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ベネチアングラス・ムラノガラスが出来た歴史や時計・アクセサリーのご紹介

 2016/05/18 ベネチアングラス
この記事は約 43 分で読めます。 4,297 Views

ベネチアングラス ムラノガラスについて

本日もご覧いただきありがとう御座います♫♫

 

ベネチアンガラス通販取扱店

ベネチアンガラス店長の加寿美です(*^^*)

 

 

 

今日は、皆さんもご存知のイタリアの高級ガラス

「ベネチアンガラス」について

ご紹介させていただきます☝️✨

 

 

 

名前は知ってるけど、あんまり知らない・・・💦という方は、

「ベネチアンガラス」について知る絶好のチャンスです(^^)💓

 

 

 

この機会に「ベネチアンガラス」を是非知ってください♩

ベネチアンガラスはイタリアのベニス、

特にムラーノ島で何世紀もかけて開発、洗練されたガラス製造法です。

 

 

 

最高級の品質と技巧を持ち、色彩豊かで精巧なガラス製造法の中心として、

世界的な名声を今なお保ち続けています。

 

 

 

その品質と美しさはガラス製品をはじめ、鏡やシャンデリア、

ビーズや宝石において楽しむことができます (^^♪

 

 

 

 

ベネチアンガラスの初期起源

 

 

 

ヴェネツィアガラス製造についての最初の記述は、西暦982年にまで遡ります。

ドミニクス・フィオラリオスという大小の瓶を作る、熟練した職人にまつわる記述です📖

 

 

 

その後1090年にぺタルス・フラビアン二コスという

やはり瓶を作っていた職人についての記述も出てきます。

 

 

 

 

しかし、1960年代に発見された考古学的資料によると、

これらの記述よりも前の時代である450年ほどの時代に、

ヴェネツィア潟にあるトルチェッロ島やイタリア本土の植民都市アクイレイアにおいて、

ガラス職人が溶鉱炉を使ってガラス製品を作っていたという事実が明らかになりました。

 

 

 

 

これらの地域はtesserae(テッセラエ:ギリシア語で「四面」の意味)と呼ばれる

ガラス製造が盛んにおこなわれていた土地です。

 

 

 

 

テッセラエとは小さいガラスや正方形に型どられた石を

装飾目的のモザイクタイルとして使用する方法で、

教会や裕福な貴族の邸宅の建築材料として用いられたとされています。

 

 

 

 

この製造方法は、ローマ帝国の公衆浴場の明り取りとして

用いられた鋳型ガラスの技術から来ています。

 

 

 

 

ベネチアのガラス職人たちが、

成熟した独特の技術をもつ装飾ガラス職人との名声を得るに至るのは、

これよりまだ数世紀の後の事です。

その名声を得た後、彼らのガラス製造は事実上ヨーロッパの独占産業へと発展していきます。

 

 

 

ベネチアが西洋と東洋の文化の懸け橋として発達したことにより、

ベネチアンガラスの注目度も上がってきました。

これはアドリア海の地理的条件に由来します。

 

 

 

 

アドリア海はバルカン半島に面し、

中東から東アジア、南アジアにそれぞれつながりを持ちます。

戦略的に強い海軍や商船を配置するのにちょうど良い地域であったのです。

 

 

 

 

貿易が盛んになると、それにより権力と影響力も持ち始めました。

元来、地中海沿岸を国境とする国々がそのような力を持ち、

聖地や東洋に影響を与えていたのですが、ベネチアの力は徐々に高まっていきました⤴⤴

 

 

 

 

平時にも戦時にも、ベネチア共和国は商業利益に重点を置き、

11世紀にはビザンツ帝国と関税の免除を交渉しながら貿易し、

12世紀初頭には貿易拠点を作りながら、聖地や中央アジアの植民地を守っていました。

 

 

 

この政策によってベネチア共和国は300年もの間、

ヨーロッパ全土においてガラス製造をほぼ独占するようになりました❕

 

 

 

ご存じかもしれませんが、ガラス製造は非常に東洋的な技術で、その伝統は中東諸国、

例えばエジプト、パレスチナ、シリアといった多くの国ですでに確立されていました。

 

 

 

ベネチアンガラスもこの地域に多少影響は与えていましたが、

中東諸国のガラス製品がベネチアで見られることはまずありませんでした。

 

 

 

しかし西暦1204年、第4回十字軍遠征によりコンスタンチノープルが陥落されると、

ベネチアにもイスラムガラスが入ってくるようになりました。

 

 

 

これにより、滅亡したビザンツ帝国のガラス職人たちが

ベネチアに流入し、新しい技術をもたらしました。

 

 

 

13世紀の終わりにはこの技術の多くを採用し、

独自の技術とともに独特な製法を作り上げていきました。

 

 

 

このような他国からの技術の流入は、

1453年のオスマン帝国によるコンスタンチノープル陥落の際にも繰り返されました。

 

 

 

ガラス製品が競争市場で大きな利益を生んでいるベネチアにおいて、

これらの技術をベネチアの中だけで保持していく必要がありました。

そのため、政治的、商業的政策が重要な役割を果たしました。

 

1271年、商業目的のガラス製造を規制する布告が発布されました。

この時から、外国のガラス製品のヴェネツィアへの輸入が禁止され、

外国のガラス職人がベネチアで働くことも禁止されました。

 

 

 

 

1291年、当時ベネチア、特にリヴォ・アルトやドルソデューロで流行し始めた

小さな独立ガラス工房の多くが、ヴェネツィア潟を超えてムラーノ島へ移動してきました。

これはマッジオ.コンシグリオ太政官によって命令された強制的な移住でした。

 

 

 

中世、そしてルネサンス期にはムラーノ島はヴェネツィア共和国の政治的機関であり、

貴族出身の成人男性によって構成される議会政治(議員は終身世襲制)が行われており、

主に議会や十人委員会(1310年に設立)といった国家元首が議長を務める

政治機関の集まりとしての役割を担っていました。

 

02_BBLB_Venice_Murano_Map

作者不明の銅板 ムラーノ島の詳細を描いている

 

この移民政策の目的の1つは、ベネチアにあるドージェ市を

ガラス工房の火による火事から守るためでした。

 

 

 

人口が多く木造建築家屋が密集しているドージェ市は、

火事が起こりやすい環境にあったのです。

 

 

 

またベネチアンガラスを競合者たちのスパイ活動から守る目的もありました。

しかし、同じように溶鉱炉で火を使う鏡職人はこの市に残ることを許されたことを考えると、

この政策には他にも理由があったのかもしれません。

 

 

 

 

4年後、また新たな法令が出されました。

それは前回よりもあからさまな内容で、ガラス職人の技術を決して洩らさないために、

ベネチアンガラス職人が海外へ移住することを禁止するものでした。

 

 

 

 

外国人にその秘密をもらしたり、

公的な許可なくベネチアを離れたものには厳しい処分が科されました。

 

 

 

マッジオ.コンシグリオ太政官が島を脱出した人間を捕まえ、

殺すために、暗殺者を雇ったとのうわさまでありました。

 

 

 

さらに島を離れたものは、ムラーノ島で行われている

ガラス製造を他の土地で行うことを禁じられました。

 

 

 

しかしながら、後年数多くの技術者が、

危険を冒してイギリスやオランダといった離れた土地で窯を開いていきました。

 

03_BBLB_Murano_Island_Map

ムラーノ島 (ベネチアとムラーノ島を遠くから臨んだ風景から:1600年頃 Dancherts作:

1500年頃に活躍したJacopo de’Barbariが確立した有名な木版画によるスタイル)

 

ベネチアングラスのショップはこちら

 

ムラーノ島では、要塞都市アーセナル(当時ベネチア最大の造船所を保有していた)と

貿易が行われていました。

 

 

 

ベネチアの権力者たちは、主要産業であるガラス製造をこの孤立した島

(たとえそれが金メッキの鳥かごだとしても)に閉じ込めて保護しようとしました。

 

 

 

職人の給料や労働条件は、ガラス産業を支配するために設立されたギルドによって決められました。

 

 

 

1224年に設立されたガラス職人ギルドであるアース・フィオラリアは、

ベネチア共和国の直属の統治下に入りました。

 

 

 

ギルトによる直接支配とガラス職人をムラーノ島に隔離したことによって、

ガラス製造の発想や技術の向上が図られ、芸術的要素も高まり、

急速にベネチアはヨーロッパにおけるグラス製造の中心地となっていきました。

 

 

 

ムラーノ島の職人たちには、

その代わりとしてベネチアにおける新しい社会的階級を与えられました。

 

 

 

 

14世紀になると、ガラス職人は帯刀を許され、ベネチア市における訴追も免除され、

自分の娘をベニスで最も裕福な一家に嫁がせることもできるようになりました。

 

 

 

 

このような優遇措置をとることで、ベネチア共和国はガラス職人が

子孫にその技術を継承するよう仕向け、世襲間内においてのみ、その創造性を高めることで

さらなる技術刷新と商業的成功を目指しました。

 

 

 

これらのガラス製造方法は高く評価されるようになるにつれ、厳重に秘密にされました。

 

 

 

 

その技術も父から息子へと伝承され、秘密の本に書き写されました。

例えば、ムラーノ島のアントニオ・デ・ピサというグラス職人は、

ラティモ(lattimo)という牛乳瓶の製造に使用する、主な成分の詳しい説明を伝承しています。

 

 

 

 

 

それはベネチア人にとってありがたい日用品の製法となりました。

というのも、ベニス人は当時非常に貴重とされた陶器を牛乳の容器として使用しており、

このラティモのおかげで安価な牛乳瓶を手に入れることができるようになったのです。

 

 

 

その後500年以上にわたり、

政府による法令の発布やギルトによる管理といった政治的干渉が、

ベネチアンガラスの品質をより確かなものにしていきました。

 

 

 

 

また政府は製造原料に関する協定に合意したり、

求められれば外国の競合からの貿易保護も行いました。

 

 

 

 

このような政府の直接的な介入や、東西諸国の貿易の中心地であるという地理的条件により、

ベネチアはガラス産業における独占的な権力を持つに至り、

品質の良いガラス製品をヨーロッパ全土に販売できるようになりました。

 

 

 

このような発展はこの先何世紀も続きました。

 

 

 

 

15世紀および16世紀のベネチアンガラス製造

 

 

 

1400年から1640年まで続いたルネサンス期は、

イタリア、特にムラーノ島に深い影響を与えました。

 

 

 

その始まりの15世紀初め、

ムラーノ島には3000人ものガラス吹き職人が生活していたとの記録があります。

 

 

これは1400年にダマスカスが包囲され、その後1453年にオスマン帝国により

首都コンスタンチノープルが陥落したことによって、多くの職人が島に流入してきたことによります。

 

 

 

この新しく流れてきた技術を元にして、

ベネチアンガラス職人はシリアに起源をもつ製法を新たに試してみました。

 

 

 

これはガラスにエナメルと金箔を塗るという製法で、より豪華な装飾を実現できます。

この装飾をさらに際立たせるために、暗色系ガラスの開発にも着手するようになりました。

 

 

 

 

この製法が確立する数年前の1441年には、

1271年に発布された「商業目的のガラス製造を規制する布告」が修正され、

その適用範囲が拡大されました。

 

 

 

その内容はガラス製造に関するすべての事柄―製造、販売、

税制、親方や同僚に対する礼儀作法までに及びました。

 

 

15世紀の中頃、アンジェロ・バロビエが、後にヴェトロ・クリスタロまたは

クリスタロ・ベネチアーノ(vetro cristallo or cristallo veneziano )として

知られる作品を生み出しています。

 

 

 

純粋で華やかさがあり、透明度の非常に高い完璧なクリスタルガラスです。

この作品は、脚付きのガラス製品、ゴブレット、皿、ボールといった

様々な作品のデザインや鑑賞の仕方に深い影響を与えました。

 

 

 

ヨーロッパ全体でもこれほどの影響力をもった作品は類がありませんでした❕

ガラスの透明さに不思議な魅力があり、科学的な製造方法による色の効果が

光に反射することによりエレガント印象を与えているのです。

 

 

 

アンジェロ・バロビエによりこの時代に初めて成功した製造方法でした。

 

04_BBLB_Cristallo_Glass_1580

ベネチアン・クリスタル・グラスの初期の作品(1580年)

 

ガラス製造における技術的偉業は、冒険や貿易、政治などにも変化をもたらしました。

 

 

 

15世紀の終わりまでに、あるポルトガル人、

つまりバスコ・ダ・ガマが世界一周の航海に成功しました。

 

 

アフリカの喜望峰からインドを回り、リスボンへ到達したのです。

 

 

この新しい航路により、北アフリカのサハラ砂漠を横断する

昔ながらの貿易ルートが寂れてしまいました。

 

 

 

アフリカ西海岸のギニア湾が海洋貿易における新しい中心地となり、

ボルトガルを初め、スペイン、オランダ、イギリスの貿易船が

物々交換の品としてガラスビーズを運びました。

 

その約40年後の1492年、今度はコロンブスが新大陸を発見します。

これにより、アメリカとの貿易と植民地化が始まりました。

 

05_BBLB_Vasco_And_Columbus_Portraits

(左)バスコ・ダ・ガマ(1460~1524) (右)クリストファー・コロンブス(1451~1506)

 

彼らが開発した航路により新たに発見された新しい国々の多くは、

人工的に製造されたガラスにほとんど触れたことがありませんでした。

 

 

 

アフリカ人とアメリカ原住民がようやく装飾品にその価値を見出すと、

ヨーロッパの商人たちは原材料と引き換えにガラスビーズ、

金属玉、陶器玉などを取引し、莫大な利益をあげ始めました。

 

 

 

これにより、ヨーロッパ全土におけるガラスビーズ製造の黄金期が、

16世紀初頭から18世紀近くまで続きました。

 

 

 

1592年、新しい市場開拓を目指して、ベネチア政府はガラス工場を

再びムラーノ島以外のベネチア潟の島に出すことを許可しました。

 

 

 

その代わりとして、ガラス職人がベネチアを出ることを禁止し、

その法律は共和国全土で適用されました。

 

 

 

この決定により、1525年当時ベネチアには24のガラス工房しかなかったのが、

1606年までにはガラスビーズ製造者の登録だけで251人にも達したのでした ⤴⤴

 

 

 

1764年までには毎年200万ポンド以上のガラスビーズがベネチアだけで製造されました。

 

 

この200年間においてムラーノ島で生産されたベネチアンガラスビーズは

それぞれが独自のカラーバリエーションを持ち、その数は10万種類を超えると言われています。

 

 

 

この時代を彩ったガラスビーズをご覧頂きましょう。

 

06_BBLB_Venetian_Trade_Beads

1, 7層シェブロンビーズ(Chevron Bead)(1400年代後半) 

 

2.7層シェブロンビーズ(Chevron Bead ) (1400年代後半)

 

3.スぺオビーズ(Speo Bead)(1600年代後半)    

  

4.フレンチアンバサダービーズ(French Ambassador Bead)(1850年代)

 

5.バウルフェイスビーズ(Baule Face Bead)(1800年代)

 

6.ブラックデコレイティッドビーズ(Black Decorated Bead)(1800年代後半)

 

7. コマラインドアレッポビーズ(Comaline D’Aleppo Bead)(1800年代後半) 

 

8.タブラ―ビーズ(Tabular Bead ) (1800年代後半)

 

9.ラージシェブロンビーズ(Large Chevron Bead)(1800年代後半)

 

10.スクエアエッジフローラルビーズ(Square Edge Floral Bead)(1800年代後半)

 

11.イエローブラックスウィールバード(Yellow Black Swirl Bird)(1800年代後半)

 

12.ミレフィオリビーズ(Millefiori Bead)(1800年代後半)

 

 

ほとんどのベネチアンガラスビーズの生産はアフリカに向けて行われました。

貿易船のバラストとしてガラス玉を積み、それらを香辛料、象牙、

ヤシ油、そして金と交換して戻ってくるのです。

 

 

 

この貿易は次第に悪意あるものに変容していきます👀

 

 

 

アメリカと比べてアフリカの金の価値が低いと判断すると、

ヨーロッパの国々はガーナの統治者に、金の代わりに奴隷を船に乗せて運ぶことを強要しました。

植民地での労働力として使用するというのです。

 

 

 

16世紀になるとベネチアンガラス職人は新しい装飾技術を習得し、

その色彩と透明度においてさらなる技術の向上を実現しています。

 

 

 

1527年には、フィリッポ・カター二がザンフィリコまたは

レトーチ・フィリグリー(zanfirico or retorti filigree)と呼ばれる製法の特許を得ました。

 

 

 

それは美しい乳白色の茎模様が透明のクリスタルグラスにらせん状に描かれている製法です。

 

 

 

これはラチシニオ(latticinio)と呼ばれる光沢のないガラスに施す

格子柄としてさらに完成されています。

透明の花瓶などには白色が金色の格子柄で装飾されます。

 

07_BBLB_Zanfirico_Glass_1500

吹きガラス成型のベネチアンガラス 格子柄水差し(16世紀後半)

 

カルセドニオ(Calcedonio)は人工大理石やその他の石の作り方も導入しています。

ギアッシオ(Giaccio)とアイスガラスは1570年頃に発達しました。

これはガラスの内側に美しいひび割れを作ることができます。

 

 

 

ガラス製造の技術を使って、プラハにおいてダイヤモンド彫刻の改良がはじまると、

ヴェネツィアでも急速に広まりました。

 

 

 

ムラーノ島のガラス職人たちは、このような新しい技術の要求にもよく応え、

さらに精巧なデザインで装飾された完成度の高いガラス製品を製造し続けました。

 

 

 

ベネチアンミラーやシャンデリアの注文も多く、その当時の王や教皇、

大商人などから注文を受けるほどの品質の高さでした。

 

 

 

しかしながら16世紀末期になると、ベネチアは透明ガラスの専売権を失います。

 

 

 

ベネチアンガラスの需要が非常に高まったため、

数多くの職人がヨーロッパ全土の都市に移住を始めたからです。

 

 

 

ジャコボ・バーゼリ二というガラス職人は、

1575年にエリザベス1世からロンドンでのガラス職人としての免許をもらっています。

 

08_BBLB_Verzellini_Glass_1586

彫刻を施されたガラスゴブレット(1586)

 

ムラーノ島で商売をした経験のある商人たちは、そのうち自分の工房を持ち始めました。

フランス、ドイツ、ベルギー、オーストリアなどで、

ムラーノ島を追われた職人たちによって運営されていました。

 

 

 

彼ら独自のベネチアンガラスやヴェネツィアンスタイルと呼ばれる方法で製品を作っていきました。

彼らは古典的なベネチアンガラスのデザインや技術を修正しました。

それは地元のテイストやその土地で採れる原材料に製品を合わせるためでした。

 

 

 

1534年に、ウォルフギャング・ビトゥルはフェルナンデス1世の要請により、

北ヨーロッパで最も早くベネチアンスタイルのガラス製品を作り始めました。

 

 

 

この工房ではベネチアの吹き職人と地元の職人を雇い、

イミテーションガラスを作り始めました。

 

 

 

それはオリジナルよりも大きくそして頑丈で、

しかもベネチアから輸入されたものよりも安価でした。

 

 

 

この品質により、ウォルフギャング・ビトゥルは皇帝からハプスブルグ領で

20年間ベネチアンガラスを製造する独占権を得ました。

 

 

 

17世紀のベネチアンガラス製造

 

1348年のその発生以来、ヨーロッパで猛威を奮い続けていたペストが再び大流行し、

ついに1630年、ベネチア政府はガラス産業の人材と技術を守るためにその雇用制度を緩めました。

 

 

 

イタリアは特にペストの被害が甚大でした (>_<)

 

 

なぜなら他のヨーロッパ諸国と政治的制度が異なっていたためです。

 

 

都市国家による共和制を布いていたため、

都市が独自でペストによる猛威に対処しなければならなかったのです。

 

 

 

イタリアの都市国家は一丸となって対処しようとしましたが、

中央集権国家であるフランスなどと比べると死者数も多く、かなりの損害を被りました。

 

 

ベネチアではわずか1年半の間に8万人が命を落としました。

 

 

 

例えば11月9日には一日だけで595人が死亡しています。

 

 

 

このような途方もない数の死者をだしたことで、ベネチアはガラス産業をはじめ、

造船業やレース、羊毛、絹といった繊維業に大打撃を受けました。

 

 

 

ベストが終息するまでにベネチアの政治制度は

大幅な変革を余儀なくされ、共和制は衰退の一途を辿っていきました。

 

 

 

 

ベネチアの政治的及び商業的問題として特に次の事件を付け加えておきましょう。

 

 

 

1662年、クリストファー・メレットという人物がラート・ベトタリア(L’Arte Vetraria)と呼ばれる、

1612年にアントニオ・ネリによって書かれた条約を翻訳しました。

 

 

 

その条約の本題は、ガラス製造、特にベネチアンエナメルやガラス製品、

貴重な石のイミテーションについてのものでした。

 

 

 

これをイギリスのジョージ・ラベンスコルフトという人物が

独自のクリスタルガラスの製造に利用しました。

 

 

 

ベネチアと強いつながりがある職人の息子だったジョージは、

この条約によりいち早く産業レベルでクリスタルグラスの製造を始めることができました。

 

 

 

彼はガラス貿易を変革できるほどの文化的教養も経済力も持ち合わせていたため、

彼の作品により、イギリスがベネチアに変わって

18世紀~19世紀のガラス産業の中心地となっていきました。

 

 

 

 

ベネチアンガラス職人たち、特にセグ二オ・ダ・ラ・コスタの援助や、

ガラス販売ギルドの保護の元、ラベンスコルフトはさらに

ベネチアンクリスタルに変わるものを探し求めました。

 

 

 

 

彼は鉛ガラスを使ったガラス製品の生産を思いつき、1673年までに、

すべての生産的問題を解決し、その特許を獲得します。

 

 

 

これによりグラス、カップ、マグ、瓶に至るまですべて

鉛ガラスによるベネチアンガラスの製造が始まりました。

 

 

 

18世紀および19世紀のベネチアンガラス製造

18世紀に入ると、ムラーノ島にガラス産業の衰退の影が陰り始めました。

窯が閉鎖されることで失業率が上がり、労働者を一気に不安にさせました。

 

 

 

ベネチアの商業的、政治的勢力衰退により、ガラス産業を守るために設けられた

厳格な規律ももはや意味をなさなくなっていました。

 

 

 

 

ベネチアは1797年にナポレオン政権下にあったフランスに占領されると、続いて、

1814年にはハプスブルグ帝国に移譲されます。

 

 

これにより、ベネチアの共和制は完全に終焉を迎えました。

 

 

 

ムラーノ島のガラス職人は、オーストリア政権下の元で甚大なる被害を被っています。

導入されたガラス製造に関する規律は、

ボヘミア帝によってオーストリア政権に有利に作られていたからです。

 

 

 

これにより、重厚で彫刻も施されているボヘミアンクリスタルは、

ムラーノガラスの人気に追いつくまでになっていました。

 

 

 

 

ムラーノ島では、原料にかかる税金や制限された市場、1805年のギルト制度撤廃などにより、

窯の数は大幅に減少し、1800年には24に、そして1820年までには13にまで縮小してしまいました。

 

 

 

ガラス名人(マスター)たちは今やヨーロッパ全土に散らばり、

島に残った職人たちは装飾用のガラスビーズや小さな瓶、

また海外の植民地貿易用の安い宝石などを細々と作っていました。

 

 

 

ムラーノ島のガラス産業の衰退は、19世紀半ばまで続いた。

しかし1854年、フラッテリ・トスコという家族経営によるガラス窯が設立されます。

これに続き、アントニオ・サルビアーティという産業弁護士がムラーノ島で窯を開きました。

 

 

 

フラッテリは実用的なガラス製品を主に生産し、

一方サルビアーティはベネチアンモザイクの修理や新作の製造などをしていました。

 

 

 

この2つの工房とかかわりのある名人たちの中には、吹き製法の伝統的技術を保持する者や、

父や祖父から受け継いだ芸術を保ち続ける者、古代から続くガラス製法を再発見する者などがおり、

その中には1850年代にムラーノ島ガラス産業全盛期のときの洗練された製造技術の復活に

心血を注いだロレンツオ・ラディもいました。

 

 

 

この確かな運命の復活は、ムラーノガラス博物館を始めたヴィセンツォ・ザネッティの尽力も大きく影響しました。

 

 

 

この博物館は、学校の機能も持ち合わせており技術の指導も行われました。

こうして、失われた吹き製法技術の復活が、新しい窯の設立とともに徐々に始まりました。

 

 

 

サルビアーティの工房から出荷された作品は、1862年に開催されたロンドン世界博覧会と、

1867年にパリで開催された世界博覧会で国際的な認知を得ました。

これはサルビアーティの市場調査能力の高さによるところが大きいと思われます。

 

 

 

ロンドンでは、サルビアーティの会社は大胆にも、ラディによって復活された

吹き製法によるカルセド二ーグラス(Calcedonio)を展示し、見事入賞を果たします。

これにより国際的な注目をますます得ることとなりました。

 

 

 

10_BBLB_Chalcedony_Glass_1856

サルビア―ティによるカルセド二―グラスの水差し(1856)

 

その芸術性を国際的に認知されたことによって、ベネチアンガラスは商業的な成功を果たします。

サルビアーティの会社はすぐに1868年にロンドンに販売オフィスを設立します。

 

 

 

これらの率先した行動がベネチアンガラスの新しい市場を開き、

ハプスブルグ帝国の会社をも凌駕したのでした。

 

 

 

最終的にベネチアは1866年にオーストリア帝国から独立し、イタリア王国の一部となりました。

 

 

すると徐々にムラーノ島のガラス産業は商業的に広まり、フラッテリ(Fratelli)や

バロビエア(Barovier)、フランセスコ・フェロ&フィグリオ(Francesco Ferro & Figlio)といった

多くの革新的な会社が設立されることとなりました。

 

 

 

何世紀も前の伝統技術を受け継ぐだけでなく、ムリーン(murine) といった

ローマ時代から続く製造技術等の発見もされるなど、

ガラス職人たちはさまざまな偉業をなしとげていましたが、

ムラーノ島でガラス産業をもう一度活性化するにはさらに新しい技術が必要でした。

 

 

 

当時ムラーノ島のガラス職人たちは、

伝統的な技術の中で作品を作るべきという考えに縛られ、芸術的な制作を敬遠していました。

 

 

 

しかし19世紀末にアールヌーボー思想が出現すると、

芸術的なインスピレーションによる制作がムラーノ島でも始まりました。

 

 

 

しかしヨーロッパの芸術界においてはアバンギャルド思想に対する反応の方が大きかったのです。

 

 

 

このヨーロッパ全土における新しいアイデアの革命は、

1895年のベネチアのビエンナーレ(国際的な美術展覧会)に置いて全て見ることができます。

 

11_BBLB_Biennale_Poster_1895

1895年に開催されたベネチアビエンナーレの公式ポスター

 

この新しい芸術的概念はベネチアのガラス職人たちのアイデアの広がりに大きく影響しました。

彼らは非公式に話し合いを持ち、芸術的な思想やアイデアを交換しました。

 

 

 

このようなグループの中の1つで、カ・ぺサロ(Ca Pesaro)が参加したグループ,

「Berivilacqua La Masa Foundation」は、多くの芸術家が集まり、

ムラーノ島のガラス職人たちに新しいデザインのアイデアをもたらしました。

 

 

 

その中でも特に有名な芸術家が、ビットリオ・ゼッチン、ナポレオン・ナチムッチ、

ハンス・ストレテンバーグ・ラーチェ、テオドロ・ウルフ・フェラーリらです。

 

 

ベネチアグラスの新しい黄金時代になるべく、20世紀への準備が始まっていました。

 

 

20世紀におけるベネチアンガラスの製造の歴史

20世紀が始まる直前、伝統的な技術が見直される時代が続き、

ムラーノ島の吹き矢製法の品質や技術は衰亡の一途をたどっていました。

 

 

 

そこで吹き製法技術の継承者たちは、伝統技術の繰り返しを捨てその伝統技術に新しい技術を導入し、

現代風のスタイルとテイストを吹き込むことで、ムラーノ島を芸術の中心地として活性化しようとしました。

 

 

 

1950年代までには、ムラーノ島ガラスはその歴史的重要性を増し、

再びガラス製造において主要な存在になりました。

 

 

 

しかし、その間に起こった2つの世界大戦と経済不況などに阻まれ、

その復活への道のりは険しいものになりました。

 

 

 

1900年までにはフラッテリ・トッソのガラス製品は50年の伝統を持ち、

ムリーン(murrine)製法でよく知られるようになりました。

 

 

 

しかし、第一次世界大戦の勃発により、

トッソの製品の向上やムラーノ島ガラス産業の復活は一時中断されました。

 

 

 

サルビアーティ&Co.(The Salviati&Co)

(現在はSalviatiがなく、Compagnia di Venezia e Muranoに改名)は

トッソよりかなり国際的な名声がありましたが、1909年には製造を中止しました。

 

 

 

これはイギリス人後援者で考古学者のオースティン・ヘンリー・ハワードと

好古趣味で知られるウイリアム・ドゥレイク卿によって

ベネチア人実業家のトッソリー二氏に会社が売却されたためです。

 

 

 

彼はセントマークスクエアに数多くの店を構えており、彼の経営によって、

会社は生産を中断し、小売店への商品の卸しに専念しました。

 

 

 

1900年初頭、ミラノ人である2人が、変革を誓ってムラーノ島で提携関係を交わしました。

ミラノ出身であるパオロ・ベニーニとジアコモ・カッペリンです。

2人はベネチアンガラスの復活を表明しました。

 

 

 

1921年、彼らは「Vetri Scoffiati Muranesi Cappellin, Venini&C」を立ち上げました。

 

12_BBLB_Poala_Venini

パウロ・ベニーニ(1895-1959)(引用元:Venini)

 

パウロ・ベニーニは弁護士で、ガラス吹き製造の経験は全くありませんでした。

しかし彼には起業家としての才能がありました。

新しい考えに前向きで、芸術家や建築家たちと共同制作を行いました。

 

 

 

ジアコモ・カッペリンは、ベネチア生まれの美術商で、

ミランからモンテナポレオン(現在ミランの高級ファッション街として有名)に

アンティークショップを経営していました。

 

 

 

彼らの会社は現代的なデザインに重点を置いていました。

それは世界中を席巻し、ミランの芸術サークルでの話題の中心となっていました。

彼らは芸術ディレクターにビットリオ・ゼッチンを迎えて、ガラス製造を始めました。

 

 

13_BBLB_Vittorio_Zecchin

ビットリオ・ゼッチン(1878-1947)(引用元:Venini)

 

彼らの新しいデザインは瞬く間にイタリアのみならず海外にも広まっていきました。

この成功はベニーニが最初から会社を海外へ広めるということを目的にしていたことにあります。

 

 

この成功により、彼はその時代の最も才能のある芸術家との共同制作を模索し始めました。

 

 

 

ベニーニはまた、デザイナーとともに作品を作り始めました。

 

 

彼の名の下で作られたすべての作品をチェックしながらテイストを指揮していました。

 

 

ベニーニの自信に満ちた指導が、作品の品質と共にこの会社の商業的成功を確実なものにしました。

 

 

この発展により、会社はベニス、パリ、ミラノに多くの小売店を進出させました。

 

 

しかしながら、提携関係は長くは続きませんでした。

 

 

1925年にベニーニとコッペリンがわずか4年で退社し、独立したのです。

 

 

 

パウロ・ベニーニはナポレオン・マーチヌッチを経営者に迎え、

1925年に「Vetri Scoffiati Muranesi Venini&C」を始めます。

 

 

当時マルヌッチはムラーノガラス美術館を監督する彫刻家でした。

 

 

彼はプレゴッソ(pulegoso)という技術を発展させました。

 

 

1930年、この技術は分岐点を迎えます。

 

 

光沢のないガラスによって伝統を壊し、創造的な発想と試みによって

全く新しい方向性を切り開いたのです。

 

 

 

最初にベニーニがこの原料で作ったガラスの花瓶は

ムラーノガラスの復興を感じさせ、批評家たちに大いに歓迎されました。

 

 

 

一方、ジアコモ・カッペリンもまた1925年に「Maestri Vetrai Muranesi Cappellin &C」という

新しい窯を開きました。

 

 

 

 

前の会社から、芸術ディレクターのビットリオ・ゼッチン、

吹き製法名人のギオディエゴ・ブロビア、アティオ・モラート、マルビノ・パバネロ、

ジオバニ・セグソらをそのまま迎え入れました。

 

 

 

しかし1926年にゼッチンが会社を去ると、その当時まだ無名だった建築家、

カルーロ・スカーパを後任として迎えました。

 

 

 

この会社は経営的不振で1932年に倒産しますが、まもなくスカーパの作品は評判を呼び、

20世紀で最も革新的なガラス職人のひとりとしてその名を馳せるようになります。

 

 

 

会社が軌道に乗るまでの最初の数年間、スカーパはゼッチンに影響を受けた作品を作り続けています。

しかしそのうち歴史的な技巧を再導入したり、光沢のないガラスや明るい色を積極的に使うなど、

彼独自の路線を発見しています。

 

 

14_BBLB_Carlo_Scarpa

カルーロ・スカーパ(1906-1978)(引用元:Marcello Ottolenghi)

 

カッペリンの窯の倒産と時を同じくして、ナポレオン・マルヌッチがベニーニの元を去り、

ベニーニの元で働いた経験のある教育エンジニア、

フランシスコ・ゼッチンを共同経営者に迎え独自の窯(工房)を開きました。

 

 

 

これにより空いたベニーニの芸術ディレクターにはスカーパが就任し、

彼の独創的な技巧は「Venini &Co」で花開きました。ソマーソ(sommerso)のような

鋳造グラスを使って新しい作品を作り出す一方、彼はコッロソ(corroso)、

バッツート(battuto)、ファスセ(fasce)、ペネラッテ(pennellate)などの表面技巧を発展させました。

 

 

 

パオロ・ベニーニは日々のガラス生産に積極的に乗り出し、

スカーパと共同デザインの作品を作り始めました。

 

 

 

1936年の装飾ガラス作品を始め、彼はスカーパと共に

ムリーン・ロマーナ(muriine romana)を制作しました。

 

 

 

第二次世界大戦後、ベニーニは明るい色のストライプで装飾されたボトルや、

モザイコツァンフィリコ(mosaico zanfirico)やモザイコテスート(mosaico tessuto)による花瓶、

べトロモザイコ(vetro mosaic)による窓、そしてバッツート(battuto)による花瓶などを創作しました。

 

 

 

1950年代初頭、フルービノ・ビアンコーニとの共同制作において、

ファソレッティ(fazzoletti)やハンカチーフ花瓶などを創作し、

これはこの時代の第一級の作品の見本とされ、大いに成功しました。

 

 

 

もう一人、特筆すべき起業家でありデザイナーがいます。

1930年代に頭角を現したエロコール・バロビエです。

 

 

 

彼はベンベツーノ・バロビエの息子で、兄であるニコロと共に父の会社

「Vetreria Aristica Barovier&Co」の芸術部門を引き継ぎました。

 

 

 

1939年、兄弟は別々の道を歩み始めると、エロコールは当時「the Fratelli Toso」を経営していた

「Decio and Artemio Toso」との合併に成功。

会社名を「Barovie&Toso C.」としました。

 

 

 

 

50年間のキャリアの中で、バロビエは多くの装飾技術を発明し、

芸術ガラスの復活に多大なる貢献を果たしました。

 

 

 

1920年代、彼はムリーナ(muriina)を使った作品や完全なオリジナルである

プリマベラ(primavera)ガラスコレクションなどでその名を知られました。

 

1930年代になると、バロビエは新しい多彩色を使った実験に没頭します。

 

ついにそのテクニックを完成させ、「colorazione a senza fusione」と名付けました。

 

 

第二次大戦後バロビエはの興味は伝統的な技巧に移り、それを自分なりに解釈して発表しました。

1950年代から1960年代にかけて、彼はテッセラエ(tesserae)技法の新しい解釈を発表しています。

 

 

15_BBLB_Ercole_Barovier

エロコール・バロビエ(1889-1974)(引用元:Barovier &Toso)

 

「Pauly&C」.を見てみましょう。

1903年に誕生し、合併や買収を繰り返していたこの会社は、

サルビアーティやカッペリンによる初期の作品やデザインを

取り扱っていましたが、ガラス製造にも乗り出しました。

 

 

 

エミリオ・ポルティ、アレサンドロ・ヒクスバー・ヘルマン、

ヴィットリオ・エマニュエル・トルード、アーネスト・グラッツアデイらによって会社は成長していきました。

 

 

 

しかし1919年、「Pauly&C」は「Compania di Venezia e Murano」と共に

「Milan Societa Anonima Sanitaria」に買収されます。

 

 

 

しかし翌年、今度は「Gaetano Ceschina Of Millan」に売却されます。

新しく合併された会社は名前を「Paulty &C.-Compagnia Venezia Murano」と改め、

1925年にムラーノ島においてガラス生産を再開しました。

 

 

16_BBLB_Pauly_And_C_Factory

「Pauly&C」の玄関へ続く階段

 

「Paulty &C.-Compagnia Venezia Murano」は1933年に

「Maestri Vetrai Muranesi Cappellin &C」(or MVM Cappellin)を買収。

 

 

 

それは ジアコーモ・カッペリンによって1925年に設立されたガラス会社で、

この買収により「Pauly&C」はさらに成長を始めました。

 

 

また「MVM Cappellin」のデザイン権を同時に獲得。

 

 

その中にはビットリオ・ゼッチンやカルーロ・スカーパたちの

歴史的に貴重な初期のデザインや技巧も含まれていました。

 

 

 

このような数々の会社やガラス名人たちの努力によって、

ムラーノガラスは2つの世界大戦を生き抜くことが出来ました。

 

 

 

旅行や観光業の増加に伴い、新しい市場を開拓し、1950年代から1960年代にかけてのガラス製造は、

ムラーノガラスにとって芸術的に記憶に残る時代となりました。

 

 

 

さらに宝石製作者や高級ガラス彫刻家などと共同制作する中で、

ガラス製造もまた新しい方向へと進んでいきました❕

 

 

高級ガラス製品の膨大な製作費のために、ガラスビーズ製造はその販売網を失い、

その生産は日本、インド、中国といった地域に移行していきました。

 

 

 

しかしヨーロッパではチェコ共和国だけがガラスビーズの大きい市場であり続けました。

ベネチアやムラーノ島で残っているガラスビーズ産業もほとんどなく、

高級ガラス製品の中で細々とその製造を続けていくしかありませんでした。

 

 

次のムラーノガラスの新たな挑戦は、これはどの有名な製品にも言えることですが、

偽造品の問題でした。

 

 

 

1980年代以降、アジアの工場で伝統的なムラーノガラス製品や、花瓶、

ミレフィオリ(millefiori)製品、ガラスビーズに至るまでレプリカが作られ始めました。

 

 

 

その後20年ほどで、安価な労働力で洗練されたムラーノ製品のレプリカを製造するまでになりました。

例えば、インドのガラスビーズ製造工場では、1980年代の中頃から、茎模様に使う棒状のガラスを使って、

ロゼッタまたはシェブロンビーズ(rosetta or chevron)の製造を始めました。

 

 

 

しかし限られた原材料の中で製造するため、これら「まがいもの」はビーズの

V字スターの部分の取り付けが悪く、それで見分けがつきました。

 

 

 

10年後、中国のシェブロンビーズがヴェネチアンシェブロンビーズと全く同じ用法で製造され、

見分けがつかないほどの品質を保っています。

ムラーノガラスビーズの秘密などもうこの世には存在しないのです!

 

17_BBLB_Chevron_Beads_Comparison

セット1-ベネトリアンロゼッタビーズ(1650年頃)

セット2-インド製シェベロンビーズ(1980年頃)

セット3-中国製シェベロンビーズ(2005年頃)

 

製品の品質と利益を保護するため、プロモべトロ(the Promovetro)や

ガラスメーカー協会は、フランス人アーティストのマスエウ・シバウット氏による

ムラーノガラスの標章を作りました。

 

 

 

「cana de soffio」というガラス吹きを表す薄紫色のマークとイタリア語で

「芸術的ガラスムラーノ」と書かれた文字で構成されています。

 

 

 

この標章により、外国のガラス会社がコピーをすることがより難しくなった。

2002年、EUにおいて標章登録されました。

 

18_BBLB_Glass_Trademark_Murano

今日、世界で最も権威のあるガラスブランドのいくつかは、

今もなおムラーノ島の歴史的なガラス工房で作品を作り続けています。

 

 

 

最も著名な会社は「Barovier&Toso」、「Venini」、「Paulty」、「Seguso」です。

「Barovier&Toso」は、世界で最も古い会社100の1つに

「1295年に設立された会社」としてギネス認定されています。

 

 

 

このような深い歴史と、素晴らしいガラス名人たちによる努力の結晶であるベネチアンガラス。

観光客用のお土産グラスの品質くらいは、大目に見てあげようではありませんか。

 

 

 

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妹尾 満隆

妹尾 満隆

合同会社SENOO商事の代表をしております妹尾満隆と申します。

ウェブという情報を発信してる人が見えてない中で、いろんな間違った情報がネット上にあるのを度々見かけます。

特にアンティークにおいては

・間違った情報
・信ぴょう性のない情報
・そもそも情報がない

などたくさんの課題がありました。

そこで私は、これまでのお客様との取引の実績、知識、経験、情報を元に正しい情報をウェブを通して発信していくことを会社の方針と掲げました。

ただ物を売る会社ではなく、これまでブラックボックスとされてきてた商品の真贋の見分け方を発信するというのが大切なことではないかと思ったからです。

なぜならアンティーク品の場合は情報量の不足から、買い手側が圧倒的に不利な立場にあったからです。

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