エミール・ガレの入会講演を行いました。

それに対し、画家であり実業家でもある、

アカデミー・ド・スラニスラス会長シャルル・ド・メスモロン・ド・ドンバールが

下した判断に、意義を唱えようなどとは誰も夢にも思わないほど、

ガレがその時期に果たした役割というのは大きなものでした。

 

 

メスモロン・ド・ドンバール自身、ナンシーの文化界で重要な地位を占め、

尊敬と敬意を集めていましたが、

その彼が、ロレーヌが芸術において輝かしい栄冠を得たのはガレのおかげでした👏

ガレによって美術産業はただ一新したのではなく、

元あったものを改良して刷新しました。

 

ロレーヌに推進力が与えられ、その推進力が、

新しさに夢中になったすべての国に瞬く間に広まったのは、

ガレのおかげだと彼は考えていました。

 

「貴殿の果たされた仕事の数とその多様さは数え切れるものではありません…。

その驚くべき労力がナンシーの装飾芸術の発展の、

まさに歴史を作ったのであります。」

 

 

ナンシー派-ナンシーの職人の自律を守るための組織-

 

 

ガレが確固たる意志で守り続けようとしたのは、

ロレーヌ地方やナンシーの街に実際に深く根付いていたものでした。

ロジャー・マルクスはガレについて

「享楽家、教養人、そして博識家への溢れる思いやりとともに、

彼は無限の郷土愛を持っていた」

と言っています。

 

 

1901年、一般にナンシー派と呼ばれる地方産業美術協会を創設したガレは、

何よりもまず、オリジナリティと独立性を守ることを大事にしていました👍

彼はナンシーの街を

「芸術の原理としても、産業の死活問題に関わる原理としても、

完全な自律を求める地方」にすることを心から願っていました。

 

 

1904年、

ナンシー派と美術友の会との共催により、

数週間前に亡くなったエミール・ガレを讃えて、

ギャラリー・ポワレルで大きな展覧会が開かれました👑

 

その際、ナンシー派委員会は、1894年に同じ場所でもう一つの展覧会で行った

〔装飾美術展、ナンシー市装飾美術館のもとになる〕という宣言を

誇りをもって思い起こそうと訴えました💨

 

 

エミール・ガレの後継者で、エミール派の会長はこう宣言しました。

「(この展覧会は)芸術家と職人を結びつけ、極めて稀なことに、

パリを源泉としない憧れや発想を表明した。

 

一地方だけで立派にやってのけ、自分たち自身の力と伝統のうちに、

真摯さ、大胆さ、分別を見出し、

それらが一度ならぬ障害から自分たちを救うことになること

を確かめるのは喜びだった」。

 

ヴィクトール・プルーヴェは、

他の地方の中心都市にも類似の団体を作りたいという

ガレの高潔な野望を引き継ぎ、誇らしげにこう述べました😉

 

「地方でも素晴らしい手本となれる。なんたる勝利、なんとありがたいことか!」

 

ポール・ペルドリゼは次のように書いています。

 

「ヴィクトール・プルーヴェにとって、

ガレは、少年時代から愛情と尊敬という強い絆で結ばれた存在、

正確には、師匠と言うよりも、興奮と刺激を与えてくれる存在でした✨✨✨

 

ガレは、芸術は広大なものであり、いわゆる芸術はそのひとつであること、

すべてに、壺にさえ芸術は存在しうること、

芸術というのは、人間の力で生み出されたものであれば

何であれ改良し美しいものすることができる、

感じ創造する方法だという確信を持っていました。

 

そうした彼の確信を通して、プルーヴェは、

ガレに対する憧憬の念を深くしていったのです。

[このペルドリゼの指摘は、ガレに対して本物の敬愛の念を抱くすべての芸術家、

職人、芸術に関わって働く者に当てはまります]。

 

つまり彼の信念とは、装飾美術の正当性、むしろ必要性です。

あるいは、たったひとつの専門分野に閉じこもるのでも、

画家や、彫刻家、彫り師など、何かひとつだけになりたいと思うことでもなく、

真の完璧な芸術家ならば、そのすべてになりたいと思うべきだということです……。」

 

 

その上、パリの美術学校を出て、

ナンシーの創造性溢れる雰囲気に引き寄せられて、

ナンシーに戻ってくることを決めた若い工芸家、建築家、画家、彫刻家たちの多くが、

ガレの人柄や手本とすべきその行動に魅了されました。

 

彼らは、装飾家、陶芸家、鍜治職人、装本師、家具職人となって、

美術産業に典型的な職業モデルを体現するだけに留まらず、

-社会的地位が下がるとは考えず-、

躊躇なく複数の職能を持つ職人になろうとしました🔥

 

 “仕事中毒(ワーカホリック)の夢想家エミール・ガレ

 

 

この著作で、今なお世界中で多くのファンの間で取引されるガレの作品の詩的な力、

影響力、いわばカリスマ性の妥当性を証明したのは、

フランソワ・ル・タコンの大きな功績です。

 

これまでガレについて隠蔽されたり、婉曲されたり、

あるいは過小評価されてきたことにこだわり、

タコンは、ガレのあまりにも短い生涯を、

膨大な研究を通して誠実に再構築しています。

 

 

エドゥアール・ブールに言わせれば、

 

ガレは「傑出した人物で、彼には誇り高さ、絶対的な誠実さがあり、

その生き方には非の打ち所のない正しいがあった」男。

 

また彼は、ダーウィンの著作とゲーテの自然哲学に育まれたその科学的思考を持つ

「一流の学者たちのレベルにあった」自然主義者でもあり、

正義と人権、愛国者とドレフュス派のために戦う、

抑圧されたすべての人の勇敢な擁護者。

 

ジャポニズムを解し、一流の学者や文学者、音楽家たちの尊敬と、

さらには友情を勝ち取った創造者(クリエーター)、

日常生活の装飾を刷新する使命のために身を捧げ、

芸術創作が等しく尊いことを説き、すべてに芸術があり、

すべての人の手に届くところに芸術があることを望んだ精神的指導者。

 

ユーゴー、ボードレール、ヴェルレーヌ、そして象徴主義作家たちの

作品を愛した詩人、盗作や競争という過酷な問題に立ち向かう芸術家であり製造業者、

発行者、そして販売業者でもあった明敏な経営者、

木々や植物に詳しく経験豊かな植物学者。

 

どこよりも閉鎖的なパリのサロンに迎え入れられた社交人、

仕事中毒(ワーカホリック)の夢想家、

肉体的に虚弱で、病に蝕まれながら、

並外れたエネルギーで洗練された傑作を作り続けた男🌟🌟

 

 

一見矛盾する多くのキャラクターがガレの中で同居していて、

彼の才能やガレが発揮し得た魅力を生み出す原動力となっているのは、

まさにガレのキャラクター全てが調和しているからこそなのです。

このことを、個々の読み手が気づくには、本著作での長い探求、

その忍耐強く、注意深い、知的な分析が不可欠でした。

 

さまざまなキャラクターすべてが相互に混じり合い影響しあって、

生涯にわたり次第に熟成され、もっとも豊かな作品を生み出して

見事な開花を果たしました🌺🌺🌺

 

ロジェ・マルクスは言います。

 

「このような至宝は、いかなる文明からも生まれ出なかったし、

それ以上に精神に果てしない夢の扉を開くだけの力があるものを私は知らない」

 

 

知覚の神秘と人間の運命

 

作品は、全ての輩出されたものの ”昇華物”といえますが、

感覚、感性、感情、夢、創り手の魂そのものが昇華したものでもあります💫

自然主義車の科学は、拡大し強固なものになればなるほど、

アンドレ・キュヴェリエが言うところの神秘主義へと向かっていきます。

 

キュヴェリエは、ガレを

「感覚と人間の運命の神秘に—それが命がけのものであっても—近づこうとする者」

だとみなしていました。

 

ボードレールの愛読者であったガレは、

自然という、あの「荘厳な寺院」、「厳かな言葉」を

もっとよく感じ取り、理解することができるようになり、

それを吸収し、形や素材、色や、色調、艶や透明度を変えることができたのです。

 

化学者にして錬金術師、ガラス職人にして宝石細工職人だったガレは、

新しいやり方や組み合わせを発明して、

物質が持つ無限の可能性に対する信頼を大きくしていき、

度々、偶然に得る幸運なサジェスチョンを糧に彼の想像力を大きくしていったのです。

 

マルラメは「言語の限界」を見出しましたが、

工芸品、たとえば花器は、

「夢のように壊れやすいが、思想のように破壊できない」ものです

 

工芸品は、偉大な巨匠たちの絵画と同等のものなりたい、

放射線と同じように広がる力を手に入れたい、

音楽のように、われわれの感覚や思考、感情に同時に訴え、

「幻想と芳香」という歓喜を与えたいと言った、

正当な野望を育むことができるのです🔥

 

ポール・クローデルの「病人ノ夢」〔芸術論集『眼は聴く』〕は、

私の主張を確かなものにしてくれます。

 

「実際、花器は、それをじっと見て、

周囲を見ないようにするだけでは不十分であって、

花器を手にとり、両の眼だけでなく、

10本の指先の感覚で捉え、それを理解し、手で触れ、味わい、

その量感を感じ取ることが必要である。

来る日も来る日も、どこか人里離れた場所で、

夜警の感覚を分かち合うべきである……。」

 

こうした芸術作品の豊かさに到達することは、

ガレにとっては最終的なご褒美ではなく、

「メジャー」と言われる芸術と「マイナー」と見なされることを

頑固に拒否する芸術の間の平等を説く、

疲れ知らずの伝道者の、長い探求の光り輝く帰結だったのではないでしょうか?

 

 

協力者たちの才能がガレを天才にした

 

 

ここで、もう一つのうっとりするような奇跡について話しましょう。

それは、ガレとその協力者たちとの共生関係のことです👬

 

ガレ自身が果たした貢献がたとえ過小評価されたとしても

「私個人の作品はとりわけ、思いやりあるいは冷酷な役割の結晶となることを夢見ることにあるのです」)、

ガレはつねに、共同制作であることや協力者たちそれぞれの功績を際立たせること、

彼らの名前が万博の受賞者リストに記載されることを望んでいました。

 

ガレは、企業主としては、生産性や労働の質、製法上の秘密の保持、

収益性(つまり企業の存続)に入念に留意しなければなりませんでした。

ですが、ガレの高潔で絶対的に誠実な人柄、その才能の感化する力、

正義感、一人一人への気配り、美術産業に実直な職人仕事を残していこうという意志、

ギルド的美徳、素材(マテリアル)との感情的な結びつき、

これらこそが、ガレに皆からの尊敬と賛同を得られる理由でした。

 

 

そうした皆から賛同が、他の何よりも不可欠だということがわかるでしょう。

なぜなら、ガレは、デザイナーでも鋳型製造工でも、

吹きガラス職人でもグラビュール職人でも化学技師でもなく、

工芸作品を構想し実体化するすべての局面を

掌握し統制することができなくてはならないかったからです。

 

それはつまり、ガレの頭のなかで構想しているオブジェ、

頭の中の理想的なイメージと音楽であるそのオブジェの造形的なクオリティと

詩的な力を完全に保ち続けることなのです。

 

この天才的作曲家兼オーケストラ・マスターは、

名演奏者たちとの最大限の同意を得ることが必要であり、

一方名演奏者たちは自分たちの才能が

つねに完璧の極みまでいざなわれることが必要だったのです。

 

それには、オーケストラ・マスターが、彼らを納得させ、

魅了し、ひとりひとりが身につけた能力や感受性、

そして知性を総動員させるだけの信頼性と

カリスマ性を持っていなければなりませんでした。

 

 

引き換えに、ガレからの信頼を得たガレの協力者たち。

協力者たちの腕前が発揮された技術が果たした偉業とともに、

ガレの強い情熱が彼の夢と野望の水準を引き上げ、

例外的なレベルでの感性の一致や繊細さを極めた

芸術的共犯関係を作り上げることができたのです🤗

 

フランソワ・ル・タコンが

「ガラス工芸史上、そしておそらくは家具調度の歴史においても最大の傑作」

と考えている、ベッド《夜明けと夕暮れ》、《蜻蛉》杯、《海藻と貝殻の手》は、

この協力関係から生まれたということを、忘れてはいけない点です。

 

なぜなら、ガレへの強いオマージュが、

ガレの燃える思いに導かれ、

彼の作品を製作したすべての人を正当に評価することになるからです。

 

 

はじめに(本書の紹介)

本書は、エミール・ガレには時に矛盾する、数え切れない顔があることを描き出すものである。たとえばガレには、進歩主義者、流行のパリのサロンに出入りし、パリでもっとも有名な女性たちと親しくする社交家、詩人、教養人、人道主義者(ヒューマニスト)、植物学者、科学者、芸術家、実業家の顔がある。とくに、ガレの自然に対する科学的アプローチ、そしてガレの芸術的進化において、この生物の構造研究が果たした役割に重点をおいているが、これはパリの美術評論家ガストン・ヴァレンヌと意見を同じくするものである。ヴァレンヌは1910年に次のように書いている「この芸術家を理解するには、著名な思想家や哲学者、あるいは詩人の作品を読むこと、さらには自然についての理論的科学的研究が、彼の関心やその研究の中で、どこに位置づけられているかを知ることが必要である。」

まずエミール・ガレが受けた教育、そして彼の職業生活に影響を与えたであろう要素を分析する。ついでガレの科学的かつ芸術的業績を総括する。彼の人となりの輪郭をより明確にするために、まず初期の伝記、すなわちルイ・フーコー(1903)、ロジェ・マルクス(1904)、ジュール・アンリヴォー(1911)に基づき、ついで近年の著作——数は少なく、またガレのすべての側面を扱っているわけでもないが——では、フィリップ・ガルネ(1976)、フランソワーズ=テレーズ・シャルパンティエ(1978)、ベルント・ハーケンヨス (1982)、フィリップ・ティエボー&フランソワーズ=テレーズ・シャルパンティエ (1985)、フィリップ・ティエボー (1991)を参照した。論文では、ガレの作品や人となりについて書かれたものや、エミール・ガレによる著作(数多く書かれ、記事・論文や出版されている覚書が66本、手稿18点のほか、未刊行の手帳と覚書がある)を詳細に分析したものなど、数え切れないほどのものを丹念に調べた。手書きの書簡は膨大な数がある。ガレ自身が自分は日に25通の手紙を書いたと断言している。1908年に、ガレの妻アンリエット・ガレ=グリムが、散在していた夫の刊行物を集めて『美術論集』(Écrits pour l’art)として出版している。その前書きで、アンリエットは「この本はエミール・ガレを愛してくださった方々に向けられたものです。みなさんの友の『生涯』と『書簡』については、その出版までお待ちいただきたいと思います。みなさんの中で友との手紙をお持ちの方は、エミール・ガレ夫人にご連絡いただき、彼の伝記準備にご協力いただけますようお願いいたします。」と書いている。

アンリエット・ガレ=グリムは、手紙(一万通もの)の収集を開始すると、それを相手ごとに分類する。のちのフランソワーズ=テレーズ・シャルパンティエの調査ではその数は177名にのぼる。エミール・ガレは原稿などの下書きを残して置くことが多く、それが妻の仕事の助けになった。彼女は、ガレの手紙の相手から提供された書簡の多くを手書きで書き写し、それをパリのエミール・ガレの総代理店をつとめていたマルスランとアルベールのデグペルス親子が保管していた商取引関係の書類に加えた。これらの文書は一括してナンシーのラ・ガレンヌ通りでガレの娘の一人であるリュシル・ペルドリゼが大切に保管していたものだ(注2:リュシル・ガレ=ベルドリゼ夫人(1981年に死ぬまでラ・ガレンヌ通り2番に居住)によれば、多くの手紙が燃やされてしまったらしい。フランソワーズ=テレーズ・シャルパンティエによれば、消失した手紙の中に、ロジェ・マルクスのものが含まれている。第二次大戦中、ガレンヌ通り2番地の建物はドイツ軍に接収され(ドイツ軍は一階に法廷を設置し、そこで多くの死刑判決が出された)、1955年に売却された際に失われたという。アンリエット・ガレ=グリムが、おそらくはポール・ペルドリゼの助けを借りておこなった手紙の分類もなくなった(エミール・ガレ、ロジェ・マルクス『書簡集(1882-1904)』参照。)。フランソワ=テレーズ・シャルパンティエは、ガレの腹心ロジェ・マルクスとの書簡を、注釈をつけて、謄写版印刷した。そのうちの一部がナンシー大学図書館に納められている。本作も、もちろん、この貴重な資料を参照している。

ガレの通信文の多くは、非常に幸いなことにフランス国立図書館が所蔵しており、またアカデミー・ド・スタニスラスやナンシー市立図書館に所蔵されているさまざまな手紙も、研究に重要な資料となっている。一方、個人所蔵や公売にかけられた手紙も、有用な情報を提供してくれている。本書では、この膨大な書簡の一部にしかアクセスできなかった。多くがまだ未詳のままである。しかしながら、1908年にアンリエット・ガレ=グリムが表明した願いに応える、エミール・ガレの人生と作品を扱った本書を組み立てるために十分な情報は集められたと思っている。しかし、本書は一つのステップにすぎない。主要なガレの書簡に研究者が閲覧できるようになった暁には、いくつかの点がおそらく明らかになるだろう。たとえ将来そうした発見があったとしても、15年前に始められた本研究の本体部分が見直されることはないだろう。

 

1−2章へ続く

 


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